66 ハッピー・アップルパイ
2月14日、土曜日。
今日は龍之介がうちに来る。
一日中、一緒に過ごすため。
きのうの夜、電話でその話をしながら、龍之介は「結婚前のお試し。」と笑っていた。
龍之介がそう言ってくれたことが嬉しくて、でも、それを知られてしまうのが恥ずかしくて、あたしは気のない返事しかできなかった。
そうしながら、それほど嬉しいことが不思議で。
だって、プロポーズされたからって、急にそんなに変わるもの?
ついこの前までの “友達” が “結婚相手” に変わったからって、どうしてこんなに違うんだろう?
こんなに心が浮かれてるのは、どうして・・・?
そんな疑問の合間に、龍之介との会話を想像して笑顔になっている自分に気付く。
ほんとうに不思議。
バレンタイン・デイに龍之介に何かプレゼントをしようと思っていたけど、木曜日も金曜日も仕事が忙しくて買いに行けなかった。
だから今日、二人で一緒に選ぼうと思っていたのに、龍之介は「部屋でのんびりしたい。」なんて言う。
「外に出かけたら、いつもと同じだろう?」
って。
たしかにそうだけど・・・。
あたしは龍之介と一緒なら、どこにいても楽しいと思う。
“一日中” だからと朝の8時過ぎに、龍之介は歩いてやって来た。
ちょうど朝食が終わったところだったあたしと一緒にコーヒーを飲みながら、一日の予定を話し合う。
今日の龍之介は白いフリースのハイネックにフードつきの深緑色のセーターとジーンズ。
リラックスした上機嫌の龍之介。
――― この人は、あたしの結婚相手。
「ふふ。」
ほわっと浮かんだ認識に、思わず笑いが。
そう。
あたしは龍之介と結婚するんだ。
なんだかドキドキして、わくわくして、楽しい!
龍之介も?
「休みの日は、いつも何をしてるんだ?」
現実的な話題・・・。
「いつも? いつもはお掃除とか洗濯とか・・・あとは買い物して、のんびりして・・・。」
「よし。じゃあ、まずは掃除と洗濯をしよう!」
「え?」
「どうして? 俺だってそのくらいはできるぞ。」
洗濯物はもう干すだけだし、龍之介には見られたくないものもある。
でも、せっかく張り切ってるんだから、お掃除はやってもらおう。
「わかった。一緒にね。あとは?」
「買い物・・・?」
「うん、スーパーでね。でも、それだけだと用事は午前中で終わっちゃうね。あとはのんびり?」
「あの・・・紫苑。ちょっと頼みが・・・。」
「なあに?」
「ええと、その・・・、アップルパイって・・・今日、作れる?」
「アップルパイ?」
「あの・・・紫苑のアップルパイが・・・食べたいんだけど・・・。」
ああ・・・龍之介。
幸せが、今までの10倍くらいになったみたい!
言われてみて分かった。
龍之介のためにアップルパイを作りたかった。
「紫苑のアップルパイが食べたい」って言ってくれるのをこんなに待っていたんだ。
「りんごとバターだけ買ってくれば、ほかのものはあるから大丈夫。龍之介も一緒に作ろうね。」
あたし、ほんとうに嬉しいの!
「あ、でも、すぐには食べられないかも知れないよ。」
「いいよ。明日も来るから。」
明日も一緒?
嬉しい!
午後。
りんごを詰めたパイ生地の縁を、龍之介と二人で波型に整える。
これが終わったら、溶き卵を塗って焼くだけ。
二人とも手を粉だらけにして、龍之介は鼻の頭と目の横にも粉がついている。
「紫苑、けっこう上手いな。」
慣れない手つきでひとつのギザギザを作るたびに自分の出来栄えをながめていた龍之介が感心して言った。
「それほどでもないけど・・・まあ、龍之介よりはね。3回目だから。」
「3回目? じゃあ、俺が食べなかったのがあるんだな。残念だったなあ。」
あ。そうか。
「龍之介、違うの。龍之介は全部食べてるよ。」
「え?」
「ほんとうはね、最初に龍之介が食べたのも、真由じゃなくてあたしが作ったんアップルパイだったんだよ。真由に教えてもらいながら。」
「ええ? なんで友達が作ったなんて言ったんだよ?」
「恥ずかしくて言いにくかったんだもん。それにあれは試作品で、龍之介にあげるつもりじゃなかったし。」
「ふうん。・・・ってことは、紫苑は最初から上手に作ってたんだな。」
「えへへ、まあね。あのときはたくさん褒めてもらって、すごく嬉しかったよ。あれでやる気が出たの。」
「そうか。」
「うん。・・・あ、そうだ。」
「どうした?」
「あたし、龍之介には試作品しかあげてなかったよね。だから、今回が本番だ。」
「だとしても、今回で終わりじゃなくて、これから何十回も食べたいよ。」
「ありがとう。これからも一緒に作ろうね。」
何十回も、何百回も。
そういえば。
「あたしね、あのとき、龍之介には好きな人ができたんだと思ってたんだよ。」
「あのとき?」
「龍之介に冷たくされたとき。」
「紫苑・・・。」
龍之介がすまなそうな顔をする。
「誰か好きな相手ができたから、あたしが近くにいたら困るんだと思ったの。」
「そんな相手、誰も・・・。」
「わかってる。責めてるわけじゃないの。でも、それ以外に理由が思い付かなかったんだもの。」
「ごめん・・・。」
「もういいんだよ、それは。でね、ときどき、 “その人は美味しいアップルパイを作るのかなあ。” って考えてたの。」
「アップルパイを?」
「うん。たぶん、『アップルパイはもういい。』って言われたのが龍之介の態度が変わったときの最初だったし、その前にアップルパイをすごく褒めてくれていたから、これがいらなくなるほどの人なのかなって、けっこう悔しくて・・・。」
ん?
悔しい?
自分で使った言葉が引っかかるなんて。
変なの。
「・・・紫苑。」
おずおずと、今度は龍之介が問いかける。
「なに?」
「あの、優斗と・・・き、共同作業って、何を・・・。」
共同作業?
秋月さんと?
共同作業・・・。
龍之介はあたしと目を合わせないように、手元に集中しているふりをしている。
なんだろう? 訊きにくいこと?
「ああ! あれか!」
「そ、そう、それ。」
なんのことか知らないくせに。
龍之介、あせってる?
なんだろう?
「ケーキのデコレーションだよ。」
「え? ケーキ? 優斗が・・・無理矢理・・・?」
“無理矢理” って・・・なんでそんな表現?
混乱してるみたいだけど・・・?
「生クリームで飾り付けをするときに、秋月さんが一緒に。それが結婚式でケーキを切るのと似てたから・・・。龍之介。秋月さんからなんて聞いたの?」
あやしい!
「いや、いいんだ、べつに。」
「教えて。」
「言わない。」
「くすぐっちゃうよ?」
「だめっ!」
飛びのいた。そんなに苦手なのか。
「教えてほしいなあ。」
にっこり。
「・・・だめ。」
効かないか。
「どうして?」
「紫苑は・・・知らない方がいい。」
「じゃあ、龍之介はどうして・・・あ、もしかしたら・・・。」
ああ。
そうなの?
だから?
「やだ! 龍之介! そうなの?」
「なんだよ?」
警戒した表情で立っている龍之介に一歩近寄る。
「もしかして、焼きもち?」
あたしの言葉に2、3度まばたきすると、そのまま横を向いた。
「龍之介って、実は焼きもち焼きなの?」
「今ごろ・・・。ふん。」
そうか。
だから今まで、あたしが秋月さんの話をするたびにあんなに拗ねてたんだ。
・・・真鍋さんのことも。
ん? 焼きもち・・・?
ああ!
もしかして?
「龍之介、あたしもだ。」
「え?」
「あたしも焼きもちを焼いてたんだ。」
そうだよ!
だから、あんなふうに考えて・・・。
龍之介はあたしのことが好き。
焼きもちを焼いてしまうくらい、あたしのことが好き。
そして、あたしも。
目の前の龍之介にぎゅうっと抱き付いた。
「あ〜! そんな手で! 粉がつく!」
いいじゃない、そんなこと。
「龍之介、大好き。」
自然に言葉が出てきた。
こんなに簡単なことだった?
だから、龍之介に好きって言われたことがあんなに嬉しかったんだ。
ほかに好きな人ができたと思って、悲しくて、悔しかったんだ。
どうして分からなかったんだろう?
意固地に “龍之介は友達” なんて決めつけ続けて、あたしはほんとうに頑固者だ。
龍之介が笑いながらそうっと抱きしめ返して言った。
「今ごろ分かったのか?」
え?
「俺はこの前から知ってたけど。」
「・・・いつ?」
「仲直りした日。」
知ってた?
あたしが知らなかったのに?
そういえば、あのとき、あたしの気付いていないことを知ってるって・・・。
秋月さんも?
恥ずかしい・・・けど、いいや。
ほんとうのことだもの。
心の中が幸せでいっぱいになる。
「大好き。」
もう一度口に出すと、心の中の幸せが部屋中にあふれ出すような気がした。
大好き。大好き。大好き。
迷わずにこの言葉が使える。
なんて楽しいんだろう!
「紫苑。愛してる。」
そのまま龍之介と恋人のキスを交わして・・・二人とも粉だらけになって笑った。
次回、最終話です。