65 どう思う?
マンションの玄関を抜けながら思い出した。
プロポーズしてくれた龍之介に、あたしは話さなくちゃいけないことがある。
婚約していたことがあること。
これは、過去に恋人がいたかどうかとは別の問題だと思う。
この話をしたら、龍之介はなんて言うだろう?
プロポーズを撤回する?
・・・怖い。
でも、話さないままにするのも怖い。
話さなくちゃ。
龍之介は隣でそわそわしている。
エレベーターを待ちながら、龍之介の右手があたしの左手を取った。
不意打ちで驚いたのと、恥ずかしい気持ちの両方で龍之介を見たら、
「手をつなぐのは初めてだよな。」
と楽しそうに言う。
たしかにそうだ。
そういえば、秋月さんとも手をつないだことはなかった。
・・・握られたことはあるけど。
「人前で抱き合ったことはあるのに。」
え?!
やだ、そんな恥ずかしい・・・!
「さっきは、ちょっと油断して。」
「さっきじゃないよ。誰も通らなかっただろ?」
「じゃあ、あの・・・去年?」
「去年?」
「あの・・・『月うさぎ』の帰りに・・・。」
それもまた思い出すと恥ずかしくて、顔を伏せてしまう。
「ああ、あのときも、誰もいなかったじゃないか。」
龍之介はあたしがわからないからって、嬉しそうな顔をしてる。
なんだか悔しい。
もう!
あれ以外で、龍之介と抱き合ったことなんて・・・?
「誰か、ほかの人と勘違いしてるんじゃないの?」
だーれーかーと!
あたしとじゃなくて!
つないでいる手を離そうとしたら、ぎゅっと掴みなおされた。
「覚えてない?」
龍之介がニヤニヤする。
何かを企んでるような顔だ。
「ないよ。一度も。」
否定してみるけど、龍之介の表情を見ていると不安になってくる。
もしかしたら、酔っ払ったときにみんなの前で・・・とか?
今まで、飲み過ぎで記憶がなかったことなんてないけど?
ポーン、と音がして、エレベーターの扉が開く。
「3階だっけ?」
あたしの手を引いて先に乗り込んだ龍之介が尋ねた。
得意気な顔をしている龍之介がにくたらしくて、あたしは不機嫌にうなずくだけ。
「スキーのとき。」
「え?」
「紫苑にスキーを教えたとき。」
「ええっ?! あれのこと?!」
「うん。大勢の前で何度も堂々と・・・。」
「やだ! もう! そういう意味じゃなかったもん!」
「そうか? 俺はそういう意味だったけど?」
そんな・・・。
あのとき、真鍋さんも、美乃里ちゃんも・・・、みんないたよね?
みんなはどんな目で・・・? 恥ずかしい!
「幸せだった〜。」
「龍之介のばか。」
エレベーターを降りると、龍之介がまたそわそわしはじめた。
もう・・・せわしないな!
「紫苑の部屋に入る男って、俺が初めてだよな?」
あれ?
そういうこと、気になるんだ?
あたしがずっと彼氏がいなかったと思って、安心してるんだな。
ふうん。
「違うよ。」
「え? うそ?」
ふふーん。
そうやって焦ればいいんだ!
さっき、あたしにあんなこと言って、驚かせた罰だ!
「本当だよ。今までに3人くらいいるよ。」
「3人?! 2年ちょっとで?!」
「うん。」
「そんな・・・。紫苑、いつの間に? どこの誰だ? 優斗か?」
あら。
秋月さんの名前を出すなんて、けっこう本気で焦ってる?
まあ、この辺で許してあげよう。
ドアの前に着いたし。
「あのねえ。」
カギを開けながら、吹き出してしまった。
「引越し屋さんとお父さん、だよ! はい、どうぞ。いらっしゃいませ。」
玄関に入って、情けない顔で脱力している龍之介を招き入れる。
緊張気味におずおずと歩いて来る龍之介を案内して、明かりを付けながら部屋に入ったら、龍之介が赤くなって下を向いた。
「紫苑。あの・・・。」
今さら・・・?
あ、もしかして、トイレ?
「洗濯物が、ちょっと・・・。」
!!
やだ〜〜〜〜〜!!
誰かを部屋に上げる予定なんてなかったから!
少しでも太陽の光に当てたくて、リビングに室内用物干しを置いて干している洗濯物。
そこには下着類も堂々と・・・。
「ご、ごめん。ちょっと後ろ向いてて。」
もう・・・恥ずかしい!
誘惑してるわけじゃないからね!
「あたし、婚約していたことがあるの。」
とにかく最初に話してしまおうと思って、電気ポットにスイッチを入れながら話を始めた。
もしも龍之介が前言撤回して帰ってしまっても、それは仕方がない。
他人にきちんと説明するのはあれ以来初めてで、なんとなく言葉が出にくかった。
「婚約?」
小さなダイニングテーブルに肘をついて、目であたしの動きを追っていた龍之介が尋ねる。
「そう。大学生のとき。」
コーヒーの仕度をしてあちこち動き回りながらだったら、龍之介の顔を見ないで済む。
あたしに失望した顔をされても・・・。
「相手はお母さんの主治医の先生で、あたしが大学を卒業したら結婚することになっていたの。」
「・・・別れたのか?」
「ただ別れたんじゃないの。あたし・・・捨てられたの。」
もう平気だと思っていたのに、声が震えてしまった。
涙は辛うじてひっこめることができたけど。
「卒業する半年前に、向こうに院長先生の娘さんとの縁談が持ち上がって・・・、すぐに『別れてほしい。』って。」
胸がきりきりと痛い。
やっぱり、今でも辛いよ。
「それで・・・?」
「うちの親はすごく怒ったけど、もうあたしに気持ちが向いていない人と一緒にいることなんかできないって親を説得して・・・。」
もう、誰の愛情も信じないって心に決めた。
誰のことも愛さないって。
だけど・・・。
「そのせいなのか?」
え?
「そのせいで、紫苑は自分の恋愛話を怖がっていたのか?」
「龍之介・・・?」
「紫苑がそういう話題を避けているのは、最初から気付いてたよ。」
気付いてた・・・?
最初から・・・?
あたしの顔に浮かんだ問いかけに、龍之介は笑ってうなずいた。
「誰かにそういう話題を振られると、紫苑はいつも、のどに食い物を詰まらせたような顔をしてたからな。」
隠していたつもりだったのに・・・。
だけど、もう少しデリケートな表現はできないのかな?
「ほら、そうやってすぐに顔に出る。」
そう言って、龍之介がくすくす笑う。
それから、また優しい表情に戻って。
「だから、俺は今まで何も言わなかった。紫苑のそばにいるために。」
“紫苑のそばにいるよ” ―― 。
そう言ってくれたのは、誰?
「紫苑。つらかったな。」
龍之介の声に、手繰り寄せようとした記憶の切れ端が消える。
「一人で耐えてきて、つらかったな。」
龍之介・・・。
「でも、」
龍之介が背筋をまっすぐに伸ばして、決意を込めた目であたしを見る。
「もうこれ以上、紫苑に一人ぼっちの淋しい思いをさせたくない。」
「淋しい・・・思い・・・?」
「紫苑が淋しいときにはそばにいたい。俺を頼ってほしい。ずっと一緒にいて、一生、紫苑の笑顔を守りたい。そのために結婚したい。」
「龍之介・・・。」
あたしは・・・。
湧いたお湯でコーヒーを淹れるあいだ、立ちのぼる湯気をぼんやりと見た。
龍之介はあたしが婚約していたことも、その相手に捨てられたことも、全部まるごとあたしだと思って受け止めてくれている。
あたしが心に傷を負っていることに気付いて、何も言わずに、ずっと見守っていてくれた。
心が・・・解けて行く・・・。
テーブルにはコーヒーが2つ。
向かい側には肘をついた手にあごを乗せて、やさしくあたしを見ている龍之介。
カーテンを引いて電気を点けた部屋なのに、一瞬、明るい朝の光の中で笑いながら話している光景が浮かんだ。
それは・・・これから起きること?
両手で包みこんだカップを見つめてみる。
中のコーヒーは静かで、何も言わない。
「龍之介は・・・ずうっとあたしのことを好きでいてくれる?」
顔を上げたら、龍之介の真剣なまなざしと出会った。
出会ってからもうすぐ3年になるのに、龍之介のこんな顔を見たのは初めてかもしれない。
そういえば、この秋から、龍之介との “初めて” はたくさんあった・・・。
「紫苑。約束する。ずっと紫苑のことを愛して、大切にしていく。」
・・・聞きたかった言葉。
未来のことなんて、ほんとうは何の保証もない。
だけど、龍之介の言葉なら・・・信じよう。
視界の中の龍之介が歪んで、涙が・・・、と思ったとたんに溢れて止まらなくなってしまった。
「うん・・・、うん。あり・・・がとう。」
手で涙をぬぐいながら、辛うじて言葉を絞り出す。
いつの間にかテーブルをまわりこんで隣に来た龍之介に、横からやさしく抱き締められた。
「全然気付かない紫苑を3年近く想いつづけたんだぞ。俺の根気良さを認めろよ。紫苑が俺を捨てようとしても、絶対について行くからな。」
もう・・・、龍之介ったら!
あたし、もう笑顔になってる。
「紫苑。結婚しよう。一緒に幸せになろう。」
「ずっと一緒に・・・?」
「うん。ずっと一緒に。」
ずっと、龍之介と一緒に。
「あたし、龍之介のことは今まで友達だと思ってた。だからまだ今は、ちゃんと龍之介のことを好きなのかどうか分からない。」
龍之介があたしの両肩に手をかけて、顔をのぞき込む。
「まだそんなことを・・・。」
「でも、」
でもね、龍之介。
「龍之介が『好き』って言ってくれたことが嬉しい。龍之介とずっと一緒にいたい。それって・・・どう思う?」
「・・・紫苑が俺と結婚するってこと。」
龍之介が力いっぱい抱き締めてくれて、あたしはとても幸せな気分になった。