51 どこかが違う
1月5日の月曜日から仕事が始まった。
あわただしく新年のあいさつを交わし、パソコンに向かう人、外へ出かける人、社内を巡る人・・・。
朝、駅で秋月さんと会うのも久しぶり。
変わらない屈託のない笑顔に心がなごむ。
「金曜日、忘れないでね。」
初日の別れ際、秋月さんが念を押す。
微笑んでうなずいている頭の端で、小さな不安がひっかかる。
・・・いいの?
でも。
“いいの?” って、何が?
・・・わからない。
秋月さんは、あたしがまだ自分の気持ちがはっきりしないことを知っている。
それでもいいって言ってくれた。
あたしは自分の気持ちをはっきりさせるために、秋月さんとの時間を作らなくちゃ・・・。
火曜日。
お昼休みに美歩が来た。
「同期の新年会の計画なの。今週の金曜と、来週の水曜だったらどっちがいい?」
今回の幹事は美歩と土井くん。
「今週の金曜日は予定があって・・・。」
「あ、もしかして、いつものメンバー? ねえ、今度一回、あたしも入れてよ。」
「うん、それはかまわないと思うけど、金曜日はそれじゃないの。」
「へえ、紫苑が違うグループで飲みに行くって珍しいね。学生時代のお友達とか?」
「いや、ええと・・・秋月さん。」
秘密にするとあとで困るような気がして正直に言うと、美歩がきれいに整った眉を寄せる。
「秋月さん? 紫苑が? 二人で?」
「・・・うん。」
「それは・・・紫苑は秋月さんと “決まり” ってこと?」
急いで首を横に振る。
「違う。そうじゃない。ただ・・・、」
どう説明したらいい?
「“お試し” かな?」
美歩がいたずらっ子のような微笑みを浮かべて言う。
・・・ “お試し” 。
まさにそんな感じだけど、そんなにはっきり言ったら秋月さんに申し訳ない。
困って口をつぐんでいると、美歩がくすくすと笑った。
「紫苑もやっと考えるようになったんだね。」
「まだ何も決まってないんだからね。」
これだけはきちんと言っておかなくちゃ!
「分かってる。でも、候補者ができたってことだよねー。」
・・・そうだな。
たしかに。
変なところで感心しているあたしに、美歩は楽しそうにささやく。
「近いうちに進行状況を教えてよ。美乃里と知佳ちゃんも誘ってさ。」
「進行状況なら、知佳ちゃんの方が聞き甲斐があるんじゃない?」
「あっちはうまく行き過ぎてて、聞いても面白くないもん。紫苑みたいに悩む話じゃなくちゃ。」
やっぱり酒の肴?
「よし。紫苑は今週の金曜日はダメ、と。じゃあね〜。」
他人から見たら面白いんだろうか?
あたしは悩んだり、困ったりしてばっかりなのに。
金曜日。
秋月さんと駅前で待ち合わせて、隣の駅にある居酒屋へ。
居酒屋と言ってもゆったりしたフロアのお店で、女性客やカップルが多い。
新年の金曜日とあって混んでいたけれど、大きな声で騒ぐお客さんがいなくて、話しやすいお店だった。
あたしの中では少しだけ、掴みどころのない不安がつきまとっていた。
でもそれも、秋月さんと話しているうちに、いつのまにか消えてしまった。
・・・というか、秋月さんと一緒にいるときには、深刻に悩んでいられるような雰囲気にはならないのだ。
なにしろ、楽しい。
すぐに笑えてしまう。
困っていることを話していても、秋月さんのひとことで、それが他愛のない冗談や、取るに足りない些細なことと思えるようになる。
気持ちが軽くなって、余裕が生まれる。
これが秋月さんの強さなんだ。
話しているうちに、ふと思った。
嫌なことを、視点を変えることによって、少し違うものに変える。
逃げるのではなく、避けるのでもなく、立ち向かうための一つの方法。
嫌なことはやっぱりそこにあるけれど、ちょっと立ち位置をずらして、乗り越えやすくなるように。
秋月さんの明るさは、その強さから生まれてる。
どんなことからも逃げない強さ。
どんなことにも立ち向かおうとする意志。
だから、覚悟ができる・・・。
あたしは、ずっと逃げてきた。
嫌なことを見ないようにして。
嫌なことにぶつからないようによけているから、前に進まなかった。
だから、覚悟もできないままだった。
自分は一人で生きていけるなんて強がっていたけれど、ほんとうは弱い人間だった。
秋月さんと話して一緒に笑いながら、そんな想いがじんわりと心に沁み込んできた。
「ほんとうに、一人で大丈夫だから。」
ホームで電車を待ちながら、秋月さんに言う。
「でも。」
秋月さんは心配そうな顔。
「このくらいの時間なら一人で帰ることもよくあるし、今日はそれほど飲んでないから。」
「だけど。」
「だって、秋月さんの家、まだずっと遠いでしょう? わざわざ乗り替えて送ってもらったら申し訳ないよ。」
乗り換えの駅まで「送る」「大丈夫」の議論を繰り返し、最後にはあたしが勝って、秋月さんは改札口から出ずに見送ってくれた。
次の路線の改札口は百メートルくらい先。広い地下通路を斜めに横切っていく。
まだかなり混んでいる通路を、ほかの人とぶつからないように歩く。
ところが、改札口が近付いてほっとしたとたん、右から速足で歩いて来た人とぶつかった。
「ごめんなさい!」
あーあ。
やっぱり、相変わらずダメだよね・・・。
荷物が飛んでいかなくてよかった。
「紫苑?」
この声・・・。
「龍之介。」
黒いコートとツンツン頭。
「悪い。大丈夫か?」
そう言って、周囲を見回す。
肘をつかまれて、通路のはしへと引っぱられながら、今週は全然顔を見なかったなあ、と思う。
休み明けで、みんな忙しいもんね。
「優斗と一緒じゃなかったのか?」
あれ? 知ってたの?
「一緒だったよ。さっきバイバイしたところ。」
どうしてそんな怖い顔するの?
「送ってもらわなかったのか?」
「送るって言われたけど、いいって言ったの。まだ早いし、秋月さんは家が遠いから。」
「何やってんだよ・・・。」
龍之介が呆れた顔をする。
「だって、大丈夫だもん。」
そう答えたら、龍之介はまた怒った顔をした。
「いいか。送るっていうのは、ただ心配だからだけじゃないんだ。好きな相手と少しでも長く一緒にいたいから、遠まわりでもなんでも送るんだ。そのくらい、ちゃんとわかっとけ。」
好きな相手と少しでも長く・・・。
「・・・ごめんなさい。」
そんなことが分からないなんて、あたしは相手の気持ちを何も考えていないってことだ。
どうしてこんなに何も知らないんだろう? 一応、婚約までしていたのに・・・。
「今日は俺が送って行く。」
「え? あの、大丈夫だよ、まだ早いし。」
龍之介はべつにあたしのことを好きなわけじゃないんだから、そんなことしてもらっちゃ悪い。
「いいんだよ。帰るついでだから。」
帰るついで・・・。
「うん・・・。じゃあ、お願いします。」
でも・・・やっぱり怒ってるの?
いつもの電車。
いつもの道。
今まで何度も龍之介と一緒に帰った。
なのに・・・今日は違う場所みたい。
穏やかな会話。
冗談を言って笑ったりもしてる。
だけど、違う。
足りないものは何?
届かない。
・・・何が?
マンションの玄関を抜けてエレベーターの前で振り向く。
龍之介が手を上げる。
それに応えて、あたしも。
いつもと同じ・・・はずなのに。
届かない。
エレベーターの壁で頭を冷やしても、答えは出なかった。