5 秋の花
今朝の人に間違いないよね?
知り合いだったんだ。
でも、・・・誰だろう?
大急ぎで記憶をたどる。
顔では分からない。年は同じくらいだと思うけど。
今朝見たとおり、普通のスーツ。
学校時代の知り合いでは・・・ないと思う。
持っている黒いビジネスバッグも普通によく見かける感じだけど、もう一つの大きな薄いケースは、何か図面が入っている? ってことは、設計とか、不動産関係・・・なの?
だめ。
思い出せない!
慌てているあたしの前のその人は、目をぱちくりさせたまま、あたしを見ている。
こんなに驚いてるってことは、ものすごく久しぶりってこと?
それとも、ここで会うことが予想外だったから?
でも、こんなに一瞬で、あたしのことがわかったなんて・・・。
もう、訊いちゃった方がいいや!
「あのう・・・、ごめんなさい。どこでお会いしたのか思い出せないんですけど・・・。」
「え?」
あたしの質問にハッとして、その人は何度か瞬きをした。
「え、ええと、・・・今朝?」
・・・今朝?
え?
ってことは、やっぱり初対面・・・だよね?
「え? あれ? あの、名前を今・・・?」
しかも、下の名前だよ?!
なに?!
もしかして、ストーカー・・・?
「名前?」
あれ?
首をかしげてる?
・・・やだ!
もしかして、聞きちがい?!
みっともない!
「ごっ、ごめんなさい! わたしの聞き違い・・・・・。」
そのとき、その人はふっとあたしから目を離し、あたしの肩の後ろの方を見て、何かを了解したように明るい表情をした。
それからもう一度、あたしを見て。
「紫苑さん?」
今度は聞きちがいじゃない・・・よね。
「・・・はい。」
うなずきながら返事をする。
間違いなくあたしの名前だけど、何故知っているのか納得できない。
やっぱりストーカーでは・・・?
爽やかな普通のサラリーマンに見えるけど、見た目だけじゃ、どんな人かはわからないもんね。
もう少し距離を取ろうと足を動かしかけたところで、その人がにこにこしながら、もう一度、あたしの肩越しに何かを見たことに気付いて振り向くと ―― 。
紫苑の花が揺れていた。
遊歩道から少し下がったところにたくさん。
細い緑の茎の先に薄紫色の花びらの小さめの花をいっぱい咲かせて、ゆらゆらと風に吹かれて。
「驚かせてすみません。僕、独り言を言うクセがあって。」
恥ずかしそうに頭をかきながら、その人は下を向いてそんなことを言う。
独り言・・・。
つまり、名前を呼ばれたと勘違いしたのはあたし?
恥ずかしい!
しかも、ストーカーの疑いまでかけたりして!
「あのっ、こちらこそ、すみません! ただの独り言に反応したりして・・・!」
慌てたあたしは不用意に「ただの独り言」なんて言ってしまい、その人はまた今朝みたいな気まずい顔をする。
ああ、もう!
あたしっって、どうしてこうなんだろう?!
他人に聞こえるような独り言って、恥ずかしいに決まってるのに、わざわざ声に出して言っちゃうなんて。
「あ、あ、あの、ごめんなさい! 失礼しました!」
もうこれ以上は無理!
ごめんなさい!
頭を下げて、振り向いて走り出す。
ごめんなさい!
一日に2回も気まずい思いをさせたりして!
きっと、もう会いませんから大丈夫です!
「・・・というわけで、ダッシュで逃げて来たの。」
「ははは! 紫苑らしくて笑える!」
社内の友人たちと来ている居酒屋。
テーブルの向かい側で龍之介が大きな声で笑う。
「紫苑って、感覚器官と口が直結してるみたいだもんな。」
「・・・何よ、それ?」
「つまり、見えたり聞こえたりしたことに対して、脳を通さないで口が動くってこと。」
「何言ってんの? ちゃんと返事とか会話になるんだから、脳で反応してるに決まってるじゃん! むしろ、反応が速いってことでしょ。」
「紫苑の場合、ちょっと惜しいんだな。反応する前に、 “言っていいことかどうか考える” っていうのがないと、大人とは言えないよなあ。」
「ふん! 龍之介だって、自慢できるのは体力だけのくせに!」
龍之介 ―― 高木龍之介は同期入社の友人。
入社時から不思議と気が合って、お互いに遠慮なく何でも言い合える間柄。
なぜか最初から、あたしのことを名前で呼んでいる。だから、あたしもそうしている。
“龍之介” なんて文豪と同じ名前でありながら、まるっきり体育会系人間で、忙しい毎日でも筋トレやジョギングを欠かさないらしい。
背が高いし、今みたいにワイシャツ姿になっていると、がっちりした体格であることがよくわかる。
ツンツン立てた短い髪と、切れ長な目のちょっと精悍な顔つきは、サバサバした性格とよく合ってると思う。
「わたしは谷村さんに “運命の出会い” じゃないかって言ってるんですけど、谷村さんは笑い飛ばすだけなんですよ。」
午後にあたしから話を聞いていた金子さんは、隣で不満げな口調。
肩からくるくると胸元にかかる長い髪と、からし色のリボンブラウスが女の子らしくてとても可愛い。
「紫苑にはそんなのあり得ないな! あったとしても、紫苑の性格じゃ、出会った途端に、相手がびっくりして逃げて行くだけだろう。」
ガハハ、と豪快に笑って否定されたことに「失礼な!」なんて怒ったようなふりをしながら、心の中でほっとする。
普通の女の子の金子さんがロマンティックなシチュエーションに憧れるのは当然で、あたしもある程度は普通の女の子の反応をしなくちゃいけない。
でも、本当にそんなことが起こるのはイヤ。怖い。
考えただけで、ドキドキして、手が震えそうになる。
だから龍之介が、あたしにはあり得ないと保証してくれたことが、あたしにはとても有難いのだ。
「だけど、珍しいね、男で植物に気が付くのって。」
斜め向かいで一年先輩の真鍋さんが口を開く。
「俺なんか、チューリップとかひまわりとか、ありきたりの花しかわからないよ。だいたい、紫苑っていうのが花の名前だってことも、今さら気付いたくらいだから。」
「まあ、花屋さんでメインになるような花じゃないですから。」
「谷村さんのこのカーディガンみたいな色の花なんですよ。ああ・・・きっと、金木犀さんには、紫苑の花を背景に立っている谷村さんのことが、花の精みたいに見えたに違いありません!」
金子さん・・・。
夢見る女の子全開! って感じ?
胸の前で手を握り合わせて目をキラキラさせてると、あなたの方が妖精みたい。
あんまり可愛らしくて、あたしも思わず微笑んでしまう。
一緒に来た男性陣も見惚れてぼんやりしちゃってるし。
だけど。
「“金木犀さん” ?」
「はい! あたしが名付けました。また会いそうな気がするので、その時のために。」
「ふうん。」
いくら何でも、そんなに偶然は重ならないでしょうね。
「あ。この香りだよ。ほら、金木犀。」
あたしの住むマンションへの道を歩きながら、龍之介に教えてあげる。
「え? どこ?」
鼻をくんくんさせながら左右に顔を向ける龍之介の様子が可笑しい。
「龍之介、しかめっ面になってるよ!」
あたしが笑っても、龍之介は平気な顔で「全然わからないな。」と言った。
飲み会で一緒になると、龍之介は必ずあたしを送ってくれる。
これは、ちょうど2年前にあたしが一人暮らしを始めてから、ずっと習慣になっていること。
2年前、引っ越して半月ほど経ったころの飲み会がたまたまいつもより長くなり、電車の中で、あたしはうっかりしていた自分を心の中で叱っていた。
その何日か前に、残業で駅に着くのが10時過ぎになったとき、途中で男にあとをつけられたのだ。
気が強いあたしでも、さすがにそういうのは恐い。
住宅街のそのあたりはその時間帯になると人通りが少なくて、塀に囲まれた家が続いている道は、逃げ場所がない気がした。
マンションまでついて来られるのが恐くて、少し手前の街灯の下で勇気を出して振り向いたら相手が逃げ出してくれたので、その隙にあたしも走って帰ったのだった。
これからは残業も早めに切り上げようと思っていたのに、その日は先輩の瑠璃子さんの結婚話というおめでたい話題で盛り上がって、遅くなってしまった。
振り返られて慌てて逃げるような相手だからもう出るわけないよと自分を励ましているときに、乗り換え駅で、龍之介が一緒に帰ると言ったのだった。
「この時間だとバスの本数が少ないから、そっちから歩いて帰った方が早いんだ。」
どれほどほっとしたことか。
引っ越し先がその部屋に決まったとき、龍之介が近くに住んでいるとは聞かされていた。
そのときは「ふうん。」くらいしか思わなかったけど、こういう状況になってみると、本当にありがたい。
龍之介はあたしのマンションよりもう少し奥まったところに家族と住んでいて、こっちの駅からだと、あたしのところをまわって徒歩20分くらいだということだった。
通勤では、二つ先の乗り換え駅までバスで一直線に出ているけれど、大学まではこちらの路線を使うことが普通だったそうで、このあたりの地理には詳しい。
その日、ほっとしたあたしは、龍之介に対するいつもの気安さで、帰り道であとをつけられたことをペラペラとしゃべってしまった。
それからずっと、お酒の会で一緒になったときには、龍之介はあたしを送る役割を引き受けてくれている。
何度か、もう大丈夫だからと断ろうとしたけど、
「何かあったら寝覚めが悪いし、どうせ通り道だから。」
と言って。本当は少しまわり道らしいのだけれど。
はじめは、龍之介に期待されてたりしたらちょっと困るな、と思ったこともあった。
でも、何度か送ってもらったあとも龍之介の態度が変わらなかったから、あたしは龍之介の親切をありがたく受けることにした。
龍之介があたしを送るのを知った職場の人たちがそれを当然のことと受け止めていて、変に気を遣ってきたりしなかったので、大人の世界ではこれが当たり前なんだと納得した。
そして、2年。
送ってもらうのは、いったい何回目だろう?
いつものとおり、マンションの前で、あたしが2重のガラスドアを通り抜けるのを見届けてから、軽く手を上げて龍之介は帰って行く。
そういえば、まだ龍之介には好きな人はできないのかな?
彼女ができたら、さすがにこれはお終いにしなくちゃね。




