41 スキーは滑るもの
スキーにするか、スノーボードにするかと訊かれて、迷った末、スキーを選んだ。
両足が一つの板に固定されているスノーボードよりも、スキーの方が普通に動けそうだから。
それに一応、ほんの少しだけど経験があるから。
スキーのセットを借りるところから、龍之介がずっと面倒を見てくれた。
スキーブーツを履いただけでヨロヨロしているあたしは、建物から外に出るたった5段の階段さえも、手すりにつかまって降りるしかない。
龍之介は自分のとあたしのと、二人分の板とストックを担いで、のしのしと歩いて行く。
年末の休みに入ったスキー場は混んでいて、おいて行かれて迷子になったら大変だ。龍之介の服装を頭に叩き込んでおかないと。
ウェアは黒に茶色と白が少し。カーキ色のヘッドバンド。・・・背が高いから、どこにいても目立つかな?
もしかしたら、あたしが見つけてもらえないかも?
こんな普通の水色とグレイの組み合わせじゃなくて、もっと派手な色にすればよかった?
雪の上の方が少し歩きやすいと気付いて、龍之介に追いつくために走ろうとしたら、深くなっていた雪にずぼっと踏み込んでしまい、ますます遅れてしまった。
板をはいて立ったところで龍之介が尋ねる。
「紫苑。スキーはどのくらい知ってる?」
“できる?” と訊かない龍之介は正しい。
「ええと、斜面に対して板を垂直にすると、滑らない。」
「うん。」
「あと、立つときは山の下側にある足に体重をかけておく。」
「うん。」
「それだけ。」
「ああ・・・そうか。基本中の基本、だな。」
うんうん。
大事なことだよ。
「だけど、それだと、立ってることしかできないよな?」
「そうだね。」
「じゃあ、止まり方を教える。」
「止まり方・・・?」
滑れないのに?
「止まり方を知ってれば、滑って怖くなったら止まれるだろ?」
「なるほど!」
“止まり方” さえも、あたしには長い道のりだということを、そのあとに知ることになった。
「こわいこわいこわいこわい! 動くよ、ほら! 止まらない!」
ほとんど傾斜がないように見えたのに、スキー板をちょっとずらしただけで、ずるずると滑りだしてしまう。
龍之介があたしの板の前に立って止めてくれながら大きな声で笑う。
「はははは! 紫苑。すごいへっぴり腰だぞ! 怖いからって体重を後ろにかけちゃだめなんだ。板がどんどん滑っちゃうから。」
「そんなこと言ったって〜!」
予想外の動きをするから怖いんだよ・・・。
「わかった。ちょっと移動しよう。歩け・・・そうもないか? いや、歩け! ほら、斜面に垂直になって!」
うわーん。
厳しいよ、龍之介。
歩くって言ったって、靴も板も重い!
片足を前に出すと、残りの足が後ろに滑る。
歩いている動作はしているのに、前に進まない!
ほんの5メートルくらい移動するのに大汗をかいた。息も切れた。
「いいか? 初心者の止まり方は、まずこの形、 “ハ” の字だ。」
龍之介があたしと向かい合って、板の後ろ側を大きく開いてみせる。
どれどれ、あたしも・・・重い!
足をバタンバタンと踏み替えながら、なんとか板の後ろ側を外向きに。
「もっと大きく開けないのか?」
「これで精一杯だけど?!」
「ふん。脚が短いんだな。」
「余計なお世話だよ!」
何度か練習してポーズができたら、今度は緩やかな斜面に移動して、また止まる練習。
「いいか。下側の足にしっかり乗っかってれば、上側の板を動かしても大丈夫だから。」
理屈はわかるけど、体がそのとおりには動かない。
斜面の下に向こうとすると、ずらした板が勝手に進み始める。
「龍之介っ! 滑っちゃうよ! ほら、だめ・・・!」
どすん! と思いっきり後ろに転んで、気付いたら、目の前には青い空が広がっていた。
ああ・・・いい天気。
「大丈夫か?」
声と同時に視界に龍之介の顔があらわれて、それに「うん。」と頷き返す。
雪の上って、転んでも痛くないんだ・・・。
だけど。
転ぶと、起き上がるのに一苦労。
“体重を前に” っていうのも、なかなかできない。
うっかりするとすぐにスピードが出る。スピードが出ると、板に上体がついて行けなくて転ぶ。
龍之介は常にすぐそばに付き添って、支えてくれたり、つかまらせてくれたりしている。
根気のいい先生で、怒らないし、投げ出さないで教えてくれた。
怒らないどころか、上機嫌だ。
あたしのみっともない姿を見るのがそんなに面白いのか、優越感に浸れて嬉しいのか。
「OK、紫苑。今度はここまで真っ直ぐ滑って来い。」
最初は下を向くこともできなかったあたしが、どうにかストックをつっかい棒にしながら斜面に立てるようになると、龍之介はあたしから離れても大丈夫だと判断したらしい。
横歩きで龍之介が指示する場所まで登り、ストックを突きながら、板をハの字になるようにずりずりと下向きになる。
そこで顔を上げたら、手を振っている龍之介が見えた。
ええと。
板は後ろを開いてるね。・・・で。
膝を曲げる。
体重は前の内側。
滑って行く先を見る。
龍之介はあそこ。
10メートルもないような距離が、ものすごく長く見える。
よし。
少しだけ踏ん張る力を緩めると、ズズズ・・・と “ハ” の字型にした板が動き出す。
やった!
この速さなら大丈夫!
ズズズズズズ・・・と、かたつむりのスピードで、板が緩やかな斜面を滑って行く。
滑ってるよ!
一人で!
すごい!
頭の中は板の角度を同じ状態に保つことと、体重のことで精一杯。
視線は板の先にくぎ付け。
でも、滑ってる。
「紫苑! ブレーキ!」
しばらく集中して滑ったところで龍之介の声が聞こえて顔を上げたら、2、3メートル先に龍之介が見える。
「わっ?!」
姿勢を変えたせいか、気が緩んだせいか、板のコントロールが利かなくなって、いきなりスピードが!
「わ、わ、わ、だめ!」
「紫苑!」
止まらない! 避けられない!
どすん!!
・・・止まった?
頭はどこにもぶつからなかった。
つまり、転ばなかった?
「くふっ。あははははは!」
頭の上で龍之介の笑い声が聞こえる。
「あははははは!」
目を開けてみたら、あたしの目の前には大笑いしている龍之介の顔と、その背景に青い空・・・?
空が正面に見えるってことは、あたしは仰向けになってるってこと。
でも、背中は雪の上じゃない。
どうなってるの?
「紫苑。ほら、立て。」
背中から持ち上げられる感覚。
・・・ってことは。
もしかして、ぶらさがってる?!
龍之介に支えられて?
つまり、あたしは龍之介の股を半分くぐるような状態で、仰向けに抱えられてるわけ・・・?
かっこ悪い!
急いで板を体重が乗せられる場所まで動かそうとするけど、焦れば焦るほど、板がすべって逃げてしまう。
龍之介が大笑いしながら、両手であたしを「どっこいしょ。」と持ち上げてくれて、そのタイミングに合わせてなんとか立ち上がる。
しっかり立てたところで深呼吸をしたら、龍之介がまた大きな声で笑った。
「紫苑。やったな。」
満足そうな顔をした龍之介が、肩をギュッと・・・。
「危ないよ、龍之介! バランスが崩れたら・・・うわわ!」
「おっと!」
転ぶ! ・・・と思った・・・けど、転ばなかった。
お腹のところに龍之介の腕があって、夢中でそれにつかまっていた。背中・・・というか、ウェアの首の後ろを持ち上げられているような感じもする。
猫・・・?
「大丈夫だ。ちゃんと見てるから。」
「うん・・・。」
態勢を戻すのにまた暴れてしまい、龍之介が大笑いする。
そんなに笑わなくても・・・。
でもね、スキーってけっこう楽しいみたい。
龍之介はあたしにどうにか止まり方を教え込み、昼食までには横歩きで斜面を登り、 “ボーゲンでなんとなくカーブしながら滑る” というところまでレベルアップさせてくれた。
2時間少しでここまでできたのは、まさに龍之介の努力のたまものだと思う。ほんとうに頭が下がる。
「よし。午後はリフトで上に行ってみよう。」
みんなで食べた昼食のあと、龍之介がいきなり宣言。
うそ?
あんな斜面だよ?
あの人混みだよ?
絶対に無理だと思う!
「さっきくらいできれば、初心者のコースならちゃんと降りられるよ。歩いて登って滑る練習をするよりも、リフトで登ってコースを滑って来る方が、長い距離を練習できるから楽だぞ。」
そんな龍之介の理屈に、たしかにそうかなとうなずいた。
でも。
問題はコースだけではなくて、リフトもだった!
まず、そこまで歩くのが大変!
龍之介みたいに滑るように歩ければいいんだけど・・・。龍之介の板って、あたしのよりも軽いんじゃないだろうか?
乗り場の列に並んだら、乗り口に向かって少し傾斜していた。
超初心者のあたしは、大きくハの字に開いてストップする方法しか知らない。
でも、リフト乗り場は混雑していて、板を開いたりするような場所はない。
ストックを前に向けて突いてブレーキ代わりにしようと思っても、板はずるずると前へ進む・・・。
ああ・・・、前の人の板に乗っちゃってるよ。ごめんなさい。
「龍之介、どうしたら・・・あれ?」
龍之介、どこ? この隣の人、だれ?
「紫苑。」
後方から龍之介の声が。
振り向くと、はしに寄れと手で合図している。了解。
『了解』って言ったって・・・難しい! 板が重い!
周囲の人にペコペコ謝りながら、必死で横に抜け出す。
あたしを助けてくれる人は龍之介しかいないと思うと、ほかの人の冷たい眼差しも構ってなんかいられない。
「紫苑が止まらないでどんどん行っちゃうから。」
「そんなこと言われても、ここが坂になってて止まれないんだよ。ブレーキかけられないし。ずるずる滑って、ほかの人の板に乗っちゃったよ。」
ぶつぶつ言いながらも、龍之介に一つひとつ指示されて、支えられながら、どうにかリフトで上までたどり着く。
長いゲレンデを上からのぞき込んだら、ものすごい急斜面に見えて足がすくんだ。
初心者用のコースだけど、上に中級用のコースがあって、そっちから降りてくる人たちと合流することになる。
うしろからやってくるスピードの速い人たちが怖い。近付いて来る音でさえ。
それでも、来てしまったら滑って行くしかない。
龍之介に従って、比較的緩やかな斜面を選んでのろのろと滑る。
何度もバランスを崩して転ぶ。
でも。
転んだら起きればいい。
龍之介がちゃんとついててくれるんだから。
そう思ったらだんだん気持ちに余裕が出てきて、2回目には一度転んだだけで、そのコースを滑りきることができた。
嬉しくて、龍之介と顔を見合わせて大笑いした。