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4 秋のかおり



ふわ、と、少し甘い清々しい香りが風に乗って通り過ぎる。



あ。

何だっけ、これ?

ほら、毎年、秋の最初に香る花。

いつの間にか咲いて、一週間くらいで、あっという間に終わってしまう。



朝の交差点。

信号待ちで先頭に並んだまま、懸命に思い出そうとする。



あれだよね、オレンジ色の小さい花がいっぱい咲くやつ。

雨が降るとその花が一気に落ちて、木の下がオレンジ色に・・・。


金木犀(きんもくせい)・・・。」


それだ!

・・・・・あれ?


あたしの疑問に答えるように右上からそっと聞こえた声は、自分のものであるはずはなく。


隣の男の人・・・?



やばい!

目が合っちゃった!


慌てて下を向きながら、ほんの一瞬目に映った相手の顔が、ビル群の隙間から覗く青空を背景に頭の中で再生される。

きれいな弓なりの眉と二重瞼の目、あまり高くない鼻と気まずそうに唇を噛むように結んだ口。セットしていないようなふわふわした髪型で、どちらかというと可愛い感じ?

そうっと窺うような様子は、たぶん、あたしも同じだったはず。


その直後、信号が青に変わり、その人の脚が先に動き出す。

ダークブルーのスーツ姿は、あっという間に同じような後ろ姿の波に紛れてしまう。


・・・びっくりした。

あんなにピッタリのタイミングで聞こえるんだもの。

まるで、あたしが考えていたことが分かったみたいに。

だけど、独り言だったんだよね? あんなに気まずそうな顔をして。

見たりして、悪いことしちゃった。


勤務先のビルに着くまで、その人の顔を何度も思い出してしまう。


若い人だったから、独り言を聞かれたりして、すごく恥ずかしかっただろうな。

でも、隣で同じことを考えていたなんて、なんとなく可笑しい。


くすっと笑いそうになって、慌てて顔を引き締める。

思い出し笑いって恥ずかしいよね。




「おはようございます。」


「おはよう。」


それぞれの部屋に向かう廊下で女子社員たちが明るくあいさつを交わす声が、朝らしい雰囲気を醸し出す。


「谷村さん、そのカーディガン、綺麗な色ですね。」


パソコンのスイッチを入れたあたしに話しかけて来たのは、右隣の席の金子美乃里さん。

2年後輩で、今年の春に就職したばかり。

よく気が付く明るい人で、あたしはとても助かっている。


「ありがと! 気に入って衝動買いしちゃったの。」


薄紫と水色の中間くらいの色。淡い青紫?

今日は白いブラウスとチャコールグレイのスカートに合わせてみた。


「谷村さんの雰囲気にピッタリですよ。そのせいですか、楽しそうなのは? それとも、何かいいことありました?」


「いいことって言うか、面白いことがね・・・。」


交差点でのできごとを話し始めると、またもや「金木犀」という言葉が出てこなくて焦る。

あたしの頭、すでに老化が始まっているのでは・・・?


「えー・・・と、あの、ほら・・・金木犀! あー、よかった!」


ほっとしたら、またあの男の人の顔が浮かんできて、思わず「ぷっ。」と笑ってしまった。


「谷村さん、面白い話って、話す本人が笑ってたら、聞く人はあんまり面白くなくなっちゃうんですよ。」


ちょっとつまらなそうに拗ねた顔をする金子さんはとても可愛い。

色白で、少し目尻の下がった大きな目に小さな鼻と口、柔らかいクセのある髪を背中の中ほどまで伸ばしている。

仕事中は一つにまとめているこの髪は、ほどくと肩から下のあたりがくるくると巻いて縦ロールみたいになるのだ。

今はショートボブにしているあたしの真っ直ぐなコシのない髪とは大違い。


大違いといえば髪だけじゃない。

あたしはあごのとがった小さめの顔に、端がきゅっと上を向いた口元がチャームポイントだって言われたことがある。

でも、それがきっぱりして頑固な性格を表してるって言う人の方が多い。

金子さんは柔らかい印象どおり、穏やかで素直な性格だ。

それに体型も、金子さんは緩やかなカーブを描く女らしい体型だけど、あたしは痩せ型で全体的に真っ直ぐな感じ。


「本当にびっくりしたよ、あんまりタイミングがよかったから。もしかして、自分が声に出して『ええと、ほら。』とか言ってたんじゃないかって、慌てて思い出してみたりしてね。」


「谷村さん、声に出さなくても、そんな顔をしていたんじゃないですか?」


「え? まさか、そんな・・・。」


人がいっぱいの交差点で、自分がジェスチャー混じりに首をひねっている姿が目に浮かんでくる。


「やだ! いくら何でも、それはないよ!」


「うふふ。冗談です。でも、相手の男の人、どんな人でした?」


「どんなって・・・普通の。」


「普通?」


「あたしに独り言を聞かれたから何とも言えない表情をしていたけど、短い髪でスーツ着た若い男の人だった。」


「・・・たくさんいそうですね。」


「うん。あっという間に人込みに紛れちゃった。」


「なあんだ、残念。」


「どうして?」


「もしかしたら、谷村さんの運命の出会いだったかもしれないのに。ただの “普通” の印象だなんて。」


ギュッと心臓をつかまれたような気がした。

あたし、おかしな表情をしてないだろうか?


「そんな・・・ことが、その辺に転がってるわけないでしょう? さあ、仕事仕事。今日も忙しいよ。」


パソコンに向かいながら、胸がドキドキしている。

気付かれないように深い呼吸を何度も繰り返して、自分を落ち着かせる。

歯を食いしばりそうになるのをこらえると、じわりと目頭が熱くなる。


・・・あれから3年も経ったのに。




大学時代の桜井先生とのことは、自分の中ですでに解決済み。

だけど、あれ以来、あたしは恋をすることをやめた。

やめた、というよりも、怖いのだ。

誰かを好きになると考えただけで、桜井先生に裏切られたときの記憶がよみがえってしまう。


記憶・・・というか、そのときの状態。

胸が痛くなって、動悸が激しくなって、目まいがして、涙が出そうになって、手が震えて・・・。

こんな状態では、万が一、誰かに恋をしても、その間中ずっとその記憶につきまとわれることになる。

うまく行っても、自分がいつ捨てられるかとビクビクしながら過ごすことになる。

精神的にも、身体的にもキツ過ぎる。


だから・・・もう、誰のことも好きにならない。


すっきりして、いいじゃない?

嫉妬とか、三角関係とか、面倒なことは何もない。

仕事は面白いし、友人には男女を問わず恵まれている。今の生活に大満足!


恋をできる人はすればいい。

でも、あたしには無理。あたしは恋なんてしない。





午前中に急ぎの仕事が入って、仕上がったのがお昼休みが終わると同時だった。

課長が「悪いね。」と労ってくれて、急がないで昼休みを取っていいよと言ってくれた。



・・・どこに行こうかな。


お昼休みを過ぎた時間帯だから、いつもは混んでいる店でもOKだ。

秋のさわやかな晴天が気持ちよくて、まわり道をして公園の中を抜けていく。

オフィス街のまん中だけど、緩やかな起伏のある芝生の原っぱとちょっとした林、無造作に咲いているような季節の花に囲まれた遊歩道があるかなり大きな公園。


コンビニで買って、ベンチで食べるのはどうかな?

うーん、一人じゃちょっと恥ずかしいか・・・。


遊歩道をぶらぶらと歩きながら考える。

気持ちが良くて、足取りはゆっくり、視線は空へ ―― 。


あ!


こんなにのんびりしてたら、お昼を食べる時間がなくなっちゃう。

行かなくちゃ。


いつも混んでいて入れないカフェに決めて、足を速める。

前を歩く男の人を追い抜いた瞬間。


「紫苑。」


「え? は、はい!」


つぶやくように後ろから名前を呼ばれて振り向くと、そこに目を丸くして立っていたのは “金木犀” の男の人だった。







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