婚約者が病弱な幼馴染を優先するので、今日も私は一人です
寝台の上に、女性が横たわっていた。
月光に照らされた頬は雪のように白く、長い睫毛が影を落とす。
「来てくださったのですね……」
***
邸の門を出ていく馬車を見送り、私は小さく息をついた。
「……またですか」
冷めた紅茶を、そっとテーブルへ戻す。今日は、二週に一度の婚約者との交流の日のはずだった。
「アンドレア、すまない。ルシアの具合が悪くなった」
ルカはそう告げると、来たばかりだというのに足早に部屋を出ていった。
婚約者のルカは、私より三つ年上。長身に艶やかな黒髪、深い緑の瞳を持つ人だ。
フェッローニ侯爵家――軍人の家系に生まれたが、医者となった。
治療の際の動きやすさを重んじ、髪は後ろで一つに束ね、装いはいつも地味な騎士服。
夜会ではルカを慕う令嬢に取り囲まれることも多いが、本人はまるで意に介さない。
昨年、我が国を疫病が襲った。
ほうき星が現れ、星の巡りが乱れた。それにより、一部の土地の魔力が瘴気へ変質した。
それを吸った獣が変異したものが、瘴魔。疫病を撒き散らし、国は混乱に陥った。
同類を食らって巨大化した個体を、人々は『疫禍の魔王』と呼んだ。
ルカは患者を治療するかたわら、魔王を自ら斬り伏せ、疫病を終わらせた。
その功績で、陛下から「医技伯」の爵位を賜っている。
私はベネデッティ子爵家の末っ子だ。
兄や姉とは十ほど年が離れていて、久しぶりの子だったせいか両親はかなり甘かったと思う。
小柄で童顔のため、十八歳と言うと驚かれる。信じがたいが、侍女に間違われたこともある。
父からは「男っぽくしたらどうだ」と言われる始末だった。
弱いながらも癒しの魔法が使えたので、戦いのときは後方支援に動員された。
毎日、救護所で軽傷者を治した。それくらいしか、私にはできなかった。
ある日、そこにルカが現れた。手に切り傷を負っていた。
「治療を頼みたい。これでは患者を診られない」
ルカは魔力が多く、多彩な魔法が使えるものの、癒しの力は持っていない。
「君は丁寧に傷を治すね」
それが、初めての出会いだった。
フェッローニ家の使いが婚約の書状を携えて来たとき、両親も兄も、そして私も目を疑った。
嫁いだ姉が、急いで実家を訪ねてきたほどだ。
特に秀でたところのない私を、凛々しく堂々としたあの人は、なぜか望んでくれた。
平凡で癖のある茶色の髪も、ありふれた栗色の瞳も「素敵だ」と言ってくれる。
ただひとつ、気がかりがあった。
ルカの遠縁で幼馴染、ルシア・カステルフェッロ男爵令嬢。私と同い年。
月光を紡いだような銀髪と、湖面のように澄んだ青い瞳の美しい人。
学園では違うクラスだったが、多くの令息が彼女に惹かれていたのは知っている。
戦いが終わっても、彼女の病だけは良くならないままだった。
「ルシアの容態が急変した」
その報せが届くたび、ルカは時刻も天候も問わず駆けつける。
医者として当然のことだ。命に関わるなら、私への断りすら惜しいだろう。
「……もやもやしてしまうなんて、いけないことですね」
ぽつりとこぼした独り言は、誰にも届かなかった。
***
ある日、私は仕立屋に立ち寄っていた。王都の園遊会に向けた装いの、最終調整である。
「アンドレア様、もう少し大人びて見えるよう手直しいたしましょうか」
「直しても、私が身につけると幼く見えてしまうのです」
「いえいえ、威厳が出るようにすれば見違えますよ。ベネデッティ家の皆様もそうですし」
苦笑して頷く。両親や兄姉のような風格があったらと、何度思っただろう。
迎えた園遊会。この日も急にルシアの診察が入り、私は一人で出席することになった。
会場に足を踏み入れた瞬間、視線が一斉に注がれ、ひそやかなざわめきがさざ波のように広がる。
その中から、小麦色の金髪と同色の瞳を持つ青年が、柔らかな笑みを浮かべて一歩進み出た。
ウベルト・グラッシーニ伯爵令息。
ウベルトはルカの学園時代の同級生で、その感情は友情というより崇拝に近い。
常にルカの半歩後ろを歩き、ルカが誰かに微笑みかけるたび、機嫌を損ねていたという。
どういうわけか、彼は私が気に入らないらしい。仲間内でこちらをちらちら窺っては、何か囁き合っていた。
「アンドレア様ではありませんか。今日もお一人で?」
言葉の含みをうまく受け取れず、私はただ俯くしかなかった。
「……本当に不思議です。どうしてあなたのような方が、ルカ様の婚約者なのか」
その通りだ、と胸の内で思う。私自身、未だに分からないのだから。
私はそっとその場を離れた。
***
邸に戻った私を出迎えたのは、思いがけない人物だった。
「お帰り、アンドレア」
医療鞄を提げた長身の影。
「ルカ!? どうしてここに……」
「ルシアの治療が一段落した。顔が見たくなって、寄らせてもらった」
その微笑みは、いつもより少し疲れて見えた。
ぽん、と大きな手が頭の上に置かれる。
「また、何か考え込んでいるね? ……ルシアのことかな」
表情が動くのを、抑えられなかった。
「私なんかよりも、ルシア様の方が大事でしょう」
「アンドレア」
ぴたり、とルカが足を止めた。膝を折り、小柄な私と目線を合わせる。緑の瞳が、まっすぐに私を覗き込む。
「『私なんか』だって? そんなことは言わないでほしい。……君は、私の婚約者なのだから」
囁かれて、頬が燃えるように熱くなった。
「……はい」
震える声で、そう答えるのが精一杯だった。
サロンに通したルカへ、温かい紅茶を勧める。
「……それで、ルシア様のご容態は」
ルカの顔から、微笑が消えた。
「あまり、芳しくない。アンドレア。君にだけは、話しておきたいことがある」
緑の瞳が、真剣な色を帯びた。
「昨年、『疫禍の魔王』と戦ったときのことだ」
ルカが痛みをこらえるような顔をした。
「あの戦いの最中、ルシアは私を庇って、『疫禍の魔王』の欠片を浴びた。瘴魔そのものが、彼女の体内に巣食っているんだ」
驚く私に、ルカは静かに続けた。
「内側から食らおうとしたのだろう。だが、ルシアは強い。抵抗しているんだ」
私が同じ目に遭っていたら、きっと、ここまで持たなかっただろう。
「奴は多くの命を奪ってきた。だからこそ、なんとしても生け捕りにしたい。病を防ぐには研究が必要だ。倒すだけでは駄目なんだ」
ルカの拳が、ぐっと握られた。
「だが厄介でね。大きな魔力に反応し、人の身体の奥深くへ潜む。私が見張っていても、姿を現さない。体内にいる限り、傷つけずに引き剥がすのはほぼ不可能だ」
深く、息を吐く音。
「ルシアの体調が急変するのは、奴が活性化する徴だ。発作のとき、瘴魔は外へ出ようとする。その一瞬を、魔力触媒で『より良い宿主がいる』と錯覚させて捕える。それが、私の計画だ」
ルカは深々と頭を下げた。
「アンドレア。……すまない。ずっと黙っていた」
「ルカ?」
「ルシアのもとへ通う理由を、話すべきだった。婚約者がいない女性に瘴魔が憑いていると公にするのは憚られて……。それでも、君に寂しい思いをさせた」
私は慌てて声を上げた。
「ルカ、頭を上げてください」
ルカが、私の手を取った。
「これからは、ちゃんと話す。約束する」
「……はい」
ルカが帰った後、ふと疑問が浮かんだ。
ルシアのような可憐な令嬢が前線にいたら、人目を引くだろう。私は彼女を戦場で見た覚えがない。
なぜ、彼女が『疫禍の魔王』の欠片を浴びることになったのだろうか。
***
ルカの目論見は外れた。瘴魔は、ルシアの身体から出ようとしなくなったのだ。
「どうして、うまくいかないんだ……」
ルカは、すっかり憔悴していた。
そんな折、ルシアが私に会いたがっていると聞き、ルカとカステルフェッロ男爵邸の一室へ向かった。
「ベネデッティ様……」
もともと儚げな人だった。だが、激しい咳をして息も絶え絶えな様子は、本当に消えてしまいそうに見える。
「来てくださったのですね……」
震える声を絞り出すように、彼女は言った。
「あなたの婚約者をずっと私に縛り付けて……ベネデッティ様。本当に、ごめんなさい」
「……どうぞ、アンドレアとお呼びください」
「アンドレア様……。わたくしは、もう長くないから……謝りたかったの」
私は、なんと答えたら良いか分からなかった。
「……ルカ、わたくしが死んだら身体を割いてこいつを捕まえて」
そう言った瞬間、彼女の身体の奥で、何かが蠢いたようだった。
「なんてことを言うんだ」
ルカが苦しそうに言う。
「だって、他に手段はないもの……」
彼女の手がそっと差し伸べられた。思わず、私はその手を掴んだ。
その瞬間。
禍々しい気配が、私へ意識を向けるのを感じた。
「アンドレア!」
ルカの鋭い声が飛ぶ。不穏な雰囲気が、すっと消えた。
瘴魔は、同類を食らいながら大きくなったという。
元はノミのような小さな虫が変質したもの。やがてネズミが現れ、犬、カラス、家畜の牛、馬へと広がった。
食らうたび、相手の性質を取り込んでいるとしたら――。
もう一度、ルシアの手を取る。やはり気配がある。ルシアが弱ったことで、次の宿主を求めているのだ。
カラスや馬を取り込んだのなら、人の言葉を解しても不思議はない。
思い返せば、動きは妙だった。発作のたびに身体から出ようとしていたのに、肝心の場面で触媒へ向かわなかった。
偶然ではない。会話を聞き、閉じ込められると察して罠を避けたのだ。
学生時代を思い出す。ルシアは淑女科だった。魔法科はある程度の魔力がなければ通えない。私も魔力が弱く、経営科を選んだ。
瘴魔は強い魔力を嫌う。ならば、魔力が弱い者を好むのではないか。
知能は高くないだろうが、うかつに声に出せば、また警戒される。
手帳を取り出し、推測を文字で綴った。ルカは怪訝そうに私を見ていたが、文章を読むと目を見開いた。
ルシアに再訪を伝え、いったんベネデッティ家の邸へ戻った。
「奴は言葉が分かると?」
「そうです。……瘴魔は、私を狙っている。魔力が弱いからでしょう。ルカ、私を囮にしてください」
「ダメだ」
ルカは首を横に振った。
「君に何かあったら、私は……」
緑の双眸が潤んでいる。こんなルカを見たのは初めてだった。
「でも、このままではルシア様は助かりません。瘴魔も逃げ出すかもしれない。そんなのは嫌なんです!」
普段にない強い言い方をした私を見て、ルカは驚いていた。私はルカの目を、真っすぐ見つめた。
「……分かった。二人でルシアを救おう」
私は頷いた。
***
三日後の夜。
「アンドレア、来てくれ」
邸へ駆け込んできたルカの瞳は、ぎらりと光っていた。
「準備が整った」
カステルフェッロ男爵邸の最奥。
幾重にも結界が張られた一室で、寝台の上のルシアが苦しげに身をよじっていた。
月光のような髪が汗で頬に貼りつき、白い喉が浅い呼吸に上下する。
「……ぁ、あ……」
私一人で部屋に入る。物音に気づき、ルシアは薄く目を開けた。
刹那。
ルシアの口から、黒い靄が噴き出した。
靄が集まっていく。小型の犬くらいの大きさだろうか。それは人の形を成そうとして、ぐにゃりと歪んだ。
赤い瞳がぎろりとこちらを睨み、無数の触手がのたうつ。
――こんなものがルシアの身体に入っていたなんて。
瘴気は壁の呪符が吸い取っているが、それでも勢いは止まらない。
獣のような気配が、ぐるりと方向を変えた。触手の一本が、私の口元へ向かって伸びる。
私は思わず、後ずさった。
瘴魔はルシアから離れ、私ににじり寄って来る。
囮になると言い切ったのに、寒気が止まらない。
逃げ出したかった。
それでも、震える指をぎゅっと握りしめ、その場に立ち続けた。
「ようやく出てきやがったわね、瘴魔さん」
「……は?」
私は思わず声を漏らした。
ルシアが、寝台の上で身を起こす。
寝間着の裾を膝までたくし上げ、右の太腿に巻きつけた革ベルトから、短刀をするりと引き抜いた。
「半年も寄生してくれちゃって、まぁ……うちの家、医療費でとんでもないことになっているのよ?」
「ル、ルシア様……?」
「アンドレア様。ごきげんよう。お見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんわね」
優雅にお辞儀してみせるその姿は、紛れもなく可憐な令嬢。
けれど、その手の短刀の構えは、歴戦の戦士のそれだった。
「ぶっ殺す」
彼女は咳き込んだ。だが、病気ではなく誤魔化すためのものらしい。
「訂正。生け捕りにいたしますわ」
青の瞳から、儚げな色が剥がれ落ちる。残ったのは、獲物を見据える戦士の眼差しだった。
「『フェッローニ』の血を引くわたくしを、ナメないでいただきたいわね」
カステルフェッロ男爵家は、フェッローニ侯爵家の分家筋。すなわち、ルシアもまた軍人の血を引く一族である。
「覚悟なさい、瘴魔さん……」
彼女は左の太腿も露わにする。そこに巻かれた皮ベルトには投げナイフがいくつも括りつけられていた。あられもない姿に、私は思わず視線をそらす。
「アンドレア様に手ぇ出してんじゃないわよぉ?」
ルシアの投げた一刀が、触手を寝台の柱へ縫い留めた。
彼女は信じられないほど大きな声を出した。
「ルカ!!」
「アンドレア! ルシア!」
ルカが部屋に飛び込んできた。
「ルカ! こいつはわたくしの獲物よ。準備をお願い」
ルカは鞄から、銀の瓶を取り出した。捕獲用の魔導具だ。
「キ、サマラ、ヨクモ……!!」
「うるさいわよ」
ルシアの投げナイフが、瘴魔の中央を貫く。
「ギャ!?」
正確な一撃だった。
だが、二本目を投げた瞬間、その膝がかくりと折れる。
「……すっかり身体がなまってる。ほんっと、腹が立ちますわ」
笑みを浮かべた彼女が、再び咳き込んだ。今度は病の症状だ。
「無理をするな」
ルカは瓶をテーブルに置き、剣を手に瘴魔へ立ち向かった。
倒さないよう加減しながらの攻撃に、手こずっているようだ。
私はルシアにそっと歩み寄り、その手に触れた。
弱い癒しでも、少しでも力になれたら――。
ルシアの呼吸が、わずかに整う。
瘴魔の赤い瞳が、こちらを向いた。
弱く、柔らかく、抵抗の少ない魔力。それを求めているのだ。
ルシアが再び立ち上がる。
「逃がさないわよぉ? 今までのお礼、たぁっぷりさせていただきますわぁ……!」
口元は弧を描いている。けれど、目は笑っていない。
ルシアは、もう一本ナイフを命中させた。
「ヒィ、ヒィイイ……!」
「ル、ルシア様、生け捕りでは……?」
「あら、アンドレア様。ご心配なく? 急所は外しておりますの。ちょぉっと痛めつけて、動けなくしているだけですわ」
ルカが呟いた。
「……お前、本当に病人か?」
「病人ですわよ。半年も寝込んでいたんですもの。なまった身体を動かすには、ちょうどいいわ」
ルカは深々と溜息をついた。
「アンドレア。すまない、これが『フェッローニの一族』だ」
「は、はぁ……」
「ルシア、もういい。離れろ」
銀の瓶の蓋を開けると、中から青白い光が漏れる。
瓶の光に吸い込まれながら、瘴魔は最後の触手を私へ伸ばした。
次の瞬間、黒い塊は銀の瓶へ落ちた。
ルカが蓋を閉じた。
「確保」
「……お見事です、ルカ」
私の言葉に、ルカは振り返った。
「アンドレア、怪我は」
「……ありません」
「よく立っていられたな。怖かっただろうに」
「逃げたかったのですが」
自分の指がまだ震えているのに気づいて、それを握り込む。
「ルカの役に立ちたかったので」
ルカの目が、優しく細められた。
「……君は」
ふ、とルカの頬が緩む。
「私が惚れた、そのままだ」
「えぇ……?」
間の抜けた声を上げた私の頬を、長い指がそっとなぞった。
「言っていなかったか? 私が功績を立て、陛下から望みを問われたとき、願ったのは君との婚約だ」
「な――!?」
「戦いの場で、ずっと見ていた。穏やかで控えめで、それでいて誰より芯のある君を」
ルカが笑う。
「ようやく手が届く立場になって、私は飛びついたんだ。あまりの即決ぶりに陛下に呆れられたが」
知らなかった。そんなこと。
「私はてっきり、政治バランスで我が家を選んだのだと……」
「私が、そんな理由で婚約するように見えるか?」
「……いえ」
「……ああ、こういうことも、伝えてなかった。本当に私の悪い癖だな」
ルカは、苦笑しながら私の額に、自分の額をこつりと押し当てた。
「……ルカ、わたくしもいるんですのよ」
ルシアが寝台の上で呆れた顔をしていた。私は慌てたが、ルカは離そうとしない。
「ルカはわたくしには散々のろけてたのに、本人には言ってなかったのね。じれったいったらありゃしないわ」
ルシアが満足げに笑う。直後、糸が切れたように、こてん、と枕へ頭を落とした。
「あ、駄目だわ、これ。やっぱり本調子じゃないみたい。あとはお任せしますわ、ルカ……」
そのまますぅと寝息を立て始めたルシアを、ルカは唖然とした表情で見下ろす。
「……まったく。本当に相変わらずだ、こいつは」
ルカによると、ルシアは一族の中でも特に好戦的な人なのだそうだ。
騎士科を希望していたが、女性は受け入れていなかったため、仕方なく淑女科に通っていたという。
「疫禍の魔王との戦いにも、率先して赴いた。あの見た目だと勝手に男どもが守ろうとしてくると、認識疎外の魔法をかけるよう私に頼んでいたんだ」
***
事件の次の週。
王宮の夜会に、漆黒の衣装をまとって私は立っていた。
「今日もお一人ですか」
ウベルト・グラッシーニ伯爵令息が、にこやかな声音で話しかけてきた。
彼は伯爵家。子爵家の私に声をかけること自体は、礼を失するものではない。
だが。
「ルカ様と今夜も、ご一緒でないとは……。あなたは、婚約者として相応しくない。まさか、虫除けなのでしょうか?」
柔らかな口調とは裏腹に、その言葉はあまりにも露骨だった。
私はゆっくりと顔を上げる。
「……私が、ルカに相応しいかどうかは」
かかる茶色の前髪を指で払って、彼をまっすぐ見据えた。
「私自身にも、まだ分かりません。……ですが」
一度だけ、息を整える。
「ルカが私を選んでくれたという事実まで、あなたにとやかく言われる覚えはございません」
ざわり、と周囲の空気が揺れる。
「あなたがどれだけ笑おうと、私の場所は変わりません」
彼の頬が、屈辱に赤く染まる。その口が、ぐにゃりと歪んだ。
「――男のくせに」
夜会の一角だけが、しんと静まり返った。
伯爵令息は周囲の反応に気をよくしたのか、声を一段高くした。
「男のくせに、女の陰に隠れて媚びを売るなど、見苦しいとは思わないのか」
男のくせに。
その言葉は、幼い頃から何度も聞かされてきた。
小柄な身体、柔らかい声、癒しの魔法しか扱えない手。
何もかもが、彼らの言う「男らしさ」から外れているらしい。
「そこまでだ」
凛と通る声が、伯爵令息の言葉を遮った。
人垣を割って現れたのは、栗色のドレスに身を包んだルカ・フェッローニ。
今夜は髪を束ねず、下ろした長い黒髪が煌めいていた。
ルカは、にっこりと笑っていた。
それは、私が一度も見たことのない、底冷えのするような笑みだった。
「先ほどから、ずいぶんと愉快な話をしていたようだが。『私のアンドレア』に、何をしてくれたんだい?」
ピシリと夜会の空気が、音を立てて凍った。
「アンドレアは、私が陛下に願い出てまで婚約を許された、唯一無二の婚約者だ。それを『相応しくない』、ね」
「そんなつもりでは……!」
伯爵令息は、慌てたように言う。
「ふぅん? ではどんなつもりだったのか、ぜひ伺いたいものだな。あちらに陛下もいらっしゃる。お話しようか?」
「ひっ……」
彼の顔から、血の気が引いていく。
「念のため申し上げておくが」
ルカは、すっと指を立てた。
「アンドレアへの侮辱は、当然、私への、いやフェッローニ家への侮辱と等しい。同級生だったからといって容赦しない。覚えておくといい」
「申し訳ございませんでした……」
グラッシーニ伯爵令息は、足早にその場から去っていった。
もしかすると、彼もまたルカに惹かれていたのかもしれない。だが、同情する気にはなれなかった。
ルカは私の方を振り返り、いつもの優しい笑みに戻った。
「待たせたな、アンドレア。あいつが絡んでいるのが見えたから、急いで戻ってきた。……でもとっくに、君が自分で言い返していたんだな」
「……ちょっと、格好良すぎませんか」
ルカはきょとんとして、それから声を上げて笑った。
「君は本当に、可愛いことを言う」
長い指が、私の頬をそっと撫でる。
「私の婚約者殿が、あまりに可愛らしいから、ついやりすぎてしまったかな?」
「……いえ。ありがとうございます」
俯いた私の顎を、長い指がくいと持ち上げた。
「アンドレア」
「は、はい……」
「私が言ったことを、忘れるな。君は『私のアンドレア』だ。誰にも、君のことを悪く言わせはしない」
ルカ・フェッローニ医技伯。
フェッローニ侯爵家の長女。
男ばかりの軍人の家系に生まれ、所作も口調も、いわゆる女らしさとは縁遠い。
それでも彼女は、自分らしく在るために医学を修め、その実力で周囲を黙らせてきた。
けれど、彼女は美しく、気高い。私の婚約者だ。
私は、アンドレア・ベネデッティ。子爵家の末子。
特筆すべき才もなく、ただ真面目であることだけが取り柄の男だ。
だからこそ。
ルカの隣に立てるよう、私はもっと自信を持たなければ。
私は彼女の手を取り、広間へ足を踏み出した。




