盛大に何も始まらなかった話
自分自身が異世界に転生してしまっていることに彼女が気付いたのは、公爵家ノルマール家嫡子の婚約者に内定した瞬間だった。
「げっ!!」
内定の知らせを自宅で受けた瞬間に全てがフラッシュバックし、あまりにも淑女らしからぬ声を思わず上げてしまった彼女は、侍女の怪訝な顔から身を隠すように反射的に扇で顔を隠した。その扇の裏側では、心臓がバクバクと悲鳴を上げつつ鼓動しており、冷や汗がそのこめかみを伝っていた。
――ブリューヴ侯爵家の長女として生まれたセーヌ・ヴォン・ブリューヴには、兄と弟がいる。兄ゲランは現在修行の身として宮廷の文官に従事しており、弟ディガンは王立ハイドレンジア幼稚舎に通う少年だった。
「お、お嬢様……?」
「とっ、とりあえず状況は理解しました。下がってください、暫くは独りにして」
「し、承知しました……」
慌てて自室に飛び込み内側から鍵を閉めると、彼女は淑女の全てをかなぐり捨てその場にしゃがみ込み、その美しい頭髪を無造作に掻き毟る様にして頭を抱える。
(まずい、まずい、まずいまずいまずい……ヤッベェぞこれ!!?)
上流階級の語彙力を完全に喪失した彼女は眼を大きく見開き、奥歯をガチガチ言わせながらも必死に状況を整理しようとしていた。
――ここは間違いなく乙女ゲーム『運命のハイドレンジア』の世界だ。
平民出身のヒロインであるスージーを徹底的にいじめ抜き、最終的にノルマール公爵嫡子スタンの婚約者であるこのセーヌは彼女を陥れようとして――最終的に、卒業記念舞踏会で公開婚約破棄&国外追放を言い渡されるキャラであった。定番も定番の悪役令嬢としての末路を辿る彼女は、最終的に国外追放され隣国の道中を彷徨い誰にも看取られることなく野垂れ死ぬ運命にあった。
「――いや、まだよ。まだ諦めるのは早いわ。私はそんなフラグを立てるほど愚かじゃない……!!」
前世では乙女ゲームも好きだったが、悪役令嬢物も好きだった。だから勝ち筋があるのも分かっている。
スタンは適当にやり過ごし関心を持たれないようにふるまい、ヒロインのスージーにも関わらないようにしなければならない。どうしても巻き込まれそうな最悪のケースを想定するなら、今のうちに目ぼしい隣国の修道院でも選んでおいて、事前に良好な関係を作っておくのも悪くないかもしれない。
そうだ、いざとなったら神の教えに突然目覚めて破棄されて路頭に迷う前に自分から飛び込もう。野垂れ死ぬよりはずっといいわ。
実は地味に神を冒涜していることに気付かない彼女は、しかしそう固く決心し、礼節と教養そして慈愛の女として、できるだけ静かに学園生活を過ごすことを決意した。
そうして婚約者との初顔合わせでも冷たい態度をとることにした彼女は、そのあまりの素っ気なさに、婚約者となったスタンに内心驚かれていた。
(なんか冷たいな。いや、冷たいというより……距離を置かれている……?)
スタンから見て、セーヌ・ヴォン・プリューヴは、完璧な婚約者だった。
容姿よし、家柄よし、知性よし、立ち居振る舞いよし、器量よし。どれを取っても非の打ち所がなかった。
ハイドレンジア学園初等部の頃から学友としての面識こそあったが、婚約者になった瞬間から、彼女はまるで何かに怯えるように彼を避け始めていた。
もちろん話しかければ、一応は返答もあるし、公爵家の行事に呼べば彼女はそれに応じた。だが会話が全く広がらない。
決して無礼ではないが、全身全霊で私に関わるなと伝えているような壁を感じた。
(もしかして婚約を、俺を、嫌がっている? あるいは心に決めた人がいるとか?)
特に自分から何か失礼を働いた覚えもなければ外部からのそういった指摘も無かったスタンとしては、彼女が自分を避ける理由が皆目見当もつかず、最終的に彼は彼女自身が自分を嫌っている、またはどこかに真実の愛を秘める男がいるのかもしれないと結論付けざるを得ないでいた。
やるせなさのようなものを感じつつ、悩んだ末にスタンは彼女との婚約を形だけのものとして扱うように努める事とした。無論政治的な要素の強い婚約は維持しつつも、私的な感情は求めない。ただの同級生として、必要最低限の交流のみを保ち続ける。
時が来たらもちろん正式に神のもとで永遠の愛は誓い合うだろうが、もし嫌われているのであれば白い結婚として解消する。そのころには政治的な利益をお互いに十分に享受し、離縁しても害にはならないだろうという打算だった。
かくして、スタンがある種悲壮な人生設計を見直す中、セーヌはいつも静かに微笑み、何も行動を起こさないように努めた。それは高等部にして物語の舞台であるハイドレンジア学園に正式に入学してからも変わることは無かった。
ところで、高等部の三年生に差し掛かったころに、編入生が現れたことは校内でも大きな話題として生徒たちの間で盛り上がっていた。
「聞きました? 今度の編入生は平民だそうですよ」
「まあ。どこぞの大商会の御曹司とかそういう……?」
「それが、なんと特待生とのことでしてよ。何でもご実家がベーカリーであるとか」
「ベーカリー? にわかには信じがたい話ですね……」
噂は尾びれ背びれを付けて学園中を回遊していく。当然それはセーヌの耳にも届いた。
(ついに本編ってわけね。スージー・プラヴォ……私はあなたには、決して負けないわ)
ついにその時が来たのかと。本編が、シナリオの強制力が働き始めるのかと。覚悟ガンギマリで血走っているセーヌの目を見て、スタンは動揺するとともに物思いに耽っていた。
(普段は何の感情も灯っていないあの眼が、あんなにも轟々とした感情を秘めている。何故だ? あんな恐ろしい覚悟と凄まじい信念を滲ませるような眼を見るのは初めてだ。何が彼女にそうさせている??)
普段は無機質で機械仕掛けの人形のように反応の無い彼女が、はじめて非常に人間的に見えたのだ。そのことは非常に興味を惹く事であった。
何が彼女を人間足らしめているのかが知りたい。婚約者である自分には一度も見せたことの無い感情を、ああもむき出しにさせるようなものとは一体何なのか。スタンは気が気ではなかった。彼は彼女に強い執着を、少しずつ募らせていた。
こうして、王立ハイドレンジア学園の入学式には、今年も華やかな顔ぶれが揃った。名門貴族や実力主義の魔法師家系、将来有望な騎士の卵、そしてーーごくまれに選ばれる平民枠。
今年の平民枠で編入してきた女の名は、スージー・プラヴォ。生粋の平民で、郊外のパン屋の娘。
そして、彼女もまた転生者であった。
(あ~、やっぱここ『運命のハイドレンジア』じゃん……)
入学式の会場で、生徒代表あいさつで舞台に登壇したスタンを目撃した時、彼女の顔は瞬く間に土気色となった。
時折彼の視線が行く先に目をやれば、そこにいたのはセーヌ・ヴォン・プリューヴ侯爵令嬢。『運命のハイドレンジア』に登場する悪役令嬢その人だった。
スージーもまた、前世で『運命のハイドレンジア』を散々遊びつくした者の一人であった。
彼女はそうそうたる顔ぶれを確認し、その瞬間に悟った。これはかつて自分が前世でプレイしていたゲームの世界観と寸分違わない世界であることを。
シナリオ自体はもう今のご時世どこにでもある『平民のヒロインが恋と正義で貴族社会を変え、見目麗しい公爵令息と結ばれる』という物語だ。そしてその中における自分の役割は、その過程で悪役令嬢に徹底的に虐められ、卒業の日の舞踏会で悪役令嬢を断罪し、公爵令息のスタンと結ばれる“ヒロイン”であるということも彼女は正しく理解していた。
しかし、原作におけるセーヌは兎にも角にも、凄まじく威烈な悪役令嬢であった。
(いや、いくら将来が安泰だからって、それまで丸一年徹底的に虐め抜かれろってわけ? 冗談じゃないわ。私は絶対にあの女には近づかないし、スタン様にも近づかない)
スージーは心に誓っていた。
セーヌには絶対に関わらないことを。もちろんスタンにも近寄らないことも。攻略対象? 知るかボケ。自ら進んで苦行を受けるなんて冗談じゃない。私は今世も前世も修行僧じゃねーんだぞ。私は絶対に『シナリオ』には巻き込まれない。
目立たず、波風を立てず……!
誰にも執着せず、何も欲しがらず、ただどこにでもいる生徒のひとりとして平々凡々に卒業する。それが私の最適解。そう彼女は結論付けていた。
関わってしまったら最後、花瓶や壺を始めとした土器が雨あられと自らの頭上に降り注ぎ、廊下を歩けば格ゲーのような鋭い足払いが驚異的な発生速度で飛び交い、お手洗いに入れば室内通り越して個室なのになんかみぞれというか氷水が降るし、密室にうっかり入ればどっかのアクションゲームのボス部屋にでも入ったかのように入ってきたドアは二度と開かないように鍵がかかって謎解き脱出ゲームが始まる。飲料を渡されたら睡眠薬やらが盛られていて飲めば眠らされるだろう。そこから前述の脱出ゲームルートに行くこともあり得る。それに傾斜のある道は坂だろうと階段だろうと通れない。相撲取りのような張り手を胸やら背中やらにドスコイされて転がり落ちるから。
校舎の裏にも行けない。囲まれておリンチ遊ばせとなる可能性がある。窓からよく見えるような安全な道だけを通らなければならない。
パーティーとかも危険だ。やれワインだのジュースだのなら浴びてもいいが、熱々のオニオングラタンスープとかこれでもかと胡椒を振りかけられた毒物みたいな得体の知れない肉が自分の鼻目掛けて正確に射出されて大やけどを負いながら胡椒でくしゃみも止まらなくなるという訳の分からない事故だって起きる。
(……いや、冷静に考えてこれ私が1年生き延びるの無理では??)
思わず白目になるスージーであった。
一方、セーヌもまた、同じ頃に同じように強い決意を滲ませていた。そしてスージーの脳内で鳴り響くものと全く同じ警報が頭の中でけたたましく鳴っていた。
ヤツと関わってしまったら最後、たとえ自分を律し嫌がらせをすることが無かったとしてもありとあらゆる強制力が働き、ヒロインに対する嫌がらせ、もとい犯罪行為が自分の名のもとに忖度という大義名分で横行してしまうだろう。そしてそれを口実に自分はプリューヴ家有責での婚約破棄、からの追放野垂れ死にコース。だからこそ自らは決して動かず、彼女とも可能な限り近寄らない。これはせめてもの自衛である。
そうでなくとも、もしヒロインがスタンと会ってしまったら。スタンが突然メロメロになり骨抜きにされて彼女の傀儡となるかも知れないのだ。逆ハーレムが形成されて骨を抜かれた肉でできたゴーレムの集いになってしまったらもうその時点で終わりだ。それを自分から近寄る? ありえない。
(いや、冷静に考えてスタンに接近されても終わりでは? 不可抗力多すぎて私もしかしなくても実はもう詰んでいる?)
同じく白目で泡を噴きそうな表情を何とか扇で隠すセーヌであった。
こうして二人の転生者の思惑が交錯する中で、新たな学園生活が幕を開ける。
それまでは婚約者と近寄ることなんて一切してこなかったセーヌは、打って変わってしきりにスタンと会いたがるようになった。急な心変わりは内心嬉しかったスタンだったが、しかしその割には相も変わらず関わりたくはなさそうな様子に内心動揺していた。
(なんで俺とは明らかに会いたくなさそうなのにしきりに会いたがるんだ?? つら……)
当たり障りのない会話。
天気はどうとか、お勉強がどうとか、あの書籍がどうとか、あの花がどうとか。最近の交友はどうとか。
セーヌが知りたいのは無論最後の交友――それもより具体的には、例の女と交友を持ってしまったかどうかのみで、あとは微塵も興味の無く、目の前の男との最低限の面会時間を少しでも保たせるための中身の無い会話でしかなかった。
「時に、スタン様」
「なんだ?」
「今年の編入生たちはもうクラスに馴染んでいますでしょうか? 特に今年は数年ぶりに平民枠の方がいらっしゃるとか……」
「ああ、どうなんだろうな。俺もクラスが異なるから分からんが、今のところ妙な噂とかもなさそうだな」
「そうでしたか」
その言葉を最後に、彼女はあからさまに興味を無くす。
「それにしても、今日はお日柄もよくて本当によかったですわ」
「あ、ああ……」
(お日柄の話、今日もう3回目じゃないか? えっこれ何??)
もちろんスージーも学園生活は心中穏やかではなかった。
学園の寮に住まう彼女は、自室の外では一切気を抜けない生活を送っていた。
(やばっ、あれはスタン・ノルマール!)
最終的にお日柄の話を4回はし、虚無の表情で寮への帰路についていたスタンの気配を敏感に察知したスージーは直ちに気配を押し殺した。
気配とは、一般的に視覚では捉えられないが、漠然と周囲の様子から何かを感じ取れるものである。それは音だったり、熱だったり、匂いだったり、魔力であったり、様々な複合的な要因から気配というものは察知されるのだ。
それを正しく認識していたスージーは、気配を気取られぬように息を止め、指先で立つようにし足音を消し、魔力の放出を極限まで抑える暗殺者さながらの隠密術をいかんなく発揮し彼の視界に入る前にその姿を隠し、彼が通り過ぎるのをひたすら待ち、曲がり角を超えて姿が見えなくなるのを確認してようやく呼吸を再開した。
(あ、あっぶね~~死ぬかと思った。いやむしろ死ぬかと思った。いや逆に死ぬかと思った……)
絶対に攻略対象と悪役令嬢には関わらないと決心していたスージーは、日頃から平民らしく控えめな服を選び、髪も結ばず、無個性でいることに徹し、誰とも親しくすることもなく、誰にも見せ場を作らせず、地味な立場でひっそりと学園生活を送っていた。
その透明人間ムーブがあまりにも出来すぎていて、先生に用があって職員室に訪れると毎回先生に驚かれるという要らぬ副作用があったが、それでも彼女の卓越した隠密スキルは功を奏し、二人はそれぞれ相対することもなく、シナリオを進展させることもなく、日常生活を過ごしていた。
しかし、彼女たちの計画にも狂いが生じる。
それは夏休みが終わって初登校日の朝のこと。また気を引き締めてシナリオ回避をしなければと改めて意気込んでいた二人は、しかし致命的な間違いを起こしてしまった。
「……――!!」
「はっ……!!」
二人は、授業再開初日という事でお互いにお互いを避けるために敢えて登校時刻をずらしており、その時刻が見事にバッティングしたのだった。
廊下の反対側から双方が双方をそれぞれ確認した瞬間、緊張感が走った。
(まずいまずいまずい、あれヒロインじゃん! どうしてこんな時間から学園に居るのよおかしいでしょう!!)
(やばいえっ待ってうそでしょなんで悪役令嬢いるのちょっと聞いてないんだけどまだこんな時間なのに!!?)
お互いにお互いの事を視界にロックオンしてしまったが最後、今更引き返して避けるわけにもいかない。
――そんな事したらヒロインはその場に泣き崩れ、あることないことを人に吹き込んで本編が始まる。
――そんな事したら悪役令嬢が私に目を付けて1年間の間にやりたい放題で縊り殺される。
一歩、足を進めるごとに時の流れが減速していく。
足が前に出ると同時に、空気の密度が増し、呼吸が遮られていく。
脂汗が滲み出る。視線を合わせたら最後だと思うと顔はあげられない。
動悸が悪化していく。血圧が上がり、胸に在るはずの心臓が、まるで頭蓋骨の中にでも移ったかのようにドクドクと耳元で音を鳴らし、それが瞬く間に片頭痛となり自分の脳を締め上げ、痛覚が悲鳴をあげる。
(お願い……何も起こらないで……!)
息ができず、呼吸が早く浅くなる。
少しでも新鮮な空気を吸うためにはしたなく口を開けたくなるのを、必死の形相で役割を完全に放棄した淑女の仮面を強引に被ることで、抑え込む。
酸欠で明らかに思考が鈍くなり、足元が覚束なくなるのを根性で地面を踏みしめ、それでも2人は前へと進む。
(神様……どうか私をこのまますれ違わせて……!)
まだすれ違わない。まだか。まだなのか。
どうしてこんなに時間の流れが遅いの。
私は平穏な一生を送りたいだけなのに。
もう足の感覚が喪われている。雲の上を歩いているように地面の感覚が無い。
ここがどこだったかももはや思い出せない。絶対的な死がそこにあることしか分からない。
私にとっての死が顕現し、こちらに歩みを寄せている。逃げる道など無い。今目を瞑ればきっと走馬灯が見れるはず。
どれだけの時間が過ぎ去ったのか。一生分にも思えたその短く、永遠とも思えるような廊下の中心で、彼女たちは相対する。
彼女たちの運命は、今まさに交差し、絡まりあうことなく――そのまますれ違った。
(……、……)
足音と、己の心音だけが耳に残る。
呼気の音はそこにはない。二人とも息をすることを忘れていたからだ。
そして双方は教室へとそれぞれ入って言った瞬間に、二人とも未だ空であった教室の床にほぼ同時期に崩れ落ちた。
「や……やったわ……」
「せい、ぞん……した……」
胸を必死に抑え、過呼吸さながらに吸う空気の何と美味たることか。
新鮮な酸素を取り込んだ脳細胞が、急速にその活動を再開していく。
生きているって素晴らしい。
極度の酸素不足でもはや完全に喘いているし顔もヤベーことになっているが、そんなこと知ったこっちゃない。私は、自分は、ヒロインVS悪役令嬢イベントを回避し、生きている。生きていれば丸儲け。
お互いにお互いの事を完全に恐怖し、完全に恐慌状態に陥っていた二人が、ようやく冷静さを取り戻しそれぞれ教室の床から立ち上がるにはそれぞれ五分ほどの時間を要した。
(それにしても、声を掛けてこないということは、案外分別のあるヒロインなのかしら。いずれにしても心臓に悪すぎるから、もう二度と会いたくない……)
(生きた心地がしないわ……寿命縮んだ……今回は運が良かったけど、次はないだろうし改めて気を引き締めないと。油断していたわ)
こうして彼女らは引き続き細心の注意を払いつつ学園生活を再開した。
すれ違うだけで魂がすり減るという新事実に気付いた二人は、偶然すれ違いそうなときは、頭の中に2Dマップでも映っているかの如く敏感に互いを察知しそのタイミングを外した。あるいはそもそも廊下ですれ違わないようにルートを変え、同じ図書室にいたら音も立てずに片方が退出し、下校時間が重なればその場でいずれかが無い用事を無から創出し対面を回避した。その見事なまでの非接触ぶりはまるで暗黙の結界でも張っているかのようだった。
そうしてセーヌは周囲から完璧な貴族令嬢ではあるものの、どこか壁があると距離を置かれるようになり、スージーも物知りではあるが気配が王国の暗部並に薄い、変わった平民であるという認識をクラスで持たれるようになった。
お互いにお互いを危険視し、接触を徹底して拒絶していたために彼女たちはお互いに転生者であることをそのまま知らず、人にも悟られず。故に双方間の誤解も当然一度も解けることなく、ただただ静かに時間だけが過ぎていった。
そして卒業式の日。運命の日。
(ここを乗り越えれば、死は回避できる……!)
(運命の日……ああ、どうか何も起きませんように!!)
プリューヴ公爵邸の前に一台の馬車が停まる。
中から降りてきたのはスタンであった。
「セーヌ」
そういって、彼は白い手袋を嵌めたままの手を差し出す。
セーヌは扇で顔の下半球を隠し、緊張で口内に溜まった生唾を盛大にゴクリと喉を鳴らし呑み込むと、意を決しその手を取り、卒業式の場――断罪ダンスパーティの会場へと向かうのだった。
「行こう」
「……ええ」
馬車の中で、スタンは内心ため息をついた。
セーヌが馬車の外を漠然と眺めるような仕草をしておきながら、またあの覚悟ガンギマリの眼をキメていたためだ。
(嬉しそうな目をしたり、あるいはいっそ黄昏た目をしたりするならまだ分かる。なんだその明らかに情景とは不釣り合いな表情は!?)
目がバッキバキにキマりまくっているセーヌを前に、掛けるべき言葉も見つからない。というか怖い。ドレスの下に武器でも仕込んで無差別テロでも起こしかねないその表情に、スタンは戦々恐々としていた。
そして馬車の乗員二名がそれぞれ不穏な空気を垂れ流し御者が気を揉む頃、人林早く会場についていたスージーもまた、目がバッキバキであった。
(……来るわ。これ絶対あるでしょ。この静けさは嵐の前のーー「断罪イベント」前の静けさだわ。私には分かる。だって私、ヒロインだもの)
ジュースを片手にスージーは壁の華、いや壁は壁でも外側の壁の付け根に生えているぺんぺん草となるべく到着早々速やかに会場の隅に陣取り、壁際のテーブルでひっそりとジュースを握りしめ時が過ぎるのを待っていた。
今日だけは悪役令嬢セーヌと接触を回避することはできない。今まで直接的に何かをされたことは無いしこちらもアクションを起こすことは無かったが、最後の最後にスタンがトチ狂って突然IQ一桁みたいな台詞と共に私の手を突然取って婚約破棄宣言するかもしれない。
もしそんな事があればセーヌとスージーの立場は入れ替わり、自分こそが『悪役ヒロイン』としてこの後散々に謂れなきざまあをされるかも知れない。
――そうだ、ここまで一つ大事なことを失念していた。と、唖然とした様子でスージーは恐怖した。
この世界がもし、私の知っている世界ではなく、運命のハイドレンジアの世界を基にした悪役令嬢物の世界だとしたら……?
(しまった!! 知っているキャラにばかり目が行って悪役令嬢物の可能性を検討していなかった!! そもそも考えてみればこの世界はとっくの昔に私の知らない方向に進んでいるし、セーヌが私に一切干渉してこないのもまさかよく似ているだけで違う世界で、私ではなくセーヌを主人公とした悪役令嬢物の世界だからなの!? も、もしそうだとしたら……この先の私に待っているのは身に覚えのない逆ざまぁと、死――)
二足歩行を維持することができず、フラリとスージーは近くのテーブルに手を置く。傍から見れば顔面は蒼白で、今にも倒れそうであった。
「君、大丈夫か?」
声を掛けてくれる男子学生の声に耳を傾ける余裕など、彼女にはなかった。
もしもこの世界が悪役令嬢物で、自分がざまぁの対象だったとしたら。修道院行きになるのは別に構わない。戒律が厳しいとか言っても前世の知識を参照すればやることなんて粗方見当がつく。それよりも問題なのはもし自分が処刑されたりするルートに入ってしまった場合だ。
冗談じゃない。こんなところで死ぬわけにはいかない。しかしもしざまぁされたとて、こちらがざまぁ返しするほどの力はない。何といってもセーヌは侯爵家の令嬢。平民を潰すことなど児戯にも等しい。それこそ本来の残虐性で縊り殺される可能性だってある。そんなことになれば、詰みだ。
であれば、もうここから一刻も早く、逃げるしかない。
「だ、大丈夫か!?」
「え、ええ……ごめんなさい、ちょっと気分が優れなくて……医務室まで連れて行ってもらえますか」
「もちろん。さ、捕まって」
気分が違う意味で優れないのは確かなので、これ幸いとばかりに自分に声を掛けていた男子学生に掴まり、彼女は会場からの脱出を心に決めた。
筋肉質で骨太な、逞しい腕だ。掴まっていて、安心感を覚えるような代物だった。
(ああ……全てが上手く行ったら、こういう安心感覚える腕の男の人と付き合いたいわ……もうだいぶ疲れた……)
こうして目の前に用意された言い訳に飛び乗り、スージーが脱出を決めたころとほぼ同時刻にセーヌとスタンは揃って入場を果たした。
セーヌはバッキバキの眼を細め、会場を隈なくスキャンでもするように辺りを見渡す。
(いない)
今いないという事は、後から現れるパターンか。
ある意味本当に主役なのだから、後から現れる主役級として登場して婚約破棄を宣言され、私を糾弾する筋書きか。
(でも、私は何も悪いことなどしていない。させてもいない。私に隙は無いはず。この三年間、慈善活動も寄進も、何もかもを完璧にこなした。これでもし断罪されるようなら、それは最早シナリオの強制力だわ。それともまだどこかに見落とした穴が――)
疑心暗鬼に陥るセーヌをよそに、スタンが正面から彼女に向き合う。
「一曲」
再度差し出された手を見て一瞬戸惑い、手を取り踊り始めた。
ステップを刻むその様は往年の婚約者同士であるためか極自然で、阿吽の呼吸で二人は瞬く間にダンスホールの主役と化す。
「こうして君と踊れることを、誇りに思うよ」
「は?」
いや、セリフ違う。
『貴様の悪行は暴かれた』ではなく『君と踊れることを、誇りに思うよ』?
思わず口を出た言葉にスタンが悲しげに目を伏せる。雨の中で見捨てられた子犬みたいに。
辺りに共に踊るクラスメートや観衆もいる事をふと思い出したセーヌは慌てて言葉を紡ぐ。
「こっ……婚約者なのですから、これからもこうして踊ることなど、幾らでも有りますでしょうに。藪から棒ですわね」
その言葉に、ふと、スタンは顔を上げた。
「君は……これからも私と、居てくれるのか」
何言ってんだこいつ。
と、そこまで考えたところで、セーヌの頭に立ち止まりかけるような気付きが舞い降りた。
(そういえば私、断罪回避にばかり気が行って、断罪回避した『後』のこと、何も考えていなかったかも……)
もし、これで何もかもが上手く行き、スタンと別れることなく今日を乗り越えたとして。そのあとは?
セーヌは断罪を回避するためにスージーを回避し、スタンの事も入学までは回避し続けていた。そこでようやく、自分が断罪にしか目が行っていなかったせいで、スタン本人と向き合うことを完全に失念していたことに気付いてしまった。
であれば、雨の中で見捨てられた子犬みたいな表情にも、説明がつく。
(え、もしかして上手く行っている感じこれ? だとしたら婚約者一生放置していた私って……え、結果的にだけど私って客観的にみたらかなりヤバイ女じゃん。このままでは結婚したとしても夫婦関係築けない……!?)
「あ、当たり前です。貴方の婚約者は私一人なんですから!」
取り繕うために顔が引き攣っていないか内心冷や汗を流すセーヌをよそに、スタンはまばゆい笑顔を彼女に向ける。
内心罪悪感を覚え、少しずつスタンへ今までの放置プレイの償いをしていこうと決心するセーヌであった。
こうして、舞踏会は、華やかに終わった。
在校生による卒業記念ダンスパーティの運営委員会の記録には『特筆事項なし』と書かれ、断罪も逆断罪もざまあも起きず、“何も起きなかった”という奇跡的でいて、ただの日常でしかなかった一夜は、静かに幕を下ろした。
スージーは、自分を介抱してくれたあの男爵令息の安心感のある腕が忘れられず、片思いを抱える事となり、失恋の後に子爵家に政略で嫁ぐこととなった。
セーヌは卒業から数か月後に挙式を上げ、ノルマール家の敷居を跨ぐ事となった。
二人の人生はそれを最後に、特に重なり合うことは無かった。
ちなみにセーヌはその後「はっ、これはまさか『君を愛することは無い』ルート!?」と一瞬身構えましたが特にそんなことはありませんでした。




