第7話 堪能しちゃった
二人とも床へ座った。
私は足を崩しながら、晴乃さんは内履きを脱いで綺麗に正座した。
いつもながら綺麗な姿勢だ。ある種、作り物のように見えなくもない程に容姿と佇まいが整ってる。
「それじゃあ! ……どうしたらいいかな?」
「少々お待ちください」
勢いでとのことだったから、雰囲気だけ勢い込んだんだけど、まるでどうしていいか分からない。レクチャーを受けた晴乃さんに丸投げすると、急に服のリボンへ手をかけた。
横開きのメイド服、合わせ目に5つ並んだリボンが上から順番に一つずつ丁寧に外されてく。全てが解かれると、ためらいもなく上着を脱ごうとした。
「……ぬ、脱いじゃうの?」
「ええ、勿論」
衣擦れの音と共にメイド服の前が開かれる。そこから見えたのは肩紐のないチューブトップ型のインナー。黒色の肌着は剝き出しとなった白い肩を、よりはっきりと浮かび上がらせるような錯覚を与えてくる。
晴乃さんが脱いだメイド服を丁寧に畳んでいる間、肌着一枚となった上半身がどうしても視界に入ってしまう。
やせ型だけど細すぎない体つき、決して筋肉質ではないけど脂肪じゃない肉がついた、健康的な身体だ。肌着一枚になったことでよくわかる胸部は、前から小さくは無いと思っていたけど、しっかりと女性らしいシルエットを形成してる。
「そうも見つめられると流石に恥ずかしいのですが」
「ご、ごめんね」
「まあ、これからこういった機会は多いでしょうから私が慣れるべきなのでしょうね。それよりも、ほら」
お腹の高さで小さく手が広げられて、こっちにおいでと誘われてる。言い知れない恥ずかしさを覚えるが、膝立ちになり素直に近づいてく。
お互いの膝がぶつかりそうになるくらいの位置で止まると、晴乃さんの方から手を回してくれた。脇下から手を差し込まれて、背中に回った手がゆっくりと引き寄せてくる。
完全にリードされた私はなすが儘に抱きしめられる。彼女の膝の上へ跨って座る形となって、私たちの上半身は密着した。
そうして私の顔は、今や首筋の目前まで寄せられてる。彼女の手が私の後頭部を優しく押して、この位置まで誘導してきていた。
間近で見る首筋はとても綺麗な曲線を描いていて、すべすべとした質感を感じさせる。
「さあ、どうぞ」
促されるままに首筋へ顔を自ら埋めた。唇へ生温かい柔らかな感触が伝わる。
それに伴っていい匂いが鼻をくすぐる。石鹸と晴乃さん特有の匂いが交じり合った清潔感のある香り。ただこの香りはとても希薄だ。顔を間近まで近づけてようやく気付ける程度だった。
はっきりとした匂いの輪郭が掴めなくて、大きく何度も息を吸い込み確かめてみる。
「しっかりと洗ったつもりですが匂いますか?」
「ち、違うの。変な匂いはしてないよ!」
「んっ、……そこで口を動かされるとこそばゆいですね」
とっさに謝りそうになったけど思い直し、代わりに私からも抱き返して、まわした手で背中を優しく撫でた。
さらに腕に込めた力を強くすると、私の気持ちを察してくれた彼女は何も言わなくなる。
私達吸血人の犬歯は鋭く長い。やはり、この牙と言って差し支えない歯で皮膚を傷つけ、血を貰うのだろう。
口を開き、首周りの肉がついている部分を食む。牙を皮膚へ押し当てて、下の歯と挟むようにしてゆっくりと噛みつこうとした。
だけど牙は皮膚を突き破るどころか傷つけさえもせず、ゆっくりと皮膚の上を滑り閉じられた。何度かやり直すように口が開けるが、その度に何もせず閉じることを繰り返す。
流石に失敗しただけじゃないと感じたのか晴乃さんが尋ねてくる。
「上手くできませんか?」
「……あのね、私の歯って尖っているの」
「そうですね、先ほどからチクチクとした感触があります」
「だから、これで刺したら……痛くないかな?」
相手を傷つける想像をして尻込みしてしまった私に対して、彼女は困ったような、呆れた様な笑い声をこぼす。
そして私の背中を軽くポンポンと叩き、一度離れるように促した。
体を離し、膝を突き合わせる距離で向かい合って座る。
「今度はそんなことを気にし始めたのですか?」
「だって酷いことはしないって約束したし……」
「血を吸う以上、流血は覚悟していますよ。痛いのは無論好きではないですが、それで怒ったりしません」
「……うん」
「わかったら続きをしましょう、と言いたいところですが、優しいお嬢様はまた何かの弾みで躊躇ったりしそうですね」
そんなことはもうないと断言できない。消極的な私はもしかしたらやらない理由を探してしまってるのかもしれない。
「そこで、です。いざという時に備えてまして、秘密道具を用意しています」
「秘密、道具?」
そんなものいつ用意したのか、何故最初から使わなかったのか、私をやる気にさせるものとは何なのか。疑問は尽きないけど、静かに続きを待つ。
「ええ、台所から拝借してきました。汚れるので弁償することにはなりますが許して下さい」
そう言って折り畳まれたメイド服のポケットから取り出してきたのは、カバーが付けられた小さな果物ナイフ。そんなものどうするのと問う前に、カバーが外されむき出しになる。
「危ないよ?」
「見ていて下さいね」
彼女は刃の先端を左手の人差し指の腹へ当てて、ゆっくりと肉へ食い込ませてく。やがて金属の鋭さに肌が負け、刃先が埋まった。
その間、彼女は食いしばる様な表情をしてたけど、うまく刺さると此方へ笑顔を向けてきた。
「ほら、いかがでしょう」
刃物を引き抜いて、人差し指を此方の鼻先へ向けてきた。
僅か数ミリしかない赤い線、そこから液体が漏れ出てくる。線が徐々に太くなってきて、次第に球体へ姿を変える。ぷっくりと珠へ姿を変えた血は、つやつやとしていて宝石のようだ。
じっくりと血が膨れ続ける。だけどやがて重力に耐え切れなくなった珠は指を伝って零れ落ちる。濃い赤色が緩やかに滑り落ちていって、掌を通り手首までを汚した。
ここまで大した時間は経ってないだろう。だけど私にはスローモーションのようにゆったりとした動きに見えてた。
「あぅ……」
血の濃い匂いが漂う。むしろ部屋中へ充満したみたいに、それ以外が知覚できない。この匂いは私の頭を揺さぶってくる。頭の中がグラグラと煮えるように熱くなってきた。
動悸する心臓が大量の血液を全身に送り出しているのか。鼓動の激しさに釣られて呼吸までも乱れ始めている。
思考はただ一つの感情に塗りつぶされる。「乾いた喉を潤せ」それに尽きた。はしたなく喉を鳴らして、目の前のご馳走を確保しようとし手を伸ばす。
だけど手首を掴もうとした手は空を切った。血で濡れた手は奥へ引かれ、代わりに逆の手が待ったをかけるかのように突き出される。
「なんで――」
焦りか怒りか、荒い語気を発し引いた手を追いすがろうとする。
「間違えてはいけません。此方へお願いします」
すると血で濡れた手が反対の肩口へもってかれ、肩口から首へとゆっくりとなぞられる。するとその後には赤い線が引かれた。
白と赤のコントラストがあまりにも優美で一瞬目が奪われる。そのまま誘われるままに彼女へ覆いかぶさった。
勢いがつきすぎて、崩れるようにして倒れこんだ。本来だったなら彼女の身を心配する場面ではあるのだけど、今は眼前にある赤色のことしか考えられない。
今度は逃がさないように肩と腕を両手で抑え込む。抵抗は無い。肩口へ唇を落として、なぞるように赤い線を舐めとっていった。
付着した量は大したことなかったので、淡い血の味しかしない。ただそれだけでも美味に感じた。他の何にも形容しがたい体が求めてる味だ。
終点の首筋、ここからならもっと沢山の、更に濃い美味が楽しめる。本能がそう告げてる。私の中にもう躊躇いは一欠けらも無い。
無いが、理性は一欠けらだけ残ってた。
決して酷いことはしないとした約束。
「んっ……くっ」
肌へ容赦なく差し込まれる牙、肌を突き破る痛みに晴乃さんの苦痛の声が漏れる。
だけど思っていたよりも痛みは少なかったんだろう。すぐに落ち着きを取り戻して、そのまま吸血を促すために背中を優しく撫でてくれる。
牙は躊躇いなく刺さりはしたけど、全力では噛んでなく傷は浅い。加減したから出てくる量は非常に少ない、恐らくジワジワと滲み出す程度の量だろう。
だけど今はそれで十分だ。傷口から溢れる血を、舌を這わせて掬い取り口中で味わう。
「……んっ」
息が漏れ出た様な、決して苦痛でない声が聞こえた。
「失礼、妙な感覚がして……」
「……」
「えっ、あっ!? こら……んふっ……あ……っつ!」
何かはわからないけど、しかし、先ほどの声は確実に琴線へと触れるものがある。
彼女の声を聴いてると、吸血の興奮とはまた別な熱いものが込み上げる。もっと、もっと聞かせてほしい、そんな邪な心がこの場にて不適切な行為へと導いてくる。
傷からは離れた無関係の場所へ舌を這わせた。舌先をチロチロとあえてくすぐるように動かしたら、戸惑った声と求めていた反応が返ってくる。
だけど声だけでも物足りない、血も欲しい、両方が欲しい。傷がまだついてない、元の傷より少し下がった肩に近い場所、そこへ新しく牙を軽く差し込む。
不意打ちで痛みに襲われたためか、押さえつけていた肢体がビクリと撥ねるように震えた。
――すごくいい。
色々なものが満たされてくのを強く感じる。
それからは先は夢中になって貪り続けてた。血が止まりそうになる傷へは舌先を穿ち弄ると、また再び滲み出してくれる。
血を与えてくれる傷口には逆に優しく接する。舌の腹で穏やかに撫で、唇でつつくように吸い付き、舌先で傷の淵をくすぐる。
「ん……ふっ……ん……あっ……」
鋭い刺激と背中を駆け上がる疼くような刺激。その両者の緩急に翻弄された彼女は、背中に置いた手を刺激のたびに強く握りしめ耐える。
断続的な短い呼吸音、息も荒くなってる。大きく息を吸おうとしても刺激に邪魔をされて詰まり、乱されるんだろう。
明らかに晴乃さんの状態も切羽詰まって余裕がないように感じる。それでもただただ耐え忍び、私の好きにさせてくれてる。
今どんな気持ちなのか、どんな顔をしているんだろうか。とても気になる。
怯えてるのだろうか、それとも怒ってるのか、はたまた悲しんでるのかもしれない。ここにきてようやく相手を気にする理性が戻り始めた。
顔を首筋へ埋めたままじゃ確認することは出来ない。声をかけず、無言のままそっと上体を起こして彼女の顔を盗み見る。
閉じられた目の端には涙が溜まって、眉間には小さな皺が寄っている。口は引き結ばれていて一文字を描く。上気した肌は僅かに朱が差し、汗が滲んだ額に数本の髪の毛が張り付いてた。
一拍おいて私が離れたことに気づかれた。目が開けられ私を見つけると、安心させるように微笑んでくれる。潤んだ瞳が美しい。
「……もう、満足、したんですか?」
言外に、まだ満足してないなら続けてもいいんだよと伝えてくれる。
まだ私を気遣ってくれるんだ。彼女のことなど意も介さずに好き放題、欲求を満たし続けてたこの私を。
そしてまだ甘えさせてくれるのか、まだ許してもらえるのか。
確かめるためにもそっと首へ手を伸ばして、傷口を力を入れず撫でた。
その瞬間、反射的に彼女の顔が歪んだ。これからまた来るであろう刺激を予感して、ほんの一瞬ではあるけど先ほどの耐えるような表情へ戻ってしまう。
ただ、軽く触れただけなのに。
そんな彼女の反応を目の当たりにして、私の中には二つの思いが脳裏に浮かんだ。
――もう晴乃さんに無理をさせてはいけない。ずっと憧れてた大切な人なんだから。十分堪能させてもらった、必要以上に彼女を貪る資格はないはずだ。
――歪んだ晴乃さんの顔もまた綺麗だ。普段は涼やかな顔を、私が歪めてるのは背徳的な愉悦を感じる。私の手で、私以外には見せない顔を晒してほしい。
理性と欲望が天秤へ乗せられる。
初めこそ釣り合っていたけど、次第にバランスが崩れ、理性へ傾き始めた。
未だ興奮こそ冷めやらないが、血への飢えは満たされかけてたからだ。
依然として味わいたい、楽しみたいとは強く思う。しかしもう我儘は終わりにしなきゃいけない。掴んでいた手をそっと離す。
「うん、もういっぱいもらったよ。ありがとう……ごめんね」
「本当ですか?」
「うん」
「……嘘ですね。また優しい顔になってしまっています。美徳ですがあまりにも気を遣われると少々寂しく感じますよ」
「そう、なの?」
「ええ」
彼女はゆっくりと左手を持ち上げて、私の頬を触った。軽く握られた拳の人差し指の背中で小さく擦ってくる。無抵抗でされるがままになってるが、なんだか面映ゆい。
人差し指だけ開かれると、ナイフでつけられた生々しい傷が目に入った。
大きな傷ではないため、既に流血は止まりかけてる。それをそのまま唇へと近づけたかと思うと、するりと口内へ侵入させてきた。
ゆっくりとまさぐられ、舌をさすられると、血の味が感じられる。
「我儘言っていいんですよ。本心から満足するまで思うがままに振舞ってみてください」
「どうしてそんなこと言えるの? ……私に言ってくれるの?」
「どうしてでしょうね」
彼女は私に対して優しすぎる気がする。初対面の時もそうだったし、まだ仲が深まってるといい難い今晩も、全てを受け入れてくれる素振りを見せる。
誰にでもこうなのだろうか。いや確証は無いがそうじゃない感じがする。そうであって欲しいと思う、私の願望かもしれないが。
「今は奉仕精神へ目覚めたとでも思って下さい。メイド業も最近は板についてきたと自負しております」
「……適当なこと、言ってない?」
「半分ぐらい本音ですよ」
質問ははぐらかされたけど、お喋りして休憩できたからか冗談を言う余裕が生まれてた。
呼吸も大きくはあるが、整ったものへ落ち着いている。
「……じゃあ我儘、いっちゃう。私が眠くなるまで付き合って」
「かしこまりました、お嬢様」
顔には疲労の色が浮かんでたが、返事をする表情は裏表のない笑顔を見せてくれた。
「ただ、背中も痛くなってきましたので良ければ続きはベッドでお願いしてもいいですか?……わっ!」
彼女が我儘を許してくれた、いやむしろ、これはもう、誘われてるんじゃないだろうか。誘われてるといっても過言じゃ無いはずだ。
その事実に心が逸り、話を最後まで聞く前に行動する。馬乗りの状態から脇へ降りて、両手を彼女の背中と膝の裏へ差し込んだ。
そのまま持ち上げ、立ち上がる。俗にいうお姫様抱っこの体勢だ。
「……見かけによらず力が強いんですね。吸血人だからでしょうか?」
「そうだよ。むしろ周りと比べると弱い方かな」
ベッドへそのまま運ぶ。高校へ入学する頃に買い替えられた広いベッドは、今日この日のためにあったのかもしれない。
彼女を慎重に寝かせると私は脇に座る。
「……先ほどとは目つきが変わりましたね」
「そうかな」
「今は優しくない目つきです」
「怖い?」
「ええ、今にも襲われそうで怖いです。嫌いではありませんが」
やっぱり誘惑してきてる!
据え膳とはまさにこれのことだ。間が空いたせいで燻りかけてた心の火が、再び燃え上がるのを感じる。
熱に浮かされるまま無抵抗の獲物へと襲いかかった。
だが今回はもう手で押さえつける必要はない。獲物自ら迎え入れてくれるのだ。
代わりに思い切り抱きしめた。力加減はしているけど、少し苦しく感じるまで強く抱きしめる。
逃がさないためではない、私がどれほど彼女を欲してるかを表すためにやった。
無事伝わったのかは定かじゃないが、何も言わず彼女からも抱き返してくれる。それも私と同じくらい強く。
それがどうしようもなく嬉しい。
その後、私は宣言通り眠くなるまで彼女を求めた。
温かな幸福感と満腹によって次第に瞼が重たくなる。
もうそのころには自身が何をしているのかさえ理解してはいなかったが、彼女の手が撫でる感触だけは最後まで感じてた。