番外編 大学生の二人 前
扉からノックの音が聞こえた。
ふと我に返り、時計を見ると既にいい時間になっている。どうやら集中しすぎていたようだ。
「千鈴さん、課題の進捗はどうですか?」
そう言って晴乃さんが私の部屋に入ってくる。扉が開いたことで、廊下から美味しそうな、いい匂いが漏れてきた。きっと彼女が夕食を作ってくれていたのだろう。大学から帰ってきて一人で黙々と提出期限の近い課題をこなしていいたため、匂いにつられて腹の虫が騒ぎ出す。集中しているうちは気にならなかったけど、どうやら随分とお腹が空いていたらしい。
彼女は私の隣までやってくると、僅かに屈んで机の上を覗き込む。私の肩ごしに覗き込んでいることもあってか、随分と距離が近い。台所からの匂いとは違う、彼女独自の香りがした。私の大好きな彼女の清涼感のある匂いだ。
「何か困ってることとか、ありますか?」
「……」
チラリと横目で見た彼女は、部屋着のTシャツに短パンというラフな格好だ。先ほどまで料理をしていたからか、私がプレゼントした猫の模様が入ったエプロンもつけている。エプロンの紐がかかった首元は、料理中の熱で微かに汗ばんでいた。
白く照った艶めかしい肌を、無警戒に近づいてくるのはよくない。空腹を意識してしまったからだろうか、別の欲求も顔を覗かせてきた。
「どうしました?」
「う、ううん。なんでもない。大丈夫。もうちょっとで終わりそうだから。それよりごめんね、また夕飯の当番変わってもらっちゃって」
「構いませんよ。私の方は課題が早く終わりましたので、手が空いていましたから」
「助け合いです」と言ってくれる晴乃さん。しかし、彼女の方が優秀で課題を片付けるのも早いので、私の方が寄りかかる割合が多い。それについては申し訳ないとは思っているが、割と背伸びして入った大学なので、つい彼女の助けに甘えてしまっていた。
大学生になって約半年、そんな感じで何とかやってこれている。
半年前、私達は無事に同じ大学へ進学できた。晴乃さんがかなり良い所への進学を希望していたため、かなり厳しい戦いに挑むこととなった。だが、彼女のスパルタ指導のお陰で、恐らくギリギリで滑り込むことに成功したのだ。
そうして現在は二人でのルームシェアという形で部屋を借りて、そこから大学へ通っている。講義にバイトにと大学生活は何かと忙しいが、晴乃さんに助けてもらいながらの半年、ようやく慣れることが出来た。本当に感謝しっぱなしだ。
「……ありがとうね、晴乃さん」
「夕食ぐらい、どうってことありませんよ。それより、もう少しでできますので、それまであと一踏ん張り、頑張ってください」
「うん、わかった」
晴乃さんが離れていき退室する。すると嘘みたいに、彼女の匂いまでスッと掻き消えてしまった。名残惜しくはあるが、今は課題を終わらせることに集中するべきだろう。
どうせ今はまだ許されないのだから。
□ □ □
夕食を作ってもらった代わりの後片付けが、やっと終わった。キッチンと併設されたリビングにいる晴乃さんへ声をかける。
「晴乃さん、後片付け終わったよ」
「あっ、お疲れ様です」
彼女は毎回律儀に顔を向けて、笑顔で労ってくれる。おざなりに返事せず対応してくれるのは、些細な事でも嬉しく思える。同棲してから新たに発見した、彼女の好きな所の内の一つだ。
「お風呂は?」
「先ほど準備しておきました。沸くのはまだ少しかかると思います」
そう言って二人掛けのソファに座りながら、お菓子を食べている晴乃さん。同棲を始めた当初はメイドの癖が抜け切れておらず、私が家事をしている間は居心地が悪そうにそわそわしていたものだが、すっかり半年で彼女も慣れてしまったらしい。
メイドを辞めた後でも家事を率先してやろうとするのは、職業病ではないかと心配するので、治ってくれてよかったと思っている。
「晴乃さんは明日、バイトだったっけ?」
彼女が食べていた棒状のお菓子を一本もらいながら、隣に腰を下ろす。チョコレートの甘さと果物の香りが口に広がる。珍しい風味だったのでパッケージを確認すると、どうやら期間限定の新商品らしい。
「ええ、夕方から。遅くなると思うので、夕飯は別々で済ませましょう」
「はーい」
そうなるとは予想はしていた。あくまで確認のためだけだ。適当な相槌を打ちつつ、彼女の肩へもたれかかった。いつものことなので彼女は特に反応もせず、受け止めてくれる。じんわりと体温が伝わってきて心地いい。
彼女と触れあっていると、つい別のことを考えてしまいそうになる。しかし、まだダメだ。あとちょっとだけ我慢しなくては。
ある許可をもらうためにも、晴乃さんへ話しかけようと視線を移すが、彼女はこちらを見ていない。何か別のことを考えているのか、難しい顔をしながら手元を見つめていた。
彼女の手には手帳が握られている。
「何してるの?」
「ああ、すみません。スケジュールの確認をしてました。先ほど酒井さんから、今度の休みに遊びに行かないかと誘われたもので」
「……ふうん?」
酒井、その名前には聞き覚えがある。いや、むしろよく覚えていた。
今年の夏ごろから晴乃さんへちょっかいをかけてくる、同学年の女子だ。あまり晴乃さん以外の人と交流しない私でも、何度か話したことがある。
明るめな色の長髪と物おじしない性格が特徴の子で、色々なグループと交流があって、どこにでも顔を出すようなタイプだ。私とは正反対と言っていいかもしれない。
晴乃さんは私とは違って学内での交友は広いので、その酒井さんとも時々話す機会があるようだ。大学内では常に一緒というわけにもいかないので、晴乃さんの交友関係に口出しするつもりは無い。私は束縛するタイプの恋人ではないので、友達付き合いなら寛容な精神で受け入れるつもりはある。
しかし、酒井さんは例外だと考えていた。
彼女は何だか晴乃さんへの態度がおかしい。妙に馴れ馴れしいし、距離が近い気がするのだ。つい最近では、強引に腕を組もうとして、やんわりと晴乃さんに拒否されているのを目撃もした。
そして何より、彼女も吸血人。
どんな目で晴乃さんを見ているかは、同類だからか何となく感じ取れた。
だから、できれば彼女を晴乃さんに近づけたくはない。しかし、実害がない状態で「酒井さんと関わらないでほしい」と言えば、晴乃さんを困らせることになるだろう。面倒な恋人だとも思われたくない。
二人きりでお出かけとか、何があってもおかしくないから、行ってほしくないんだけどな。もし私が彼女の立場ならなら絶対に、そのチャンスに畳みかける。
「……お出かけするの?」
「いや、難しそうです。土曜日には午後からバイトが入ってまして、休日でただでさえ人手不足なので、シフトをずらすのも厳しそうですね」
「日曜日は?」
「え、あー……」
彼女は、ちょっと気まずそうな顔をして上を向く。
「逆に千鈴さんは日曜日のご予定は何かあります?」
「私? 私は別に何もないよ」
もし晴乃さんも暇だったら、どこか一緒にお出かけしたいなと思ってたぐらいだ。まあ、デートは何度もしているし、いつでもできるから今週である必要はない。
「……じゃあ、一緒に映画を見に行きませんか? ほら、前に話してた映画が今週から上映されるので」
「ああ、あれ今週からなんだ。勿論いいけど。……酒井さんの方はいいの? 映画なら暫くやってるだろうし、見に行く機会はまだあると思うけど」
「まあ、そうなのですが……」
目が合わないように少しそっぽを向いて、握りこぶしを作った手をニギニギと動かす。最近わかりはじめたことだけど、これは彼女が照れているときの仕草だ。
「今週ずっと楽しみにしてましたから……千鈴さんと一緒に映画に行くのを」
ちょっと耳を赤くしながら、小さな声で白状する。デートを楽しみしてくれていること自体は嬉しいが、まだ不思議な点がある。
「私と? でも今初めて聞いたよ?」
楽しみにしていたなら、もっと早く誘ってくれてもよかったのに。もし先に私に予定が入っていたら、いったいどうするつもりだったのか。
「……はい、伝えていないのはさっき気づきました。楽しみにしていたから、既に一緒に行けるものとして予定を立てていたので」
つまり、浮かれすぎて約束もせず、当然デートする気でウキウキと今週を過ごしていたということか。しかも、そんな架空の予定で知人からのお誘いを蹴ろうともしていたのだ。
「晴乃さん……」
「何ですか。何か不満でもあるんですか」
彼女は開き直って、押し黙らせるように強く睨みつけてきた。しかし、そんな形だけの虚勢はむしろ微笑ましい。こんなにも可愛らしい恋人に不満などがあろうはずもない。
「全然ないよ。私も映画館デート楽しみにしてるね」
「……少しスッキリしませんが、まあいいです。映画館の近くに美味しいお蕎麦屋があるらしいので、そこでお昼も食べましょう」
「お蕎麦……私も嫌いじゃないし、いいんだけど、チョイスが渋いよね」
「ヘルシーでいいではないですか」
うら若き乙女二人が映画館デートで食べるには、絶妙な選択の気がする。詳しくないけど、普通はパスタとかお洒落なものを食べたりするのではないだろうか。それとも麺類だから同じようなものなのだろうか。
うーん、でも、かき揚げがついたお蕎麦は食べたいかも。アツアツでサクサクの野菜のたっぷり入ったかき揚げ。そのままでも美味しいし、そばつゆに浸して食べるのもいいよね。
そんな食べ物のことを考えたせいか、食後だというのにお腹が空いたような錯覚を覚える。小腹が空いた感じだ。
そろそろデザートを頂いてもいいかもしれない。
「晴乃さん、もういいかな?」
ジッと彼女の瞳を見つめて問いかける。
私達には同棲する中で、いくつかの大切なルールが交わされてた。この問いかけは、そのルールの一つに関わるものだ。
「ええ、構いませんよ」
穏やかに微笑みながら許可を出してくれる。その言葉を聞いた瞬間にはもう、彼女の胸に飛び込んでいた。
「晴ちゃんっ!!」
顔に当たる柔らかい感触を味わいつつ、胸いっぱいに晴ちゃんの匂いを吸い込む。疲れた体でベッドに飛び込んだ時と同じくらい心と体が安らぎ、快感の域にまで達するほどの心地よさが全身を満たす。
「今日も疲れた。いっぱい褒めて、晴ちゃん」
意識的に変えていた呼び方も戻して、真面目モードをかなぐり捨てた。
「はいはい、千鈴さんはいつも大変頑張ってますよ。課題も安易に人に頼らず、できるだけ自身でこなすのは本当に偉いと思ってます」
彼女からも優しく包むように抱きしめて、頭を撫でてくれる。毎晩のこの時間が楽しみで仕方がない。私の甘えていい時間は、二人の間でルールとして定められている。
このルールは、私の不始末から始まった。
当初、同棲することに有頂天になっていた私は、家で二人きりになるとすぐに晴ちゃんを求めていた。所かまわず四六時中べったりと引っ付いたり、少しでも彼女が恋しくなるとすぐにキスや吸血を強請った。
最初の内は彼女も、諦め混じりに「仕方ありませんね」と対応してくれていた。しかし、家事や大学の課題まで疎かになるほどにエスカレートした私の欲求に堪忍袋の緒が切れた彼女から、このルールを厳守するように言い含められることになる。
詳細な内容としては、平日は家事や課題などの一日のタスクを終えた後でなければ、過度のスキンシップを禁止するというものだ。要するに、日常生活にはメリハリをつけて、だらしのない生活をしないという話。
正直、もどかしいことも多い。今日だって、部屋に来た無防備な晴ちゃんを押し倒したいと思いはした。しかし、こういった決まり事には煩い彼女のことだ、破ればきっと一日は口をきいてくれないだろう。それはよくない。とてもじゃないが、意図的に破る勇気は出ない。
それに悪いことばかりではない。甘えられる時間が制限された分、加瀬が外れた後はやりたい放題なのだ。晴ちゃんも制限をかけた分、できる限り私の意に沿おうとしてくれる。よっぽどのことが無ければ、渋々にはなるけどリクエストには答えてくれた。
そう、例えばこんなことだって許される。
「晴ちゃん、んー」
胸に埋めていた顔を上げて、彼女をへ顔を向ける。下唇で上唇を持ち上げるようにして、唇全体を僅かに突き出した。
もう何度もしているので、彼女もこれが何を意味しているかはよくわかっている。恥じらうように目を伏せると、私の頭を抱えて顔を寄せる。伏せた目の、長いまつ毛がよく見えた。
突き出した私の唇へ、柔らかい彼女の唇がそっと触れる。
そのまま二度、三度と啄むようなバードキスをしてくれた。キス自体は唇をちょっと合わせるだけの簡易なものだ。だけど、耳まで赤く染めながら私の要望に応えようとしてくれる晴ちゃんを見れるので、心は凄く満たされる。
「晴ちゃんもキスに慣れてきたよね」
「それはそうですよ。毎日何度も強請ってくるような色情魔がいますから」
「キスくらいでそこまで言わなくても……」
彼女の妙にお堅い所は、付き合って二年近くたった今でも変わらない。窮屈だなと感じることも時々あるけれど、そのおかげか、ずっと初々しい反応を返してくれるのでそのままでいてほしい。
「じゃあ色情魔らしく、もっと良いキスをしちゃおうかな」
腕を彼女の首へ回して、頭ごと引き寄せる。今度は私の方から唇を奪いに行った。もはやここまでが恒例行事となっているので、彼女も抵抗せず受け入れてくれる。
艶やかな桃色の下唇を優しく食む。フニフニと絶妙な感触を味わいつつ、唇の形や位置を確かめていく。そして唇を吸いつつ牙を押し当て、ゆっくりと慎重に、軽くひっかいて唇へ傷をつけた。
すぐに口内へ溢れかえる血の味。出血量自体は大したことないのだけど、この匂いと味だけは鮮烈に突き抜けてくる。たまらず舌を彼女の口腔内に差し入れ、味の濃い液体を掬い取り啜る。ほんのりとだけ、チョコレートの甘い香りと味がした。
「ん……ふっ、んくっ……ぁ……」
すかっり静まり返った部屋の中へ、チュルリ、ピチャリと粘性のある液体の音が響いている。夢中になって彼女の口から甘露を啜っていると、向こうの方からも舌がやってきた。
おずおずとではあるが、突くようにして私の舌へ軽く触れてくる。いじらしい彼女からのアプローチがとても嬉しく、今すぐ絡めとり捕まえて、弄り倒し可愛がりたいが、まだ我慢してこちらからも軽く挨拶する程度に留めておく。
もし、考えていたことを実行しようものなら、きっと暫くの間は彼女からのアプローチはなくなることだろう。野生動物を手懐けるかの如く、優しく段階を踏んで警戒心を解いていかなければならないのだ。最近やっと受け身一辺倒ではなくなってきたので、ここで怖がらせて今までの苦労を水泡に帰す真似はできない。
数度の軽い触れ合いによる挨拶が終わると、彼女の舌がやんわりと私の舌をなぞってくる。ぎこちなく拙い愛撫ではあるけど、晴ちゃんからしてくれることが重要なのだ。恥ずかしがりながらも私のために、慣れないキスを頑張ろうとしてくれる姿を想像するだけで、心が満たされていく。
ついでによくないスイッチも入ってしまう。
左手を晴ちゃんのTシャツの裾から差し込み、弱点であるスベスベの背中をツーと撫で擦った。
「んんっ! んぁ……んぅっ」
敏感な背中を急に弄られた彼女は、一度大きく体を震わせ、身を捩る。何度触っても新鮮な反応を返してくれるので、気分が良いし嗜虐心も刺激された。もっと可愛がりたい。もっと私の手で乱れて欲しいと思ってしまう。
調子に乗って右手はズボンの方へ差し込み、滑らかな質感の下着越しに肉付きの良いお尻も揉んだ。両手で彼女の肢体を味わいながらも、口からの攻め手も緩めず舌を本格的に絡ませていく。
「んんっ! んー!」
抗議するかのような怒りの籠った呻き声が発せられたが、聞こえないふりをして華麗にスルー。ペチペチと背中をタップする手も、追い詰められた獲物の必死な抵抗の様で、余計に琴線を揺さぶってくる。パタパタと暴れ出した足は流石に厄介なので、足を絡めて押さえつけた。
抑え切れない衝動のまま蛮行を働いている自覚はあるが、今はご褒美タイムだから何だかんだで許されるだろうという甘えがある。それに一挙手一同で誘惑してくる晴ちゃんにも非があると、心の中で誰にしているかもわからない言い訳をした。
あちこちを虐められた晴ちゃんは大した時間もかからずに、力が弱まり抵抗も小さくなってくる。それに反比例して私の可愛がりは増していった。弱って逃げることさえできなくなった獲物は、そのまま捕食されるのが定めだからだ。
抗うことも出来ず、ただなすが儘に晴ちゃんが貪られ続ける。弱々しい鳴き声を上げるだけの彼女は、まるで「もっとして下さい」と言っているようにしか感じられない。
興奮しすぎて呼吸が荒くなってくる。だんだんと息が苦しくなってきたところで、遂に晴ちゃんを解放した。
「はぁ……ふぅ……んふっ」
解放された晴ちゃんは、ソファに横たわったままぐったりとしている。頬は上気して目は潤み、口元は緩み切って酸素を求めていた。自分が彼女を征服した感じがして、上からの眺めは悪くない。
唇が濡れていることが気持ち悪かったのだろう。意識的か無意識かは知らないが、桃色の舌がゆっくりと唇を舐め取る。もはやどちらのものかもわからない体液を、艶めかしく口へ運び嚥下する様は、見ているだけでも頭に血が上るほどに煽情的だった。
もうっ、晴ちゃんてば折角解放してあげたのに、また私を誘惑ばかりしてくる。全くもって悪い恋人だ。
お望み通りかぶりついてやろうと意気込んだその時、お風呂場の方から電子音が響いてきた。
「……ああ、お風呂がやっと沸いたようですね」
半ば放心状態だった晴ちゃんが、音を聞いて立ち直る。
「どうぞお先に入って来てください。私はケダモノに襲われて疲れたので、少し休憩したいです」
しかし、回復まではできていないのか、気だるげに私をねめつけながらお小言共にお風呂を勧めてきた。怒る元気もないようだ。この提案は、興奮状態の私を引き離す意味も含まれているのだろう。このままでは酷い目に合うと直感的に悟ったのかもしれない。
私としても、ほんのりとだけ無茶をしている気持ちはあった。だからこそ、彼女の言葉に乗ってあげるべきかもしれない。
だけど、ここまで燃え盛ってしまった煩悩の火を、自力で消すことは容易ではないのだ。
「ねえ、晴ちゃん。私ね、今日ね、課題を沢山終わらせたの」
「……? ええ、そうですね」
「でしょ? いっぱい頑張ったよ。だから、ご褒美があってもいいと思わない?」
途端に彼女の顔が渋い顔になる。
「……あってもいいとは思いますが、具体的には?」
優しい晴ちゃんは、これから私が何を言うかを薄々勘づきつつも、ご褒美については否定しない。そこへつけ込むようで罪悪感が湧くが、今は自身の欲求に従うことにした。
「一緒にお風呂、入ろ?」
晴ちゃんは困ったように眉を下げて思案する。大抵のことは受け入れてくれる彼女がここまで抵抗を示すのは理由がある。
勿論、恥ずかしがりやな彼女が易々と裸の付き合いをしてくれる訳がない。しかし、「同性の友人とお風呂に入るのは普通のこと」という私の完璧で理論的な説得により、一時はなし崩しに入ってくれることもあった。
そう、一緒に入ってくれたのだ。……私が二回も失態をやらかすまでは。
初めて一緒に入浴した時、私は鼻血を出してしまった。のぼせたとかではなく、晴ちゃんのあまりに官能的な裸体に負けてしまったのだ。これが一度目の失態。
だが、これは今でも仕方がなかったと思っている。最愛の恋人の裸体を前にして、免疫のない者が耐えられるはずがなかったのだ。敗因があるとすれば、期待ばかりして衝撃に備えていなかったことだろう。
そして頭の中で何度も裸体を思い浮かべ、シミュレーションを繰り返して耐性を上げ臨んだ二回目の入浴。準備の成果もあってか鼻血を出すことは避けられたばかりか、思う存分彼女との入浴を楽しめた。
いや、楽しみ過ぎた。
繰り返しシミュレーションした結果、欲求が募り過ぎてお風呂場に関わらず大変な狼藉を働いてしまった。これが二度目の失態。
あの日のことは本当によくなかったと、今でも反省するほどだ。晴ちゃんに至っては、三日も碌に口を聞いてくれなかった。怒りの解けた後でも、その時の話は半ばタブーになっている。彼女にとっては、それほどまでに忌むべき記憶なのだろう。……私にとっては素晴らしい記憶なのだが。
とにかく、これらの二度のやらかしによって、晴ちゃんは一緒に入浴することには著しく消極的だ。さっきの提案だって普段であれば、にべもなく却下されていたはずだ。
しかし、今日はご褒美という建前がある。予想ではどちらに転ぶかは半々。勝算は少なからずあると踏んでいるのだが、どうだ。
困ったように考え込んでいた晴ちゃんは、諦観の溜息を吐くと苦笑する。
「……今日は、特別ですよ?」
「やった!!」
大勝利だった。思わずガッツポーズまでしてしまった。
「釘を刺しておきますが、吸血とかキスとかはなしですよ。普通にお風呂に入るだけ。いいですね」
「わかってるって」
「……後、もう『洗いっこ』は無しですからね」
「背中だけでも、しちゃダメ? ……じょ、冗談だってば」
ジロリと睨まれてしまった。やはり彼女の警戒心は野生動物みたいだ。一度してしまったことはずっと根に持っている。しないって言っているのに、疑わし気な視線が向け続けられている。
「……まあ、いいです。そうと決まれば手早く入ってしまいましょう」
「えー、もっとまったり入ろうよ。明日の講義だって二限からだし、朝早くはないよね?」
「早くはないですが、あまり夜遅くなっても困ります」
「まだ九時にもなってないし、そんな急がなくても」
私達は一般的な大学生と似た生活を送っている。特段健康を意識して早寝を心がけていることはない。むしろ時々、深夜まで夜更かしを楽しむことさえある。
私はまったりとお風呂を楽しみたいと思っていたのだが、彼女は別のことを考えていたようだ。
「だって……」
少し言い淀んだ後、照れて視線を外しながら口を開く。
「どうせ今夜も吸血、するのでしょう?」
まるで誘うかのような文言。して欲しいのかと本気で思ってしまう。もしかしたら、これが彼女の精一杯のおねだりなのかもしれない。だとしたら、あまりに健気すぎる。
「……っ! うん!」
心臓が締め付けられるような、狂おしい気持ちに突き動かされるまま、彼女に抱き着いた。驚きつつも彼女は受け止めてくれる。
「こらっ、そんなに抱きつかれては立てませんよ」
「んふふ、ごめんね」
確かに抱きついたままでは動けない。でも私は少しでも長く、彼女の温もりを感じていたい。それならば、こうするまでだ。
「えっ、ひゃっ」
可愛い悲鳴が上がる。私が晴ちゃんを抱きかかえて持ち上げたからだ。身長の小さい私でも、晴ちゃんぐらいの重さであれば危なげなく運ぶことは簡単だ。もっとも、吸血人の膂力があってこそではあるが。
「お部屋まで運んであげる」
「もう、まったく、無茶しますね」
「全然無茶じゃないよ。毛布を持ってるのと変わらないぐらい」
これは多少の誇張はあれど、まるっきり嘘ではない。安定を重視して両手を使うけど、正直片手でも持てないこともない。
「それじゃあ、移動するからしっかり捉まっててね。ほら、足とかぶつけちゃったら痛いだろうし」
「は、はい」
そう言うと晴ちゃんは身を縮こまらせて、ギュッと抱きついてくる。安定はしているのだけど、やはり不安はあるようだ。
うん、狙ったわけじゃないけど、これはいいな。晴ちゃんは今、私の頭を抱え込むようにして抱きついている。不安だからか、割と強い力で。そうなると必然的に密着感が出てくる。私の顔に晴ちゃんが自ら、柔らかな感触を押し付けてくるシチュエーションは、中々にくるものがある。
「どうしました? 行かないのですか?」
「えっ、あっ、うん、そうだね。ちょっと幸せを噛みしめてた」
「何のことですか」
いけない、冷静になられたら気づかれてしまう。私は慎重に運ぶ振りをして、怪しまれない範囲で時間をかけて彼女を部屋まで連れていった。揺れるたびに一層力を込めて押し付けられる幸せを楽しみながら。
お風呂中、色々と我慢できるかなぁ。自身が無くなってきた。




