第9話 寄宿いたします
夕方になり本館のキッチンで晩御飯の下拵えをしていると、廊下からバタバタと走る音が聞こえ、千鈴さんが走りこんできた。先ほど玄関の呼び鈴が鳴り、司さんが迎えに行っていたはずなのだが。
「晴ちゃん! ここに住むってほんとっ!?」
「おかえりなさいませ。はしたないですよ」
「ご、ごめんなさい。……ただいま」
朝は元気だったとしても一日中そうとは限らないため、心配をしていたのだが杞憂だったようだ。
「はい、住み込ませて頂くことになりました。献属として宿泊することも増えるのであればいっそと。他の皆さんと同様に離れ屋でお世話になります」
部屋は司さんが昔使用していた所にそのまま入る形になった。必要最低限の家具は残っており、ありがたく使わせてもらうことにした。
司さんとしても夜勤を任せやすくなるので助かるそうだ。朝に私達が無事に吸血したことを確認した後、ご当代様へ連絡を取り、この話を持ち掛けたところ二つ返事で了承を頂けたとのこと。
こんな短期間で信頼してもらって平気なのかと、逆に私の方が不安になる。
「じゃあ、晴ちゃんと一緒にいられる時間も増えるね! ……嬉しいな」
そのまま近づいてきたかと思うと、腕を取って浅く絡ませてくる。昨日までならありえない、予想外の行動に面食らう。
「え、ええ、そうですね。……晴ちゃんと呼びました?」
「うん、可愛いと思ったんだけど嫌?」
「いえ、気安く呼んでくださいとお願いしたのは私ですし、嬉しいですよ」
「えへへ」と花が咲くかのように笑った彼女は、組んだ腕に頭を預けてくる。
「晴ちゃん、晴ちゃん!」
「何でしょう」
「これからも、よろしくね」
「こちらこそ」
やはり様子がおかしく感じる。心も物理的にも距離が近い。仲良くなるのは非常に好ましいが、昨日の今日でえらく差がある。
「ねっ、晴ちゃん。我儘いってもいい?」
その切り出し方をするのは、昨日我儘になってもいいと言ったからだろうか。他人を気にし過ぎている彼女を後押しするためだったのだが、普段も大人しい彼女にはこれぐらいでちょうどいいのかもしれない。
「つまみ食いですか? 一口だけですよ」
妹の舞里さんは、よくキッチンに来てはねだってくる。あまりよくないとは思うが甘え上手な彼女に流されて、ついついあげてしまうことが多い。もしかしたら私が狙い目だと思われている可能性がある。
「つ、つまみ食い! 一口ならしていいの?」
「ええ、でも内緒ですよ。……今日はサラダ用のカニカマが――」
「じゃ、じゃあ、一口だけね」
そういうが早いか、組んでいた方の腕に顔を寄せる千鈴さん。洗い物もあるため袖を捲り上げていたのだが、晒された素肌へ素早く口がつけられた。
「えっ、……あっ……っつ」
犬歯が穿たれる痛み。背中へ刺激が通り抜け、全身に緊張が走る。
その次に噛まれたところを強く吸われる。昨日は一度もされなかった行為に、痛みとは別の感覚を覚えた。
宣言通り、すぐに口が離される。
ただ今しがた自身がつけた傷から血が滲み出ることを目ざとく見つけると、桃色の舌を出し舐めた。少しの間血が流れ出なくなるまで舐めとることを繰り返す。
芯のない柔軟な肉片が、痛みの発生源の上を行ったり来たりする、ぞくぞくとした感覚には覚えがある。昨晩の記憶が蘇り、羞恥と共に言い知れない心境になった。
血が止まったのだろう。後処理までしたことに、どこか誇らしげな顔で見上げてくる千鈴さん。その表情を見ると思うところがないわけではない。
「えぁっ、に、にゃんで?」
怒ってはいないが、少しばかり懲らしめてやるべきだと判断して、彼女の頬を痛くない範囲でつまんだ。
「お嬢様、はしたないですよ」
「えぇっ、晴ちゃんがいいって言ったのに!」
「夕食のことです」
ようやく気付いたのか、みるみるうちに瞳が潤み顔が赤くなっていく。勘違いが恥ずかしいのか、僅かに顔を俯ける。手を前に組んで、もじもじとしている。
「……ごめんね。私、勘違い、しちゃって……」
「まあ昨日の今日ですから、思考がそっちへ引っ張られるのは分からなくもないです」
「うん、晴ちゃんの事ばっかり考えてた」
他意は無いのだろうが、その言い方では語弊がある気がしないでもない。もともと大して無かった毒気が完全に抜けてしまった。
「……それで、どんな我儘を仰るつもりだったんですか?」
「えっと……あのね、もしよければだけど……今晩もいいかな?」
ついさっきの自身の狼藉を気にしているのか、不安げに見上げながら聞いてくる。
「……構いませんよ」
「ありがとっ! 楽しみにしてる。……お仕事の邪魔したら悪いからもう行くね」
曇りかけていた表情が一気に晴れ、そう言って軽く手を振りながらキッチンを出て行く。
今晩もこなすことに一瞬逡巡はあったが、せっかく積極的になった千鈴さんに水を差したくはなかった。
入れ違いに司さんがキッチンへ戻ってくる。一緒に夕食の準備を進めつつ、先ほど感じた違和感を尋ねてみることにした。
「先ほど千鈴さんにお会いしたんですが、にわかに親睦的になられていて驚きました。ああいや、悪いことではないんですけど……」
「それは恐らく、気分が高揚しているだけだと思います。昨晩の余韻が今なお残っているのでしょう。まあ、そのうち落ち着きますよ。」
「はぁ……そうですか」
つまり、まる一日有頂天だったんだ。彼女はこんなにも幼気だったのか、それとも私が知らなかっただけなのか。
「それと……言い難いことですが、お嬢様は交友経験が乏しいため、距離感をあまりご理解いただけていないのです」
「つまり?」
「0か100かの距離感は内気な性格の産物です。もしこれを拒絶されてしまうと著しく傷つく恐れがあります。もし煩わしさを感じたとしても、避けないでいてくれませんか?」
千鈴さんの事は、初めはただ引っ込み思案な可愛い女の子程度の認識でしかなかった。
しかし夜の豹変ぶりや昂った時の振る舞いといい、存外一筋縄ではいかないお嬢様なのだろうか。
面倒と切り捨てることも出来るが、私は思いがけない千鈴さんの一面を好ましく思っていた。
これほど私に適した人はいないかもしれない。
「……安心してください、あんな可愛い子に懐かれて嬉しく感じてます」
司さんは「そうですか」と安心したような表情となる。
千鈴さんみたいな子には、お節介を掛けたくなるのはとてもよく理解できるが、彼女のそれはもはや母性に近しい。
余計なことを考えていることが表情に出ていたのか、私の顔を見るとすぐに雰囲気を作り替える。
「そろそろ本格的に夕食を――」
「晴乃おねーちゃん、お腹すいたー」
元気よく声を出し入ってきたのは、三女の舞里さんだった。
彼女は姉妹だけあってかなり千鈴さんに似ている。千鈴さんを縮めればまさにこうなると思わせる容姿である。
似ていない部分は髪の毛と性格だろうか。
千鈴さんが癖毛なのとは対照的に、舞里さんはストレートの髪質に近い。伸ばしている途中かもしれないが、長さも背中のあたりまでしかない。
性格は人懐っこく明るい。千鈴さんと違い、一週間前に初対面した私にも、既に友人のように接してくれている。
彼女はキッチンへ入って来て、まず私を見ると笑顔になったが、隣の司さんを見つけると「あっ、まずい」といった表情になる。
これは別に司さんに悪感情があるわけではない。
恐らく単につまみ食いをねだりに来たが、司さんがいて失敗を悟ったのだろう。次女と同様に行動も感情もとても読みやすい。
「舞里お嬢様、夕飯は今から仕上げますので、今しばらくお持ちください。……それで、ここへ来たご用事はそれだけですか?」
「う、うん、待つ、待ってるよ。用事は……えっと、ほら千鈴おねーちゃんと晴乃おねーちゃんが初めて吸血したし、新しく住むことにもなったでしょ?そのお祝いにきたの!」
「ありがとうございます?」
苦し紛れの言い訳でお祝いしてくれたが、私にとってその二つが祝われることかは、今一つピンときていない。
「それでどうだった?」
「どうとは?」
「吸血って私したことなくて、おかーさんとかはいいものだって言うから、晴乃おねーちゃんにも聞いてみたいなって」
感想を聞かれても難しい。吸われる側はいいものではないのではなかろうか。私は別だが。
「……それは私ではなく、千鈴さんにお聞きした方がいいんじゃないですか?」
「ええー」
ちょっとむくれた顔をして、不満を訴えている。
「今日の千鈴おねーちゃんはダメ。なんか変。さっきも会いに行ったけど、うわの空であんまし構ってくれなかったよ。顔を赤くして、うにゃうにゃ言ってた」
それは……確かに変になってしまってる。本当に情緒は大丈夫なのだろうか。そこまで行くと心配になってくる。
「……きっとそれだけ千鈴さんにとって、素晴らしいものだったということですよ」
「おかしくなってしまうくらい?」
「……ええ」
自身は無いが、そういうことにしておく。そうでないなら逆に怖い。
「ふーん、そうなんだ。じゃあ私も早く吸血してみたいな」
「それは……どうなんでしょう。私は詳しくないので、後でお母さんや司さんに相談してみてください」
「……うん、そうする」
そう言った彼女の目はいつの間にか、私の見たことのある雰囲気をだしている。
後に思い出したが、千鈴さんが見せる狙うような目つきに酷似していた。
この時はまだ、彼女があんな事を言い出すなんて思いもしていなかった。




