5話:抗え
吹き飛ばされたボクの身体を受け止めたのは、迷宮の石壁だった。
「ううっ……!!」
咄嗟に背中を丸めたおかげで、何とか後頭部は打たなかったが、背中全体に広がっていく激痛に、悶絶の声を上げる。呼吸が一瞬止まって、石畳の通路に倒れた。
こんな不意打ちを喰らうなんて、油断してしまった。
ミノタウロスを一体倒して、調子にのった罰かもしれない。
「フロース、しっかりしてっ!」
ルナがボクの耳元で叫んでいる。ミノタウロスの奇襲を喰らっていないようだ。
「ルナは大丈夫みたいだね……よかった……」
「アタシの心配をする暇なんてないでしょう!? 自分の状況を心配しなさい!」
視界が霞んで、全身に痺れる痛み。
そんな中、とても心地よい眠気がやってくる。
あぁ、この眠気はまずい。
あまりの痛みに意識がもうろうしている時に感じるものだ。この眠気に屈すれば、ミノタウロスの斧が襲いかかるだろう。
「は、早く起きなさいっ! 来るわよ!」
とても小さい身体が、ボクの首の裾を、必死に引っ張ってくる。
「う、うん……」
痛みを堪えて、ぶるぶると首を振って、かく乱した意識をなんとか正常にしようと覚醒させる。口いっぱいに広がる血が混じった唾を地面に吐き出して、何度も嗚咽を繰り返した。
ズシン、ズシンと、無慈悲な音が近づく。
「ミノタウロスが来ているわっ! 起きなさいよっ!」
顔を上げると、二頭のミノタウロスが、ゆっくりとした歩調で近づいてくる。
突進をしてこないのは、ボクに逃げる余力はないと判断したからだろう。
「グッ……」
もちろん、ルナの言う通りに動きたい。
逃げろと、本能は警告している。
でも、ただ、よろよろと後ろの壁にもたれるだけで精一杯だった。
あぁ、死ぬ。
そう思った瞬間、周りの動きが、遅くなった。
接近してくる二頭のミノタウロスも、ボクの隣で声をかけつづけるルナも、時計の長針よりも遅く感じた。
そういえば死ぬ直前は、全ての動きが遅くなる現象があるって、昨日、読んでいた小説に書いてあったことを思い出す。
もしかしたら、遅い時間の中、自分は俊敏に動けるんじゃないか。
そんな淡い奇跡にすがってみたけど、立ち上がろうにも、指一本もまともに動かせない。
どうやら、自分の動きも遅くするらしい。
小説のようには、いかないらしい。
つまり、ボクの人生はここでおしまいのようだ。
まさか自分の終わりが、ミノタウロスに殺されるとは。
人生は、ままならない。
短い、人生だった。
あぁ、死にたいと言っていた人生に終わりが来た。
「死にたくないっ……!」
でもボクの口から小さくこぼれたのは、いつもの口癖、じゃなかった。
生きたいという懇願だった。
「そうよフロース、本当は死にたくないでしょう!? 抗いなさい! 最後まで生きることを諦めるな!」
抗う。
声に出さず、唇だけ動かして言った。まるで自分に言い聞かせるように。
考えろ、考えろ、考えろ――。
決して多くない知恵を振り絞って、この窮地を脱する方法を探ろうとする。
カチッと、何か、音がした。
音がした先に目線を向ける。左肘。そこに壁の一部がくぼんでいた。
「……え?」
「フロース!?」
突然、ボクの身体が闇の中に引きずり込まれた。
闇に吸い込まれる直前、ミノタウロスが驚愕の表情を浮かべているのが見えた。
ルナはボクに手を伸ばして、捕まえようとしている。
目の前が急に真っ暗になり、視界がぐるぐる回って、状況がわからなくなる。
どういうことだ、どういうことだ、どういうことだ。
この瞬間、ボクは、死を、感じた。