2話:無意味無価値な与太話
「ルナ、どうして起こしてくれなかったの!」
「何度もほっぺを叩いたわよ! でもアンタが全然起きなかったんでしょーが!」
これは地下迷宮に向かう数時間前に起こった出来事だ。
ボクとルナはゲーズルがいる屋敷に向かっていた。
「だったらもっと強く叩いて起こしてよ!?」
「非力な妖精に無茶振りしないで! それに寝坊の原因はアンタが夜通しで読書したせいでしょ!」
「し、仕方ないじゃん……主人公がようやくお姉さまに自分の想いを伝える決意をする胸熱展開だったんだよ!? あそこで本を閉じるのは拷問に等しいよ!」
「この百合厨がっ!!」
ボクの反論に、ルナは目端に涙をためていた。両頬を膨らませて、ジロリと睨みつけてくる。
あっ、とルナの表情を見てボクの血の気が引いていく。ルナが目端に涙をためているということは、本気で怒っているということだ。
「もうフロースなんて知らない! ゲーズルのところには一人で行ってきなさい!」
「そっ、そんな~!! ルナがいないとあいつと何を話したらいいのかわからないよ!」
「あいつの約束を遅刻する度胸があるんだから、アタシがいなくてもやれるわよ! たまには一人で頑張りなさい! ベーだ!」
「ルナ! 待ってよ!」
ルナは舌を出すと、U字を書くように旋回をして、素早い動きで街のどこかに隠れてしまった。
ルナは小さな妖精なので、一度姿をくらませると、そう簡単には見つけることができない。
ここでルナを探せば、ゲーズルの約束を破ってしまうのは明白だ。無論、もし約束を破ってしまえば、ボクの身に最悪な事態がふりかかるのは言うまでもない。
約束を交わしているのが、あのゲーズルなのだから。
「あっ、ごめんなさい!」
と、ボクは道でぶつかってしまった人に謝って、すぐに走り出す。
「あぁ、死にたくなるなぁ……!」
ボクはそう呟いて、屋敷に向かって駆け出した。
☆
「ゲ、ゲーズルさんと会う約束をしている、フロース・グロリアスです……!」
ボクは息を切らしながら、屋敷のメイドに要件を伝えた。
その直後に、教会の鐘が鳴った。間一髪だったことを知り、ホッと安堵のため息が漏れる。
怪訝そうな表情を浮かべながらも、メイドは、すぐに屋敷の応接間に案内をしてくれた。
扉を開けて、まず最初に目に留まるのは、黒い壁に立てかけられた絵画だ。
誰が描いたのかわからないが、草原を俊敏な動きで駆ける白いウルフが美しく描かれている。きっと腕のある画家が、ゲーズルの依頼で描いたのだろう。
床には精緻な模様がびっしりと編み込まれた赤の絨毯が敷かれている。部屋の中央には、背中と座面のクッションが備え付けられた黒いソファ2つと、その間を挟む形で、ガラス張りのローテーブル。その上に、葉巻が詰まったシガレットケース、葉巻の先端をカットするためのシガーカッター、ガラスの灰皿が並べられている。
いつ入ってもこの部屋から醸し出される綺羅びやかな雰囲気に気圧されて、ここに入ってもいいものかんと困惑して、思わず、背筋が伸びてしまう。
もしルナがここにいたら、「相変わらず趣味の悪い部屋」と一言ぼそりと言っていたかもしれない。ボクはそんなこと微塵も考えていないけど。本当だよ。
ボクは絨毯を汚してしまわないか、靴裏に泥や土などの汚れがついていないことを確認して、応接間に入った。
「やぁやぁやぁ……待っていたよ。フロース」
ボクが部屋に入ってからすぐに、ゲーズルはやってきた。
ワーウルフの取り立て人ゲーズル。白を基調とした立派なスーツと赤いネクタイを着こなす黒い人狼。背は大きく、長身な人間の背丈を余裕で越える体格だ。周囲からは「獲物と金のニオイを嗅ぎ分ける人狼」と評されている取り立て人だ。
「お、お疲れ様です。ゲーズルさん……」
ソファに座っていたわたしは立ち上がって、ゲーズルに深々と頭を下げた。
「おやおやおや、額に汗をかいて、おまけに息が荒いじゃないか? どうしたんだい?」
ゲーズルは、獣人特有の低い声で、穏やかな口調で訊ねてきた。
「ちょ、ちょっと遅刻しそうになったので、走ってきました」
「ハハハッ、うんうんうん。よかったよかったよかった」
ゲーズルは時折、同じ言葉を三回繰り返す口癖があった。
「時間は金よりも貴重だ。もしお前が遅刻をしていたら、遅刻した分の人生を10倍くらいにして取り立てるところだった」
ゲーズルは、冗談なのか、本音なのか、わからないことを言う。
もうすでにボクの人生を取り立てているはずなのに、これ以上、こいつはボクから何を奪い取るんだろうか。
もちろんそんな本音を口にするわけもできないので、ボクはハハッとその場しのぎで笑ってごまかすしかない。
「おや、ところで、あの小さな妖精はいないのかい?」
「あぁ、えっと……ちょっと別件があるみたいで……」
「別件だって? ふーん。妖精っていうのは、白状なやつだね」
ソファに座ったゲーズルは鼻で笑うと、テーブルのシガレットケースから葉巻を取り出す。
ゲーズルは、シガーカッターを使わずに吸口を切った。彼は自分の爪先の長さを自在にコントロールができる。人間の首を切り落とすぐらい鋭い爪先だ。
あれで首を切られたどうなるのかと、嫌な想像を浮かべてしまうと、背中に悪寒が走り、肌が粟立つ。
ゲーズルは葉巻を持っていない指先を指先をパチンと鳴らすと、手に収まる程度の赤い魔法陣が現れる。
「別にあいつから取り立てるものはないからどうでもいいけどさ……」
赤い魔法陣から、小指程度の大きさの火が出現した。
「君はあいつを、主人を差し置いて自分を優先する酷いやつだなんて思わないの?」
そう訊いてきたゲーズルは、葉巻をゆっくりと回しながら、切り口じゃない先端部分に火をあてていた。
「そうですね……」
「静かに」
質問をしてきたはずのゲーズルが、ボクの言葉を鋭く遮る。忘れていた。葉巻に火をつけている時のゲーズルはかなりの神経質だ。
葉巻に着火をしている途中に声を掛けて、ひどく苛立たせてしまった経験がある。ボクは葉巻を吸わないから知らないが、火の付け方次第では葉巻の味が落ちてしまうらしい。
「……ボクとルナは主従関係じゃないんですよ。よく勘違いされるんですけどね」
ボクがそう言ったのは、ゲーズルが葉巻をくわえた口から、ふぅと、白い煙を吐き出した後だ。
「じゃあ恋人関係で結婚してるのか? だとしたら、あいつもお前の借金を背負うことになるけど?」
「ち、違いますよ……腐れ縁といいますか、友人というか……まぁ、少なくとも恋人関係とかじゃないです」
「冗談だよ。人間と妖精じゃ、デキないだろう?」
ゲーズルは下劣な言葉を吐く。この場にルナがいなくて本当によかったと思う。
こんなのを聞いてしまったら、きっと腹を立てて、ゲーズルに闘いを挑んでいたにちがいない。
でも、それと同時にルナがいてくれたらなぁ……と心細さも感じている。今更気づいたのだが、あの気の強い妖精がいるおかげで、不安な気持ちが少し収まるし、不毛なやり取りもないのだ。
「まぁいいや。これ以上、その話を聞いても値打ちのあるニオイはしなさそうだし……それで今月分は持ってきた?」
ゲーズルの声色が低くなり、鋭い眼光がジロリとこちらを睨めつけた。嫌な視線だ。
その視線を受けると、鼓動が脈を伝って、耳の裏まで聞こえてくる。全身の毛穴から冷たい汗が噴き出しそうになる。
自慢できるかどうかわからないが、ボクはこれまで借金の返済を一度たりとも怠ったことはない。ゲーズルに指定された金額を、返済日までに忠実に納め続けてきた。
従順なボクだからこそ、取り立て人と負債者の間の信頼関係が芽生えそうな気がするもんだけど、あの目から察するに、ボクを全く信頼しているようには見えない。
「あぁ、死にたい……」
思わずぼそりと小さくつぶやく。
「持ってきたのか?」
「あっ……はい! 持ってきました!」
借金の返済方法は、地下迷宮の中の地図作成と、地下迷宮で手に入れたアイテムを売ることだ。
この2つの中でも、地下迷宮のアイテムを売ってもらうのが、一番返済できる。
「地下迷宮で宝石を手に入れたんです。これだったら借金を減らせるんじゃないかと……」
ボクは肩にかけていた袋から宝石を取り出そうとした。
しかし袋の中を覗いて……しばらく身体が硬直してしまった。
袋に入れたはずの宝石がなくなっているのだ。
昨夜の出来事を思い巡らせていた。ボクは袋の中に宝石を何粒か入れた後、パンパンと手で袋を叩いていた。袋を叩いて、入れたことを記憶の中に刷り込ませた。それをあの時、ルナも確認していた。あのしっかり者のルナなら、もしボクが宝石を忘れていたら、ゲーズルの屋敷に向かう前に「忘れてるわよ!」と注意をしていたはずだ。
……まさか。
ボクはゲーズルの屋敷に向かう道中の出来事を思い出す。宝石を無くすような可能性のある出来事が一度だけあった。人とぶつかったあの時だ。
もしもぶつかった時の弾みで、袋の中の宝石を落としてしまったとしたら?
「……宝石を出してくれるんだろう?」
「え、えっと……」
「ないの?」
その質問に答えるのが怖かった。奥歯がガタガタと鳴っていた。沈黙で事態が解決するわけがない。それはわかっているのに言葉が出てこない。
ゲーズルはまだ着火をして間もない長い葉巻を、灰皿に押し付けていた。
「……それじゃあお前は、無意味無価値な与太話をしにここに来たの?」
その声には、苛立ちが混じっていた。
「ち、違います! 本当に持ってきたんです! た、多分道端に落としてしまったんじゃないかと……」
「別に払えない理由は聞いてないんだけど?」
「お、お願いします……一日だけ待ってくれませんか……!」
気づけばボクはソファから立ち上がり、深々と頭を下げて、懇願した。
こんな想定外の事態は初めてだった。謝る以外にできることはなかった。ここにルナがいれば、猶予をもらうための交渉ができたかもしれないが、ボクにそんな知恵も度胸もない。
ボクはただ、地下迷宮を探索することしか能が無いボンクラなのだ。
「……そうだね。まだお前には金のニオイがする」
ボクは顔を上げて、ゲーズルを見た。
ゲーズルは足を組んで、値踏みをするかのように、こっちを見据えている。
「お前の言う通り一日だけ待ってやる」
「ほ、本当ですか?」
「お前と違って、私は約束を破らないよ。ただし」
突然ゲーズルは長い腕を伸ばして、ボクの胸ぐらを掴むと、ボクの身体は持ち上げられていた。
「無意味無価値な与太話で、私の貴重な時間を奪い取った。その分を上乗せしてもらう。もし払えなかったら……」
獲物を狙う獰猛な目が、ボクを捉えていた。
絶対に逃がさないという執念深い感情がこもっているように見えた。