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その日から、シェイは黒龍の元に毎日のように通うようになった。
黒龍はシェイの魔法で命こそ助かったが、まだ完全回復していないために、数年はこの森に留まる必要があった。出来れば人間と関わりたくないが、あまり大幅に移動をしては身体が休まらない。
そんな黒龍からすると、追いかけてくるシェイから逃げるのも億劫だった。
──そうだ、人化していれば見た目に龍らしさは全く無い。鱗も、牙も、尾も無いから。
只の人間と変わりないし、全く面白みがない筈。ずっと人の姿で会っていればいつかは自分に飽きるだろう。
そう黒龍は考えて、黒龍はシェイを拒絶するのを早々に諦めた。しかしその予想に反して、何年経ってもシェイは黒龍と会い続けていた。
「黒龍さん、こんにちは!」
「……あぁ、シェイか」
相変わらず無駄に元気な挨拶をするシェイに、鬱陶しさを感じなくなったのはいつからだっただろう。
黒龍が名前を呼ぶと、いつものようにシェイが抱きついてくる。いったい何が楽しいのか分からないが、嬉しそうにされると引き剥がせない。
つまるところ……黒龍はすっかり、シェイにほだされてしまったのだ。
シェイはといえば、とにかく黒龍のことが好きになっていた。黒龍が龍だから好きなのではない。
シェイにとっての黒龍は、親のように色々と教えてくれる存在だから。
分からないことがあると、シェイは決まって黒龍に尋ねていた。「幸せって、なに?」そう聞いたこともある。黒龍はこう返事した。
「感情の一つだな。具体的にこれだ、と一つに決まっているものじゃない。個体によって違いが出る。私にとっての幸せと、君にとっての幸せが違うように」
「ん……?ぼくの幸せってなんだろ?」
「難しく考える必要はない。どんなとき楽しい?何が好き?」
「うーん……ぼくは大好きな人が、笑ってるのを見るのが好き。神父様とか、シスターとか、あと勿論黒龍さんも!」
にぱっ、とシェイは無邪気な顔で笑った。教会育ちらしいあまりに綺麗な回答に、黒龍はつい面食らう。その並びの中に自分が居ることが、なんだか余計におかしかった。
「っそうか。だが、私は自分を痛め付けてきた奴が泣き叫んでいるのを見るのが好きだなぁ」
「えっ!……ひどいことは、だめ……」
「うんうん、そうだな。人間の価値観でいえばそうだ。でも、私達の世界では幸せってのはそういうもの。理解し合おうなんて、夢物語みたいなことは言わないさ。けれど、自分の幸せが、他の誰かの幸せと同じだと思わない方がいい。皆が皆仲良く出来ると思わない方がいい」
龍種である彼女は、神父様達とは全く異なる価値観を持っている。時々、話が難しすぎて意味が分からなくなってしまうが、黒龍の存在はシェイにとってとても新鮮だった。
今日も、シェイは黒龍に相談事があった。
「黒龍さん、えっと……その……」
「……どうした、シェイ。珍しく元気が無いな?」
いつも通りの明る過ぎる挨拶だ、と黒龍は思っていたが、どうやらさっきのは空元気だったらしい。
無理矢理黒龍が上げさせたシェイの顔は、眉が下がっていて少し悲しげだった。シェイは時々まごつきながらも「なんか、僕、よく分からなくて」と話し始める。
「この前、緑色の身体の、ちっちゃい子が、町に入ってきたの」
「緑の……?もしかして、ゴブリンの子供か」
「そういえば、そう呼ばれてたかも……」
魔物の子供が人間の町に迷い込むというのはよくある話だ。けれど……そうなれば最後。
黒龍には次にシェイが何を言おうとしているのか、なんとなく想像がついた。
「でね、お話したいなって思ってたら、いっぱい、冒険者さん達が来て。その子を……ぅ……」
思い出していると、自然とシェイの視界はぼやけてきた。碧眼に涙が滲む。
──あの子はその場で、声が出なくなるまで殴られた。最後はごみだらけの汚い路地裏で、首を……
「言わなくていい。分かったから」
黒龍はシェイを強く掻き抱いた。その瞬間ついにシェイの瞳から、ぽろぽろと雫がこぼれ落ちる。
シェイには分からなかった。あの子が痛め付けられた理由が。
「どうして?魔物って、なに?あの子は何もしてないのに。あのときの黒龍さんと、一緒……」
「……そうだな」
「僕、助けられなかった。大人に囲まれてたから、何も出来なくて……こんなのおかしい、って言ったら神父様が『悪いことをするから、倒さないといけないんだ』って怒って……この前は『悪いことをしたらその分良いことをすればいいだけだよ』って、僕に言ってくれたのに……」
「……」
「悪いってなに?良いってなに?僕はどこか、おかしいの……?」
「……ごめん」
黒龍は謝らずにはいられなかった。
黒龍はシェイの清さが好きで、それ故にシェイの考えを無理に変えようとしなかった。けれどそのせいで、この少年を余計に傷つけてしまったようだ。
自分が美しいと思うシェイの心が人間の世界で受け入れられないことなど、とうに分かっていたのに。
「……シェイ、君は確かに、ある意味異質だ。君の考え方は私にとっては光に満ちたものだけれど……人間の中で生きるには、あまりに眩しすぎる」
「どういう、こと?」
「人間は汚い。心が透き通っているのは、無知な子供だけだ。皆等しく、欲深いし、疑り深い」
きっと、シェイだって、いつかは。
浮かんだ考えを、黒龍はすぐに振り払う。いつかのことなど、今は関係ない。
「見たいものだけを見て、都合の悪いことは揉み消して無かったことにする。相手の立場で考えようと言うわりに、殺人者の気持ちは考えようとしない。自分とは全く違うとほざく。つまり、一度過ちをおかした奴は信じられないんだよ。そいつの全てを否定しにかかる」
「……あの子は、前になにかしたの?」
「きっと何もしてないよ。昔他の誰かがしたことの責任を、押し付けられているだけだ。もう、人間は魔物を信じられないんだろ……おかしいよなぁ。個人を尊重するだとか人間の中では言ってるみたいだが、魔物は一括りにする。龍も魔獣も……それに悪魔や妖精までも、魔物だと纏めようとするだろ。滑稽過ぎて笑えてくる」
そこまで言って、黒龍はシェイの頭を撫でた。シェイには見えないが……うっとりと微笑みながら。
「君には綺麗なままで居て欲しいけれど、美しいものだけ見ていても何も成長できない。そうだな……いつか、一度勇者にでも会ってみるといい。今の代のヤツはド低脳だからな」
「勇者、様に……?……あの、黒龍さん、僕昨日、会ったよ?」
「──は?」
黒龍は威圧するような低い声を出してから、暫くの間固まった。
はっ、とやっと意識を取り戻した黒龍は、むにむにとシェイの頬を摘まみながら言う。
「……本当か」
「う、うん。えっと……茶髪の人だよね?身体はおっきくないけど、すっごく強くて。ゴブリン?の子の首、切ったのも、その人、で……」
「……」
「黒龍さん?」
シェイは不安そうに、考え込んでしまった黒龍を見つめる。
──どうしたんだろう。僕何かおかしいこと言ったのかな?さっき、不機嫌そうな声出してたし。
黒龍さん、ともう一度呼ぶと、黒龍はやっと視線をシェイに戻し、すまんと軽く謝って頭をぽりぽり掻いた。
「あー……なんか、言ってたか、そいつは」
「んーと……あ、確か、王都の神官長様が、誰か悪い人が裁かれてなかった?のに気づいたらしくて?そのせいで、勇者様はこっちに来ないといけなくなったって……」
「……チッ」
黒龍は舌打ちせずにはいられなかった。その文脈だと、“悪い人”とは明らかに自分のことだ。
ついに、自分が生き延びていることを勇者に勘づかれたらしい。
実はシェイに助けられたあの日、黒龍が死にかけていたのは勇者パーティーに襲われたせいだった。
黒龍はずっと、森の奥深くでひっそりと暮らしていた。勿論、人を殺したことなどない。ただし、ずけずけと勇者が森の魔物を狩り続け生態系を壊し始めたので、黒龍は勇者の前に現れる他無かった。そして黒龍が姿を見せるなりすぐに、勇者は斬りかかってきたのだ。黒龍を、悪の眷族だと罵りながら。
──アレは馬鹿だが、戦闘能力だけは勇者と呼ぶに相応しい。黒龍は勇者に倒された時のことを思い出して、苦虫を噛み潰したような表情になった。
そして、賢い黒龍は悟った。勇者は既に近くの町まで来ている。もう、自分は逃げるしか無いと。
自分ではアレに勝てない。それに……この目の前の愛らしい少年にこれ以上迷惑をかけられない。
もし勇者に追いつかれたとしても、絶望に染まったシェイの顔を見るより一人寂しく死ぬ方がマシだった。
「……なぁシェイ、今度で、私とはさよならだ。どうか笑顔で送り出してくれ」