22話 リーレニカの壊れた世界
黒い泥の波が国中を抜けると、それらは一瞬にして霧へ還った。
篩の卵は一度浴びれば強制的に精神世界へ導き、心の弱い者を死に至らしめる、問答無用の広範囲殺戮兵器と言われている。
故に、長時間黒い波を滞留させることにメリットは無く、エリザヴェーテは一度国を飲み込ませると結果を確認するように即時波を消失させた。
強者は当然自死を選ぶことはない。目の前に膝をつく騎士達は次の眷属として使えそうだ。
では、街の陰で怯え隠れている子供達はどうだろうか。
死者の数が多いほど不足していたエネルギーは自分へ還ってゆく。この忌々しい人間の――エリザヴェーテの体に縛られる必要もなくなるのだ。
そう思い、エリザヴェーテは目を閉じ――眉根を寄せた。
「……死者がいない?」
「やはり年少者の大量殺戮を狙っていたか」
低い男の声が知ったような口をきく。
エリザヴェーテの青い瞳は、満身創痍のアルニスタへ向いていた。
――どういうことだ?
エリザヴェーテは状況を把握したうえで、この結果に至った原因を探る。
この黒い泥の波は未成熟な精神を汚染するための毒液にすぎない。だからここに居る連中が自ら首に刃を立てるようなことは期待していなかった。
だが、子供は別だ。自分に縋った蛇畜生が暴れたことを利用し、恐怖を増幅させてやったのだ。
なのに、だれも死のうとしていないではないか。
そもそもこの国に封印されたのは数世紀も前のことだ。
自分の策略などこの人間が知るはずがない。
――いや。
「蛇か?」
情けなく自分に身を寄せた蛇畜生は、元を辿れば盲の男が使役した蛇の結晶体として、ただの道具に成り下がっていた。
そこから情報が漏れていたのか?
「……ラグナに教えてもらったわけじゃない。そもそもそこまで協力的ではなかった。あいつはお前の――エリザヴェーテ殿下に逢うためなら何でもするような奴だ。彼女の魂がこの世にないという推測も聞かないくらいだからな」
「ならなぜ」
「お前とラグナは同じだからだ」
「同じだと?」
「古代獣が再び現世に顕現するために必要なのは、『切り離したお前たちの細胞そのもの』だろう。我々の体で細胞――マシーナウイルスを生き永らえさせ、より良い状態で回収できれば復活は容易だからな」
「…………」
よく研究していると、エリザヴェーテは思った。
アルニスタの言っていることは概ね正しい。
数世紀もかけて高位生命体のことを研究した人間が代々いたのだろう。その文献がたまたまこの男の手に渡ったのか、そういう権威ある家柄なのかは知らないが。
自分の細胞をマシーナウイルスなどと勝手に称し、眷属化をさも病名のように騒ぎ立てる下等生物。
そして、勝ち目もないくせに己が切り離した肉片達を利用し、人間の生活基盤や争いの道具に導入した。
人間のなんと意地汚いことか。
エリザヴェーテは心底機嫌を悪くしたようで、盲の男を睨みつけた。
「それを知ったところで貴様らにできることはないはずだ」
「いいえ。最悪の場合に備え、アルニスタ様と既に手を打っていました」
代わりに応えたのはアルニスタの従者である燕尾服の男だった。
「機人の卵殻は、貴様ら古代獣の支配から逃れるための――老廃物を吐き出させる兵器型デバイスです」
燕尾服の男――ヴォルタスは、自信家らしく堂々とエリザヴェーテに言った。
「貴様の黒い泥は、善性マシーナを悪性化させるのではなく、既に汚染されたマシーナを暴走させるものだろう? すべて悪性化させてしまえば、死の恐怖を感じる前に機人化してしまうからな。〝死のマシーナエネルギー〟が欲しければ、人のまま殺すことは最低条件のはずだ」
エリザヴエーテは何も答えない。
「本当は機人を生み出さないようにすべきところだが……貴様の復活予想時期が想定より早まり、改良は間に合わなかった。苦肉の策でほぼ一箇所に卵を集めると、騎士団のお陰で死のマシーナエネルギーが発生することはなかった」
地下深くでその騒ぎは感じていた。
無数に生まれる眷属の贋作と、それを縦横無尽に破壊して回る不快な存在。
妖精女王の気配だ。やつはリーレニカという人間に加担し、同族――古代獣殺しのマネごとをしようとしている。
「なにせ私とラグナは殆どの時間繋がっている。蛇に気付かれないよう、事件に見せるのは苦労した」
アルニスタの言葉に嘘はなさそうだった。
周りでは、国民の誰もが死んでいない事を理解した兵士たちが正気を取り戻し立ち上がっている。
彼らの目は臆すこと無くエリザヴェーテに向けられていた。
「……おもしろい」
人間にここまでコケにされるのは数世紀ぶりだ。
そしてまだ自分を打倒しようという根拠のない戦意をその瞳に宿している。
「あれだけ絶望させてやったというのに、正気でいられるのだな」
この事態を予期していたアルニスタは対策ができた分不思議ではないが、他の騎士団やコウモリスカートの女も変わらず立ち上ることができている。
本来は屈強な男でも三日は意識を失い、泡を吹くような精神汚染を放ってやったつもりだが。
「絶望で死ねるなら、今頃皆この世にいないわよ」
コウモリスカートの女――リーレニカが、余裕のない顔で睨んでいる。
「散々死にたい思いをして、本気で死のうとしたこともあった。けど結局何となくで生きてる……ケダモノのあなたには分からないんでしょうね」
エリザヴェーテは、リーレニカにケダモノと呼ばれてもあまり悪い気はしなかった。
「なぜ死なない? 嫌になれば人間らしく死ねばよかろう」
「何かあるんじゃないかって期待してるからよ」
エリザヴェーテはウンザリしたように目を回した。
何を情けない事を言っている。
だから人間は弱いのだ。こんな体に封印されている現状が腹立たしくすらある。
目の前の弱い人間は、ボロボロになったコウモリスカートに構わず一歩踏み出した。
「どんなに打ちのめされても、立ち直れなくても……気付かなかった何かに支えられて。誰かに支えられていて。皆に応えようとした先の、見えない何かを見ようとするの」
「生きる希望というやつか? お前の言葉は抽象的すぎて理解できん」
「もともと希望に具体性なんてないわよ」
話が見えない。
――こいつの言いたいことは何だ。
「だから……あなたを打ち倒して、明日にある何かを皆で見るの」
――なるほど。
エリザヴェーテはこの体の癖に倣い、貴族らしく上品に口元に触れた。
面白くて、口の端を吊り上げる。
要は、必死に足掻く過程に満足して、結果無駄死にしたいということか。
人間は死ぬ間際に人生の過程を振り返り、良いように自己解釈し、短い生を全うする生き物だ。
無駄に知恵を得て、自分たちと対等に振る舞おうとする。
――下等生物め。
「明日など来ない。ここで貴様らを皆殺しにしてやる」
「死ぬだの殺すだの……なんなのよあなた」
リーレニカの琥珀色の瞳が怒りで揺れている。
「散々人の思いを餌にして……人の命を弄んで……いい加減にしてよ」
「力がないから話し合いか? つくづく人間だな。吐き気がする」
この女は、最期だから文句の一つでも言いたかったのだろう。
どうせ死ぬというのに殊勝なことだ。
散々下に見てきた人間――リーレニカから、口がきけるだけで対等のように話してくる姿がエリザヴェーテには不愉快だった。
「女。名を聞こう」
「……リーレニカよ」
「リーレニカ。貴様は〝支え〟と口にしたな」
リーレニカは理解が追いついていないようで、眉間にシワを寄せるだけだった。
――良いことを思いついた。
リーレニカの額に手のひらをかざし、目を閉じる。
「お前の支えはこの国か? それとも自然か?」
こいつはそんな高尚な生き物じゃない。
もっと個人的で、欲にまみれた何かを卑しく大事にしているはずだ。
リーレニカの体内に混ざっている自身の細胞が相手の記憶を弄り、報せる。
「ああ――こいつか」
すぐに見つかった。
リーレニカの大切にしているもの。
桃色の髪をツインテールにした女。フランジェリエッタというらしい。
その女の現在地を特定する。この領土に居る人間の位置を特定するなど容易いことだった。
「――え?」
リーレニカの呆けた声。
〝空間接続〟の力は人類には再現出来ていないのだろう。
エリザヴェーテが翳した手を下ろすと、空間に黒い切れ込みが入ったように傷が走り、ゴム風船が割れるように勢いよく開いた。
避難所らしき屋内が見える。
そこから――桃色の髪をした女が放り出された。
「……え? なに、ここ――レニカ?」
「こいつが死ねばどうなるか試してみよう」
****
目の前にフランジェリエッタがいる。
どうしてだとか、理由はどうでもよかった。
それよりも、エリザヴェーテの目の前に放り出された彼女が心配でたまらなかった。
人の皮を被った化け物が嗤っている。
フランジェリエッタではなく、リーレニカを見て。
でもその手はフランジェリエッタに向いている。
『放出系の高エネルギー反応を検知』
白銀の世界は、極大な赤い予測線がフランジェリエッタを容赦なく貫く光景を映し出している。
「やめ……て」
「おいおい止めてくれ。下等生物の命乞いなど見飽きたぞ」
手のひらに高熱の粒子が収束している。
あの大蛇を山ごと消し去った一撃と変わらない。必中必死の一撃。
エリザヴェーテがリーレニカの反応を見て楽しんでいる。
つまり、どう足掻いても助け出す事はできない。
リーレニカがいくら速かろうが、人間の速度など有に超え、肉片一つ遺さないつもりだろう。
「ああ悪い。人間は力が及ばないと悟ると、話し合いで解決しようとする卑しい生き物だったな。別れの挨拶くらいはさせてやろうか?」
殺される――フランジェリエッタが。
――考えろ。
考えろ考えろ考えろ。
――何かしろ。
動け動け動け動け動け動け。
彼女を助けないといけないのに。
フランジェリエッタとの思い出ばかりが脳裏を巡っていく。
奴の手に集う殺人の光。更に輝度を増す。
フランジェリエッタは何を察したのだろうか。リーレニカに振り返ると――微笑んでいた。
――だめだ。
「――うああああああああああッ」
「どうした。何か言ってみろ」
リーレニカは半狂乱になり――糸が切れた人形のように止まった。
目が泳ぐ。ここからでは追いつかない。あらゆる行動を模索した果てに。
――蝶庭園。
涙を浮かべたリーレニカの口がそう呟き。
瞳が金色に輝いた。
「……なんだ?」
エリザヴェーテが怪訝そうに眉根を寄せた直後。
リーレニカの全身から膨大なマシーナウイルスが溢れ出した。
黒い津波とは比にならない量の、薄紫色で出力されたマシーナの嵐。
一瞬にしてエリザヴェーテ達を飲み込み、花畑が暴力的な勢いで咲き広がる。
次いで、地中から建造物がせり上がるような破壊的な創造音がなだれ込む。
子供の笑い声が滲み出した。
****
魔法陣を構築し、封印の術式を用意していたダウナが中心地の異変を知覚し、耳元へ手を当てた。
「ソンツォ。こちらダウナ」
『まずいことになったな』
「ええ。見えてる」
中心地は、見たことのない建造物が一瞬で出現していた。
白塗りの建物に、真っ赤な彼岸花。
子供の笑い声。
ダウナはこの現象を数年前に見たことがあった。
生体型デバイスには、独自の世界を構築し、高位生命体が持ち得る力をその領域内で顕現させるタイプがいる。
例えば、ヴォルタスが使った〈グランゴヌールの館〉もそれに近い。生体型ではないものの、機人を再現し活動させる領域を構築した技術は、元を辿れば生体型デバイスの得意分野だ。
当然、Amaryllisもそれが使える。
Amaryllisを使う前任者――ロウエンが、幼いリーレニカを守る際に使ったものだ。
彼の時は、強靭な精神力で世界構築をコントロールしていたけれど。
でも、本人もタダじゃすまなかった。
それをリーレニカは、不安定な精神状態で世界構築を強行させたのだ。
『アイツの時と同じだ。あれの止め方あるのか』
「残念だけど無理ね。あれは固有世界の具現化だから、始まってしまえば手遅れよ」
『お前仮にも偉大な魔女様だろ。本当に何もできないのかよ』
「しつこいわね」
珍しくダウナの表情に余裕がない。
「リーレニカの壊れた世界では、人類の誰も手出しできないわ」




