21話 色褪せた世界(後編)
ロウエンは一年ほどかけて、リーレニカの直情的な力の制御を指南してくれた。
高い位置に生った果実を的に見立てて、手を触れず、潰さないように枝からもぎ取る訓練。
目の前に黒い霧を構築して、鹿に気づかれないように距離を詰める訓練。
川に手を入れて、魚ごと水流を吹き飛ばすように川岸へ押し出す訓練。
今日の食料を確保する一貫でもあった訓練は、当然だがはじめは一筋縄ではいかない。うまくいかない日はロウエンが手本を見せるついでに狩りをしてみせた。
毎日が非現実的な修行ではあるものの、どれも夢中になってやった。そして、すべて一年かけて成し遂げた。
はじめは空気の塊を押し留める感覚がつかめなかったり、超常的な力の流れを読むのに苦労したが、ロウエンの持つ蝶の首飾りがその力の使い方を追体験させてくれた。そうすると、勘が良くなったのか面白いほどにうまくいくようになった。
うまくいくと、彼は我が事のように喜んでくれて、恥ずかしくなるくらいに褒めてくれた。実際それが誇らしかった。
だからロウエンの期待に応えようと、リーレニカはもっと訓練に励むようになり、さらなる上達に没頭した。
そして――この訓練はリーレニカを一人前の構成員にするためのものではないと、途中で気づいてしまった。
子供ながらに色々あり過ぎた。心に傷を負いすぎた。
一人では到底立ち直れないほどの数々を共に悲しんでくれる友達もいなければ、受け止めてくれる両親もいない。
だから、何かに忙しくしていなければならなかった。この瞬間だけは忘れられるような、夢中になれる何かに縋った。
『リーレニカ』
ロウエンは、自分が少しでも暗い顔をするとすぐに気づいた。
『基礎訓練はもう飽きただろう。そろそろ自衛の手段を覚えたほうがいい』
ロウエンは小熊を相手にするような訓練を提案してくれていた。
ここが最大の過ちだった。
リーレニカはロウエンの提案を押しのけ、彼の「仕事」を見たいと言ってしまったのだ。
その仕事についていければ、きっと今までの自分と決別し、誇れる自分に生まれ変われると驕ったから。
――ロウエンの仕事先は、異形の生物が列を連ねる谷底だった。
顔を構成する目鼻が無く、食い殺すための鋭利な刃を生え揃わせた人型の生物は、岩陰に隠れるリーレニカ達に気づく様子がない。
『あれは?』
『感染者だ』
人体に寄生した、古代生物の細胞が人間の体構造を機械化させた成れの果て。機人というらしい。
村で見たことがない怪物達を前に、リーレニカは怯えた。
当然、奴らは隠れた先のリーレニカに気づく。そういう器官を自生している。
リーレニカがいよいよ泣き出しそうな顔をしたところで、ロウエンは「見ていろ」と一言残すと、岩陰から飛び出して機人達の横を走り抜けた。
特段争った様子がないにも関わらず、怪物たちは数秒悶えるとすぐに塵へ還った。
大勢いたにも関わらず、武器も使わずに怪物を仕留めたのだということだけはおよそ察しがついた。
そして、リーレニカについて来るよう顎で合図すると、また谷の奥へ進んだ。
『奴らは人間と同じように宝石状の核をむき出しにする。それを破壊すれば終わりだ』
ロウエンは説明が丁寧であったり、雑であったりとムラがあった。
そもそも怪物と戦うなど一言も言っていないのに、村から遠くにある進入禁止の谷底まで連れられて、禄に目で追えないような退治方法を実演されても子供のリーレニカにわかるはずがない。
どうしてここにこんな怪物が居ると分かるのかとか、なぜいきなりこんな事を教えようとするのかとか、色々と聞きたいことはあったが、
『俺は今までAmaryllisと一緒に戦ってきた。わからなければ〈同期〉で教えてやるさ』
などと一見親切そうだが突き放すような言い方をしてきた。
まさか自分にあんな化け物と立ち向かえと言っているのか。
そう抗議する間もなく、谷底の闇の奥から得体のしれない生き物が現れた。
〈マネキン〉とは様子が違う。四足歩行の小動物。黒猫のような見た目で、尻尾が三本生えている。
谷に迷い込んだのだろうか。
『ちょっとロウエン』
『待て。様子がおかしい』
リーレニカの琥珀の瞳と、黒い小動物の目が合う。
ロウエンの勘はその生物の脅威を正確に察知していた。
通常、感染者は肉体的に発達した暴力型の感染者と、肉体的成長を止め、特異的な能力を発現したタイプで二極化する。
そいつは、一口に言えば精神汚染型の感染者だった。
つまり、子供のリーレニカが子供らしく発狂し、泣き叫んだのだ。
『リーレニカ!』
琥珀の民の力が暴走する。
発狂に続いて、リーレニカの周囲が激しく振動。谷底の周りが大きな力で握りつぶされたように瓦解していく。
それがリーレニカの錯乱で発生していることは、同じ琥珀の民であるロウエンは理解していた。
村人を蹂躙した力とは比べ物にならないほどの破壊現象。
リーレニカは目に見えない何者かに、執拗に許しを求めた。
『ごめんなさいッ、ごめ――ごめ、んな、さ』
『蝶庭園』
ロウエンの起動句を最後に、世界が暗転した。
****
記憶から生成された映像が途切れると、精神世界のリーレニカは現実と映像を混合したように不可視の壁に拳を叩きつけた。
「ロウエン!」
何度も拳を叩きつけるたび、壁が波紋を打つ。
――あの時。私が。
私がロウエンを殺したんだ。
「ロウエン……! ロウエン! ――うぁあああああああッ!」
「自分を責めるのはもうよかろう。主人よ」
声。
この精神世界に自分しかいないはずなのに、聞き慣れた声がした。
それはいつも脳内に木霊し、実態のなかったはずの相棒の声。
「――あなた」
振り返る。
耳の尖った、きれいな金色の長髪をした女の子がいた。
それは一枚の白い布をドレスのように纏った、人形と見間違うほど綺麗な顔立ちの少女だった。
「Amaryllis……なの?」
****
「ワシを使いこなせるようになったから出てきてやったぞ」
彼女はいつもどおりの憎たらしい口調で口の端を吊り上げていた。
自分はとうとう頭がおかしくなってしまったのだろうか。
一瞬でも自身を諦めようとしていたのだ。
現実から逃げようとして、この精神世界にこもって、ロウエンを殺してしまった過去を真正面から受け入れて、一生このままでいようとした。
そもそも、ロウエンが生きていると勝手に思い込んでいた。
この蝶の耳飾りは、彼が最後の力で自分を守ってくれた時に唯一残っていた遺品だ。
それを都合よく継承し、いつのまにか組織の一員として、人攫いから解放してくれた仲間の――ダウナに導かれてここまで戦ってきたに過ぎない。
全部思い出した。
「……もういいの」
力なく吐いた言葉に、Amaryllisは切れ長の目を擦り退屈そうに答えた。
「ロウエンは死んでおらんぞ」
「……え?」
顔を上げる。
Amaryllisはリーレニカの心を読んでいるように、欲しい答えを簡単に示した。
「今なんて」
「お主の師匠は生きておる。そもそも、谷底に連れて行ったのはあいつじゃぞ。お主が気に病むことがどこにある」
「嘘よ……だって私」
「全く面倒くさい奴じゃな。お主はあいつと一年共にして、何を見てきたんじゃ?」
――そんなの。
そんなの、わかるはずがない。
ロウエンは自分が本当の親を失ってから、初めてできた兄のような存在であり、友であり、師匠だった。
戦い方や力の使い方ばかり教わって、心の拠り所ではあったけれど、組織の仕事まで彼に教わったわけじゃない。
教わる前に。独り立ちできるようになったばかりなのに、彼は谷底の機人と共に、目の前から消えてしまった。
組織の仕事すらAmaryllisを継承して、ダウナの任務に随行して覚えただけだ。
それを繰り返して、琥珀の民であることと、直情的な暴走を抑える処置が施されていった。
だから、ロウエンのことはこれっぽっちも分からない。つい最近まで彼の面影を追いかけてばかりだった。
彼のことは、知ることができなかった。
「あいつは琥珀の民の力を熟知し、お前に叩き込んだのじゃろう。たかだか一年程度で覚醒したばかりなガキのお主に、ロウエンが何も出来ずに死ぬと本気で思っておるのか?」
――本当に生きているの?
もう言葉にする力もない。
ここまで色々とありすぎた。
変に希望をもたせるだけの優しい嘘なら止めて欲しい。
Amaryllisはリーレニカの泣きそうな顔に、普段の憎らしい口調とは想像もつかない優しい表情で頷いていた。
「ここはお主の精神世界じゃ。考えは嫌でも分かる。無理に話すことはないぞ」
リーレニカは首を横にふる。
「ねえ、Amaryllis」
「……なんじゃ」
「あの人は――ロウエンはなにか言ってた?」
「そうじゃな。『次に会う時は友達を連れてきてくれ』と言っとったぞ」
「……ふふ」
精神世界に亀裂が走る。
「もう戻るのか?」
「戦わなきゃいけない相手がいるの」
「昔のお主なら、勝てない相手には関わらなかっただろうに」
「相手は古代獣よ。端から勝算なんてあるわけないじゃない」
「なぜそこまでして戦う?」
「あの人なら――ロウエンならそうしていたから」
「そうか」
Amaryllisは長く尖った耳を小さく跳ねさせて、小さい体で胸を張った。
「ならワシも一肌脱いでやらんとな」




