18話 生きるべき人間
「リーレニカさん、いつから気づいていたの?」
ソフィアの問いに、リーレニカは五日前を思い出すように目を伏せる。
「あなたが私たちの店へいらっしゃった日、商業区を歩いていた兄弟が居ましたよね」
「ええ。お兄さんが機人になってしまった日ね」
「あの時、私は彼を止めることに必死でした。大勢の民衆がいて、下手に動けない状況でしたから」
「それと私にどう関係が?」
「……普通、機人が現れればどんな野次馬でも背中を向けるんです。恐怖心が機人の標的になると教えられているから」
リーレニカは伏せた目を開け、ソフィアへ向けた。
「でも、あなただけは逃げなかった」
「それはリーレニカさんが心配で」
「初めは私もそう思っていました。機人はマシーナ濃度――特に感情に影響した高濃度マシーナに意識が向きますから。ですからまず、手近な恐怖心を持った男性を殺すことは当然として、次に狙うのは敢えてマシーナ反応を起こした私か、ソフィア嬢を標的にします」
「私は月ノ花を持っていたからね。確かに標的にされてもおかしくないわ」
「いいえ。機人は月ノ花を持つあなたを攻撃したんじゃない」
白銀の世界で見た景色は、夜空に浮かぶ星が煌めくような微細な反応と、さまざまな感情に揺れ動く民衆の混乱だった。
月ノ花も当然、高濃度なマシーナ反応ではあるが、だからと言って人間の恐怖心を上回るほど「目立つ変化」はしない。
「ある空間の一点だけ、おかしなマシーナ反応があったんです」
マシーナ反応の変化は、機人を〈挑発〉し、敵意を向けさせる基本技術だ。
夜狐がリーレニカの使用する〈衝撃〉を使えるように、「努力すれば体得できる」技術のみで戦うように制限していたからこそわかる。
「あなたも機人に対し〈挑発〉していましたね。夜狐として、民衆を守るために」
「……本当、凄いですね。リーレニカさん」
「正直、あの時は只者ではないとしか判別がつきませんでした。確証を得たのは、あなたがベータとして建物の屋上から私を襲撃した時です」
屋上から挟撃を仕掛けられたとき、解析した数少ない情報には「マーキングをしたスタクと酷似したマシーナ構造」があった。
あとは消去法だ。変異したスタクが部隊連携をするほどの冷静さを維持できるわけがないのだから。
ソフィアは俯き、小さく笑った。
諦めたように、リーレニカの推察が正しいことを認める。
「この仮面、『使用者の感情を著しく抑制するプログラム』が施されていますね。私も似たような経験がありますが、これは合理的な判断を促すためのものですか?」
「概ねその通りよ。……お察しの通り、私は夜狐の部隊員。私の任務は機人の討伐と、憲兵の支援だった」
「それだけではありませんよね」
リーレニカは、言葉の端々に嘘を混ぜようとするソフィアに食い下がる。
「ソフィア嬢。あなた、『二重スパイ』ではないのですか?」
「…………」
流石のソフィアも目を見開き、言葉を選んでいた。
何を言うべきか決まらないようで、その様子が図星であると雄弁に物語っている。
リーレニカはさらに続けた。
「私が尋問された兵舎を襲った〈ピエロ〉。通常、騎士団の敷地なのだから辿り着く間も無く兵士に切り伏せられるはずです。ですが、あの時一人残らず侵入を許した。……あなたがその手引きをしていたからです。ただ、そこまでする理由が見当たらない」
ソフィアがベータとして行った事は同業目線で想像がつくが、彼女を突き動かすものが一体何なのか。そこだけがわからなかった。
だが、不審な点はある。
「あのベレッタという魔装使いは、明らかに夜狐という部隊ではなく『ベータ』を殺そうとしていました。本当は別の目的で招き入れたのでしょうが、裏切られた。あれはアルニスタから仕向けられた口封じなのでしょう?」
ベレッタ・レバレッティは兵舎に侵入し、ベータと会敵したのだとばかり思っていたが、今思えば彼女の狙いは初めからベータだったのだろう。
「デバイスを妨害するデバイス」が破壊され、Amaryllisを使えたのは、外側から〈ピエロ〉を誘導したソフィアによる副次的な結果に過ぎないはずだ。
「アルニスタに何を吹き込まれたのです?」
「私は……」
ソフィアはとうとう感情的になり、声を荒らげた。
「私はスタクに死んでほしくなかった! どうしてもスカルデュラ家の力がないと、彼は助からないと思ったの。だって、」
ソフィアは言いづらそうにするが、それでも吐き出すように打ち明けた。
「あの植物化は元々スタクのじゃない。私の病なの」
その言葉は、スタクが植物性の機人に変異している病を指していた。
「彼は元々新聞記者で、裏組織のことを取材するアンダーグラウンド系のライターをしていたの。当然私も記事の的だったでしょうね」
だからスタクの部屋は医学書と、出回っていない記事ばかり転がっていたのか。リーレニカは一人その言葉を静かに聞きながら思い返していた。
「でも私が病を発症した時、彼は自分のことは顧みず、私の看病を何ヶ月も続けてくれていた。きっとお人好しなのね」
ソフィアは思い出話をするように笑って、次第に涙を浮かべ始めた。
「それである時、私に告白してくれたの。『好きだ』って。私の何を知ってそう思ったのか知らないし、最初は身近なネタを手放したくなくて言ったデタラメだと思っていたけど……いつまでも、あまりにも必死で。マシーナ反応まで見える程悪化したとき、『ああ、彼は本気なんだ』ってわかったの」
夜狐の部隊に人間味がないと思った理由が、そこにある気がした。
きっと、この部隊は機人症の末期患者が命を繋ぎ止めるために設けられた実験部隊だ。
シュテインリッヒ国だけではなく、そういう国や軍は珍しくない。ただ、人の意識を保つように開発された狐の仮面は、リーレニカの生体型デバイスと似た運用をしていると感じた。
要は、「心を消せば機人にならない」のだ。感情に影響されるマシーナが汚染されないのだから、合理的なシステムではあるのだろう。
その実、延命処置にしては残酷であるとも言えるが。
「看病のおかげもあって、信じられないけれど私はレイヤー壱まで回復していたの。でも、」
「スタクが機人を発症したのですね」
「私も何が起こったのかわからない……。そのとき、アルニスタが都合よく私の前にきて、『治す方法を教える』って言ってくれたの」
アルニスタは実はもっと前からこの国に潜伏していたのか。
ソフィアは手を震わせながら自身の顔を覆った。
「スタクが人間に戻れるならなんでもできた。リーレニカさんたちの店に通って、月ノ花を食べさせたり、スタクに騎士団の目が向かないよう、月ノ花を現場に残したり、部隊の内情をリークしたり、兵舎の警備を手薄にしたり……」
今までの行いを懺悔するように呟くそれらは、口にするたびにソフィアの心を蝕んでいるように見えた。
「でも全部アルニスタの嘘だった……! 散々スタクを機人化の実験にして、関係ない人を巻き込んで……」
そこまで言って、ソフィアは諦めたように笑った。
「でも、自業自得よね。これだけ悪いことをしたんだもの。神様からの、私に対する罰なんだわ、きっと」
「……ソフィアさん。私、言いましたよね。『彼は死ぬべきだと思う』と」
不意に、頬を叩かれたあの時の話をし、ソフィアは何も言わずリーレニカに頷いた。
「あれに嘘はありません。一般的に見ても、彼はそういう段階まで来ていた。ですが」
ソフィアの手を握る。両手で包み、力強く。
「死ぬべきか決めるのは私ではありません」
潤んだ瞳がリーレニカを見上げる。
「あなたはどうしたいんですか? 私に同情して欲しかったんですか? 違うでしょう?」
ソフィアは縋りたかったのかもしれない。でも、それ以上に迷いはあったはずだ。
責任と思いが必ずしも同じ方向を向いているとは限らない。
時には己を通す場面が必ず来る。
「あの兵舎で見捨てれば口封じをできた私に、どうしてポーションと仮面をくれたのですか?」
――己を通す場面が来るとすれば。
今がその時だ。
「今度は私が聞きます。今でもあなたは、あの姿のスタクを助けたいんですか?」
ソフィアは、きっとどうするべきか悩んでいたはずだ。
一人で思い悩み、到底打ち明けられるはずがない悪も、全て飲み込もうとした。
それが溢れ、頬を伝い、涙声となって思いをこぼした。
「助けたい……死んでほしくないよ……」
「……じゃあ決まりです」
リーレニカはソフィアを抱きしめた。
「助けましょう。あなたに協力します」
「どう、して……? あんなにあなたを騙して、仲間に売ったのに……」
確かに、ある時からリーレニカは夜狐に狙われ、不要な尋問を受け、果ては死にかけたこともあった。
ただ、それ以上に大事なことがある。
「あの子を笑顔にしてくれたのが、ソフィア嬢。あなただからです」
月ノ花を買う人間は限られている。
依存性の高い薬に加工する者もいる。そういう輩は分かりやすい。追い払ったこともあった。
ただ、彼女は愛する人のために買い続けた。
フランジェリエッタも、大好きな花を買ってくれる人を見るとよく笑っていた。それがどんな使われ方であろうと、大切な人を守る事には違いない。
フランジェリエッタには笑っていてほしい。
そう思う自分の気持ちと、ソフィアの気持ちにどれほどの違いがあるのだろう。
歪んでいようと、根底は同じはずだ。
――月ノ谷では、あの子の祖母を殺すことでしか彼女の魂は救えなかった。
前例が無いだけで、本当は助ける道があったのではないかと。悪夢を見るたびにずっと思い悩んでいた。
そして目の前にまた、同じ苦しみを飲み込もうとする人が現れた。
今の自分に、それを見捨てられる道理はない。
彼は――スタクは生きるべきだったんだ。この人のために。
――私にはそうする力があるはずだ。否、そうするべきだ。
彼を人殺しにはさせない――絶対に。
第四章――了。




