15話 ずっと伝えたかったこと
リーレニカが通路を戻っていく。その背中には、桃色のツインテールが特徴的な少女。
踏み締めるたびに、青白く幻想的な輝きを放つ石レンガの地面。
漂う狼型機人の残滓。
別の空間から、二人を観察する男がいた。
「これがお前のデバイスか」
盲目の男が口の端を吊り上げ、邪悪な蛇のように嗤っている。
――縁接続。
蛇の尾と頭部で円環を成し、映し鏡のように異界を映す膜を張る、独自のマシーナ躁術。
写し出される対象は、〈蛇〉の毒牙によって眷属化した生物から自由に選別する。
眷属化された生物は、主観からも俯瞰からも対象と、その近くにあるものを知覚できる。
道化師――ヴォルタスの召喚していた、常駐型の狼がそれだった。
「蝶庭園――花畑は蝶を漂わせる器だったか。だとすると、アレに封印された生体型は、太古の獣……いや、〈妖精女王〉Amaryllisだな」
盲の男、アルニスタ・スカルデュラが楽しそうに笑う。
「いつ以来だ? ――久しいな」
その顔は、徐々に変異を始めた。
鱗のように、幾重にも、幾層にも積み重ねた肌質は、爬虫類めいている。
瞳孔が縦細く引き伸ばされ、不気味に眼光を光らせる。
人間が蛇と同化した結果だと一目でわかるほどには、アルニスタの外見は変異を遂げていた。
「よくやった。駒よ」
意識を失っている奇術師に向け、その働きに賞賛を贈る。それには嘲笑も含まれていた。
「この体はとうに死んでいると言うのに。滑稽な道化だ」
****
フランジェリエッタを背負うリーレニカは、満身創痍だったはずなのに歩みに疲労が伺えなかった
現象としては、不思議なことではない。
善性マシーナ分泌過剰は、リーレニカの常時消耗していく偽善性マシーナと極めて相性が良かった。
要は、自己治癒を効率的に助けてくれる善性マシーナが、絶えず供給されるのだ。
これはリーレニカも知らなかった事だが、どうやらマシーナというのは、正常な血中マシーナが不足した生物へ集まるような「流れ」や「性質」があるらしい。
悪性マシーナが、善性マシーナによって押し出され排出されるメカニズムは、水に浮かぶ油と似た性質があるという証明なのかもしれない。
現に、魔女ダウナからもらった善性マシーナポーションは、ここに来るまで何度かリーレニカの機人化を抑えている。
そんなことを考えていると、ふと背中の小さな店長が呟いた。
「レニカ先輩」
「先輩なんてよしてください。あなたも思い出したのでしょう? 月ノ谷にいた時のこと」
「……うん。あの時のレニカ、ちょっとだけ怖かったな」
自身の胸の前で交差する細腕がきゅっと締まった。
思い出して震えているのだろうか。リーレニカも月ノ谷でのことを思い返し、数年ぶりの遅すぎる謝罪をした。
「……あの時はすみませんでした。私にもっと力があれば、もしかするとあなたの祖母も救えたかもしれないのに」
急に祖母を殺したことを謝られたフランジェリエッタは、慌ててリーレニカの肩を掴んだ。背中に預けていた重心が反れたことで、リーレニカも数歩後ろへステップを踏む。
「違うよ! そう言う意味で言ったんじゃなくて。だから、その。いつも張り詰めてそうに見えたの。ほら、意地悪してくるミゲルおじさんにも冷たいし、ソフィアさんにもあんまり態度変えなかったでしょ? あの谷で会った後から、笑顔が消えたみたいで」
フランジェリエッタは「それに」と続ける。
「私がいくらドジしたって、メイドさんみたいに面倒見てくれるし、自分は辛いくせに、フラちゃんの見えないところで苦しんで、抱え込んで……私のこと信用してくれてないみたいだった」
「それは……」
リーレニカは言い淀む。決して彼女のことを信用していなかったわけではない。でも、言わなければわかってもらえない。
視線を泳がせ、心なしか歩幅が小さくなる。歩みに習うように辿々しく、言葉を選んだ。
「ごめんなさい。私は、あの。本当はあなたと一緒にいていい人間じゃなくて。それだけじゃ……なくて」
リーレニカは唇を噛んだ。
思いを伝えようとすると、目の奥が熱くなる。
声が震えた。
「私は――あなたを殺そうとしていたの」
言ってしまった。
――ずっと一緒にいてね。
かつてフランジェリエッタに言われた言葉を齟齬にし、いずれ分かることだと、先送りにしてきた答え。覆すことができないと決めつけていた〝拒絶〟。
それを聞いたフランジェリエッタは――あまり驚いたような顔はしていなかった。
どころか、安心したような声で、
「なんとなくね、そんな気はしてた」
逆にリーレニカが面食らう羽目になってしまった。
思わず振り返ろうとしたが、フランジェリエッタが更に身を寄せて腕を締めてくるので、そのまま歩かざるを得ない。
彼女は変わらず優しい声で続けた。
時折、思い出すように笑って。
「そりゃあ確かに二人でお花屋さんしてた時はさ、谷の事なんて忘れてたけど。でも……ふふ。だって、お花屋さんなのにレニカ強すぎるんだもん。なんかどこかの国のスパイみたいだった」
心臓が跳ねた。
体が硬直し、嫌な汗が滲む。
リーレニカは上擦った声で何か言おうとするが、フランジェリエッタは慌てた様子のリーレニカに優しく首を振った。
「……! あ、あの」
「言わなくていいよ。言いたくない事だって誰にでもあるし、それは私とは関係ない。だから知る必要はないよね」
どこまで知っているのか。ただリーレニカの姿がそう映っただけなのか。
職業柄、煙に巻かれた御伽噺のような存在のリーレニカに、フランジェリエッタは理想を重ねただけなのかもしれない。
何も言えないリーレニカに、フランジェリエッタは笑って話を変えた。
「でも本当はすごい人だったんだね。レニカって」
「違うの、私は――」
「ううん。違わないよ。だって、誰よりも傷ついて、本当はこんなことしたくなかったはずなのに。私と年もそんなに離れていないのに、自分を押し殺して戦って。今度は私を守ってくれた。ここまで来るのに、どれだけ苦しんだのかとか、見るだけでわかるよ」
思い出すように語るフランジェリエッタが、何も言わないリーレニカへさらに身を寄せる。
体温が鮮明に、背中越しに伝わる。
心を合わせるように、彼女は目を閉じて囁いた。
「……本当、頑張ったね」
――気付けば、涙が溢れていた。
フランジェリエッタの細腕に滴下する感情。止められない。
困ったものだ。顔を拭うべき腕は、大事な妹を支えるために使ってしまっている。
かといって背負っている体をいきなり突き離すわけにもいかない。
こんな情けない嗚咽は聞かれたくないのに。
「変わったよ。レニカ先輩」
耳元で優しく言うフランジェリエッタに、リーレニカは啜り泣くことしかできなかった。
今までどれだけのものを捨ててきたのか。
どれだけの命を諦めてきたのか。
どれだけの命を諦めろと突きつけてきたのか。
――どうしてだろう。
その一言で。
ずっと側にいてくれた人から言われたその言葉で。
リーレニカの生きてきた世界がやっと認められた気がした。
圧力感知により灯る、幻想的な青白い光。
啜り泣く声が良く響く地下通路。
二人だけしかいない空間。
地上に出るまでには落ち着けるよう、コウモリスカートの足取りはゆったりと、穏やかになっていた。




