3
「あ…」
図書館の奥の奥、本の崩れ落ちる音と共にゆっくりとカヨコと数人の男子生徒の目線がこちらに移動する。
「失礼。よろしくない虫が顔に止まっているように見えたので、咄嗟に足が出てしまった」
思ったよりも勢いが出ていたらしく、そのまま本棚に叩きつけてしまった。人間はともかく、無実の本たちにまで攻撃を与えるような真似はよろしくなかったなと、本たちになにか損傷がないか探知魔法をかけつつ本棚に戻るように指示を出す。
人間の方もさすがに死なれても困るので、地面で伸びている男子生徒の襟を掴み起き上がらせる。そして、魔術で軽くメディカルチェックを行ってやる。
「虫には刺されていないようだ。よかったな。ただ、なにかあっても困る。一応医務室に連れて行くように」
そう言って、伸びていた生徒を他の生徒たちの方に突き飛ばしてやったが、誰一人として動かず、その生徒は再び地面に転がることになった。
仕方ないのでもう一度起こしてやり、彼らの目の前まで連れて行ってやる。
「医務室に連れて行けと言ったのが聞こえなかったか」
もう一度つき飛ばせば、今度は受け止めて一斉に医務室の方向へと慌てて向かっていった。
今回いたのは、J.アーロン、K.ミュラー、A.ホフマン、E.スレイタ―だったか。後で大学に連絡を入れておこう。
「…大丈夫か」
奴らが全員消えたのを確認して後ろを振り返る。
怪我はないだろうか。また、この光景を見て怯えてしまっていないだろうか。今回は男子生徒が彼女に拳を振り上げているのを見て、頭に血が上って咄嗟にこちらも足を出してしまった。これはあまりよろしくない。
「あ、だ、大丈夫です…」
「本当か?」
彼女の前まで行き片膝を地面につけ、全身を確認する。こうした方が同じぐらいの目線になって見やすい。
「…手を見せてくれないか」
先ほどからずっと両腕が後ろに回されていることに気づき声をかける。
「いや、その…あの…」
しばらくはそんな声を上げながら抵抗するように首を横に振っていたが、私が無言で見つめ続けると諦めたのかそっと両腕をこちらに差し出した。
両腕には誰かの__先ほど彼女を囲んでいた男子生徒たちの手の痕がくっきりと残っていた。暴力に晒され慣れていないであろう彼女の明るいベージュの肌につけられたその赤い痕は、酷く痛々しい。間違いなくこれは痣になるだろう。
治癒魔法が使えればすぐに治せるだろうが、あいにく私には怪我の治りが早くなる程度の治療魔法が限界だ。一応治療魔法もかけておくが、後で医務室に連れて行こう。この大学の保健師は治療魔法が使えたはずだ。
「…大した怪我でもないから…大丈夫です」
「怪我がある時点で大丈夫とは言えない。…間に合わなくてすまなかった」
頭を下げると、「あっ、ちがっ、そんな…」といった声とともに、彼女の手足が忙しなく動く気配がする。
「シェバさんはなにも悪くないです。だから、頭なんて下げないでください…」
「でも、」
「と、というかシェバさん、本当は授業受けてる時間でしたよね?この時間は…」
「…」
そう、授業。
授業のせいで私は間に合わない。
その時間に私が授業が入っておらず彼女だけ授業…というのであれば問題ないのだ。しかし、私だけその時間に授業があったり、互いに別の授業が重なってしまえばどうにもならない。本当は私が授業を受けている教室の隅にいるなりしてほしいが強要はできない。
特にこの大学は学年ごとの必修授業がある程度あるので、学年が違えば受ける授業はそれなりに違う。今の時間帯も三年生は必修授業である応用変身魔法の時間だったが、一年生は自分で授業を入れなければなにもない時間であり彼女も例に漏れずそうだった。だから、図書室に来ていたのだろう。それにしても随分図書室の奥地だが、そこで偶然彼らに遭遇してしまい彼女は絡まれた__いや、これはおそらく偶然ではない。必然だった。
前回、前々回、そしてその前も彼女がそういった輩に遭遇したのもこういったタイミングだった。彼らも愚かではあるが馬鹿ではない。彼女に手を出せば「シェバが必ず来る」のであれば、「シェバが必ず来れない」時間帯にそれを行えばいいと考え始めたのだろう。
今回はどうにか抜けて来たわけだが…
「前も、その前もたしか…。授業…ちゃんと受けられてますか…?」
「…問題ない」
「本当に?もしかして、私のために…」
「君が心配することはなにもない」
心配してくれるのは有難い。しかし、この問題に関して彼女にできることは何もない。これらは全て、私が解決すべき問題だ。なので彼女は何も心配せずにいつも通りに生活してほしい。
「でも…」
なおも私に対して何か言いたげな彼女の話を逸らしがてら、先ほどから気になっていたことに対して口を開く。
「…それにしても、君こそなぜ図書室のこんな場所に?君が興味を抱くような本はここにはないと思うが」
カニバリズム、殺人欲求、人間解体図…少し目を動かすだけで、この辺りには随分と物騒な表題の本が並んでいることがわかる。しかも、よくみるとどれも古い本ばかりだ。
「…その、授業で…」
「一年次の授業にこういった内容を学ぶ授業はなかったと記憶にあるが」
「…あの…その…ごめんなさい…ただ…」
「…勘違いさせてしまったのならばすまない。責めたいわけではない。ただ、この辺りは人気もあまりないし、よくない話も聞く。来ない方が賢明だろう」
彼女がそういった内容に興味があろうとなかろうとなんでもいい。
私はただ彼女になるべく危険な目にあって欲しくないだけなのだ。
「わかってくれるだろうか」
私の言葉に、カヨコは俯きつつ小さく頷く。
その様子が叱られた子供のようでなんだかいじらしくて、思わず彼女の頭を撫でようとして…やめる。さすがにそれは馴れ馴れしいだろう。
中途半端に宙に伸びた腕を膝に置き立ち上がる。
「…医務室に行こう」
そう声をかけて歩き出そうとするが、なぜかカヨコは小刻みに身体を震わすばかりでその場から動かない。
カヨコ?と前に立ち軽く肩に触れると、そのままカヨコの身体が後方へとぐらりと崩れ落ちていく。
「カヨコ!?」
慌てて彼女の肩に片腕を回し、彼女の体を起こしつつ支える。
図らずも抱きしめるような形になってしまったがこれは仕方がない。
「ご、ごめんなさい。あ、歩こうと思っても、なぜか動けなくて…」
…やってしまった。
彼女の「大丈夫」を信用してはいけないとは理解していたが、体の方にばかり注意がいって精神の方を失念していた。私の失態だ。
これまでも嫌がらせはあったとは言え、私の知る範囲では水をかけられたり、足を引っかけられたり、虫を投げつけられたりなどだった。
それらも決して許されるべき行為ではないが、今回はそれなりの図体の男たちに囲まれた挙句、殴られそうになっていたのだ。凶悪さと感じる恐怖が全く違うだろう。そんな目にあって恐ろしくないわけがない__といつからか震えていた小さな体を支えながら考える。
「その…しばらく、このままでもいいですか…?」
その言葉に黙って頷くと、安心したように腰に両腕がまわされる。その腕すらも震えていて、あまりにも痛々しい。
私も彼女の肩を支える腕はそのままにもう片方の腕を彼女の頭に回すと、控え目に彼女の頭が胸に押し付けられる。
しばらくそうしていると、彼女の震えも強張りも次第に溶けていく。そして、私と彼女の鼓動が重なっていき、なんだか互いの身体が緩やかに一体化していくような錯覚さえ覚え始める。
…ああ、あたたかくて、やわくて、ちいさくて__
なんだか泣きそうな気分だ。
人を抱きしめたのなんていつぶりだろう。いや、生まれてこのかた人を抱きしめたことも、人に抱きしめられたこともなかったような気がする。
こうしているだけで、すごくしあわせで、やさしい気持ちが溢れてくる。でも、ただ幸せなだけではいられなくて、悲しみやら、苦しさやら、不甲斐なさやら、ありとあらゆる感情が混ざりに混ざって胸に押し寄せてくる。なにより、この小さくて弱々しい身体でどれだけの悪意を受け止めてきたのかと思うと、想像するだけで胸が苦しい。
こんな身体でそんなもの受け止めきれるわけないのに。守られるべき存在なのに。なぜこの世界はこんなに悪意に満ちているのか。そんな世界は明らかに間違っているし、早急に変わるべきだ。変わるべき…だが、父ならばともかく私にそんな力はない。
だから、
誰も彼女を守らなくとも、
誰もが彼女を悪く言ったとしても、
私だけは彼女を愛し守り続けると誓おう。
この理不尽な世界を変えることは適わなくとも、せめて私だけは彼女と共に。