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「…カヨコ・カガミを退学に?」
趣味の悪い成金趣味の学長室。
おかげさまでもともと悪い体調がにさらに悪化しそうだ。
カヨコのお目付け役を任じられて以来のその極彩色の張りぼてを背景に、ルエが驚いたとでも言わんばかりに片眉を上げこちらの言葉を繰り返す。
「ええ。辞めさせたいんです」
「しかし、また急に…」
「あんな馬鹿…失礼、成績不振者がこの学園に在籍し続けるのは、この学園の生徒にとっても彼女にとっても悪影響を及ぼすのではないか…と僕は心配していまして」
「それは…私も懸念しているところではあるがね…」
「安心してください。退学後は母と僕が責任をもって身柄を預かり、彼女に相応しい学校に入学させます」
「既に母からの推薦状もあります」と、花の都のとある学校宛ての推薦状を取り出して見せる。
しかし、それを見てもなおルエは「しかし…」「うむ…」「理事長が…」などと繰り返すばかりで、いつまでも首を縦に振らない。
この男はそんなに物わかりの悪い男だったかな、と内心舌打ちしつつ「そういえば」とルエの瞳を覗き込む。
「最近、母から相談がありまして」
「は?…はぁ。母君から」
「ええ。僕がよくルエ先生のお名前を手紙で出すからでしょうか。そんなに僕がお世話になっているのならルエ先生個人への支援をぜひしたい、と先日の手紙で」
固まるルエに微笑みながら「まだ決定事項というわけではないのですが、一応お耳に入れておくべきかと思いまして」と付け足す。
これでいい加減理解するだろうと、品のない赤に染められた革張りのソファに深くかけ直す。
座り心地はよくないが、昨夜は…というよりこれはもう毎晩だが、吐き気が収まらず全く眠れなかったので少しでもいいから身体を休めたい。できることなら、今すぐ部屋に帰って自分のベッドに寝転がりたい。眠れなくとも、とりあえず身体を横たえるだけでも身体は楽になるから。
「それは…」
「はい」
答えを急かすように半ば食い気味で相槌を打つ。下手に考えさせてはいけない。
ルエは「ええ」やら「ああ…」やら繰り返し、廊下に続く扉の方を挙動不審に何度も確認した後、ようやくこちらに向き直る。
「…時間をくれないかね」
その言葉に対し、口を開こうとした僕をルエが片手で制す。
そして、もう一度扉の方を確認し、こちらに身体を少し寄せると抑えた声で続ける。
「違う。考える時間をくれという意味ではない。…君の要望には応える。しかし、すぐには無理だということを理解してほしい。…そういう意味だ」
「…なるほど。もちろんそのことは理解していますが、あまりにも時間がかかるようですと…」
「わかっている」
その返答に満足した僕は「ではよろしくお願いします」と、あらかじめ用意しておいた小切手にサインを入れて机に置き、体の重みをどうにか机に押し付けながらどうにか立ち上がる。立ち眩みが酷い。
「え、」
「いつもお世話になっているのでそのお礼です。僕個人からの。__ああ、もちろん母からの支援とはまた別ですよ」
小切手にはそれなりの金額を書いておいた。これを受け取って、怯えるか、ぶらさげられた人参__母からのご支援はさらにうまいに違いないと期待に胸を膨らませるかは知らないが、なにもないよりかは働いてくれるだろう。
「良い知らせが聞けることを期待しています__では」
背を向けたまま挨拶を述べ、そのまま華美な装飾の持ちにくいドアノブに手をかけ廊下に出る。
「…ははっ」
廊下に出た瞬間、思わず口から笑いが零れる。
あの女、どんな顔をするんだろう。
身寄りもないのに学校から放り出されて。まともに生きているわけがないことぐらい、馬鹿なあの女にもわかるはず。
恋人やらに養ってもらう?はてさて、そいつにそこまでの愛があるのか怪しいものだ。だってあんな女だ。誰があんな女のことなんか愛するのか。むしろ遊ばれている可能性の方が高いだろう。
ま、そこまでの愛があったとて僕が擂り潰すだけなのだが。
金ならいくらでも払う。母に百遍ぐらい頭をさげるぐらいどうとでもない。なんだったら、以前社交界で僕に下卑た視線を向けてきたムッシュやマダムの方々に媚を売ってもいい。なにがなんでもその恋人とやらを潰す。
…本当に、愛やら恋だの反吐が出る。どうしてそんな曖昧なものにどいつもこいつも縋りたがり、自分の人生を滅ぼそうとするのか。
でも、僕だってそこまでの外道じゃない。「助けてくれ」の一言と、あの日から全く話しかけてこない無礼への謝罪とドゲザとやらでもあれば、拾ってやることもやぶさかではない。
そうなったら、醜くも美しいあの花の都に連れて行くのだ。
母に相談した際の予定や目的とは随分違ってしまうが、母に言って新しい屋敷は用意してもらってあるし、そこに一人女を置く許可も貰ってある。
そこで衣食住は完璧に保障してやる。しかし、それ以外の一切を僕は彼女に与えない。
僕があの女の人生を消費し蹂躪する。
あの女の人生の限りある時間を、その尊厳を、その自由を、その精神を消費する。この学校のゴミ共ではもちろんなく、あの女でもなく、母でもなく、あの女の恋人とやらでもなく、この僕が。
人間としての尊厳なぞ一切認めてやらない。僕の所有物として、毎日毎日擦り切れるほど使って丁寧に丁寧に壊してあげるのだ。
母が以前男にやっていたように、熊のように四つん這いで部屋中を歩かせてやってもいいかもしれない。そしてそれに飽きたら、香水をかけたハンカチを投げ捨てて、それをその体勢のまま口で拾いに行かせる。ああ、またあの気色の悪い鳩に姿を変えて一日過ごさせてやってもいい。そうだ、犬のように首輪を用意してやってもいいかもしれない。それでもし、逃げ出すようなことをするのであれば鎖に繋いでやろう。
ま、気が向いたら、やけに観に行きたがっていた母の公演に連れて行ってやってもいいのかもしれない。
「…あはは、ははははは…」
これで吐き気とも不眠ともオサラバだ。
僕の平穏と日常を取り戻せる。
そう、思ってたのに。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
荒い息。
この息は、誰のもので、なんのために出ているのか。
頭がクラクラする。絶え間ない吐き気、吐き気、寒気。
「ああ、ああ、ああ…」
違う。違う。別になにも、今日は、こんな予定じゃなかったのだ。
休日で、いつも通り眠れもしないのにベッドに転がっていたら、突然彼女から連絡があって、震える声で彼女に「今すぐ部屋にきて、お願い」なんて言われたから。
恋人サマにどうにかしてもらえよ、なんて思いつつもなぜかちょっとだけ気分が少しだけマシになって。いつもよりもさらに切羽詰まっているように聞こえる彼女の声に心配も感じて。だから、死体みたいな体に鞭を打ってできる限り早く彼女の部屋につくように行ったのだ。ルエとの取引からしばらく日にちもたっているからいつ彼女に退学通知書が届くかもわからないし、こうやって彼女の部屋に行くのもこれが最後かもしれないからって。
彼女の寝室の扉の前に立った時点で、あるいはその前の…彼女の部屋に繋がる魔法扉のドアノブが鍵も承諾もなしにあっさり回った時点で__なにか嫌な予感はしていた気がする。
本当はそこで、僕はさっさと扉に背を向けて大人しく自分の部屋に帰るべきだった。
でも、その選択を僕はしなくて、そんなことはできなくて。僕は自身の脳に響き渡る警笛を無視しながら、おそらく不安定になっているであろう彼女を驚かせないように、なるべく音を抑えながら扉をノックした。
でも、扉の向こうからなんの反応もなかった。
だから、「カヨコ、僕だ。開けるよ」なんて出来る限り柔らかい声色で声をかけて。
それでも反応がないから、扉を開けて。いくつかの部屋を見て回って。
そしたら、そこには、
ベッドと、男の形をした肉体と、カヨコ…にそっくりな女
そこからはあいまいな記憶しかない。ただ、その女の悲鳴にも似た怒声が響いて、その後は、怒声と、怒声と、怒声と…
「どいて!!!!やめて!!!!!」
僕の下でじたばたと暴れる女。
部屋にはチューベローズの腐ったような臭いが満ちている。
意識が朦朧とする。
もうわけがわからない。
なんで…なんで…。この女は、この子は…僕の…僕の…ああ、違う。
なんでよりにもよって僕を、こんなことしてる時に、この場所に呼ぶんだよ。僕で、僕で遊んでるのか…?こんな悪趣味な真似、。なにが楽しいんだよ…なにが悲しくて、
僕が、どんだけ、お前、を、ずっと、あ、あ、あ…
いつからか枝葉のようになってしまった母とは少しも似ていない指が、僕の意思とは関係なく女の首に絡みつく。
死ね。だめだ。死んでくれ。耐えられない。苦しい。ごめん。死ね。生きて。どこにも行かないで。死ね。笑って。死ね。頭が、もう。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね…
本当に、好きだったんだ。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね好き死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね…
「、え」
僕の手が、燃えている。
よく見覚えのある紫の炎が、ごうごうと僕の手を燃やす。
「あ゛あ゛あ゛!!!」
耐え難い熱さに身を焼かれながらも、脳はむしろ冷静になっていって。
この炎は明らかに僕の魔法によるものだな、と。
今ここで僕がカヨコにかけた魔法が役立つなんてなんて皮肉なことだろう、と。
いっそのことこのまま一緒に焼け死んでしまいたいけれど、そんなことは無理なことは僕が一番知ってる。
この炎はなにをどうあがいても彼女には燃え移らないし、加害者が彼女に与えるつもりだった傷害と同レベルのものを加害者に与えるまで消えない。過去の僕がそうあれと願ったから。
だから、ここで死ぬのは僕だけ。
「る、ルイゼ…!!」
ああ、失敗した。なんでそんな魔法かけてしまったのか。でも、まさかこの魔法に自分が撃退されることになるなんて、色々な意味で想像してなかったんだから仕方ない。
それに、この結末は結末でよかったのかもしれない。これでもう、これ以上苦しまずに済むんだから。
…ああ、でも、でも、
一緒に舞台、観に行きたかったな。
これにて、黒髪のヴィナス編は完結です。