La traviata
__雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒いあなた!今度こそ、小人たちは二度とあなたを目覚めさせることはできない!
『白雪姫』より
* * * *
「かよ子…」
まだ幼く愛らしい姿をしていたはずのその子は、今や恐ろしい姿になっていた。
長い髪の毛がもちあがりゆらゆらと揺れ、瞳からは白目が失われて金色一色に、真っ赤な口にはギザギザと牙が生えそろっている。以前はたしかにスベスベでやわかったはずの手足には、途中からびっしりと毛が生え、その爪先はごく簡単に私の肌を切り裂けるような凶器になっていた。二本足で立っているはずなのに、明らかに人間の姿を為していない。
明らかに異様な八条の姿に逃げ出したくとも、先ほどからなにか魔法をかけられているらしく私の体は決して走り出してはくれなかった。
「は、八条…」
私の部屋に来てから八条はずっとおかしかった。
でも、おかしいと気付いた時にはもう逃げようがなくて、薄氷の上を歩いているような気持ちで会話していたけどついになにかで完全にしくじった。たしかに一瞬落ち着いたと思ったのに!
「や、や、やめてよ…何するつもり…?」
本当は薄々わかっている。
私は殺されようとしている。あるいは、それに近しいことをされかけている。たぶんどのみちその結末は死だ。だって、明らかに八条はもう正気を失っている。
今も、なにか私の言葉に応えようとしているのか口を開いてはいるけれど、明らかに人間の声ではない甲高い獣の鳴き声を発している。
「八条、お願いだよ…落ち着いて…ね…?」
震える声で説得を試みるけれど、八条の様子はなにも変わらない。二本足で歩くには不便であろう獣の足でよたよたとこちらに歩みを進めるだけだ。
たぶんもう…私の言葉は届いていない。
だったら、呼べる名前はもう一つしかない。
「ルイゾン!!!」
祈るように叫ぶ。
どうか、どうかお願い。八条が来た時には部屋にはいなかった様子だけど、きっと近くにはいるはず。
「ルイゾン!!!お願い!!!ルイゾン!!!!」
大きく、あまりにも熱い八条の身体がのしかかってくる。
獣のにおいと、ミルクのにおいが混ざった独特のにおいがして吐き気がする。
「やめて、やめて、八条!!!まって…!!」
いきなり「死」が現実によってきて、それを圧倒的な「力」で実感させられて、さきほどまである程度冷静だった脳のどこかが一瞬で焼き尽くされる。
「…あ…あ…た、助けて、ルイゾン、!!!!」
こわいこわいこわいこわいこわい。
まだ死にたくないの。私まだ21歳なの。まだ、生きてたい。やだやだやだやだ…
「ルイゾン!!!!ねぇ、なんでこないの!!!ねぇ!!ねぇ!!」
まっかにさいたはちじょうの口が、
「いやあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ!!!!!!!!!」
いたい、いたい、いたい!!!!
なんでわたしがこんな思いしなきゃいけないの…!!!!いたいよ、いたいって、、!!
「…う゛あ゛…あ゛…」
まま、ぱぱどこにいるの…?なんで来てくれないの…?
ああだめ。そうだ、ぱぱとままはこの世界にはいないから…でも、いたよね…?こっちのせかいにも…ままとぱぱみたいな人。
__ああ、そうだ…
「い、す、と、まぁ…!」
あの、わたしをまもってくれるあの人。
いつでもたすけてくれるっていってたあの人。
「いすとま…だすけでぇ…!いすとまぁ…
ちがう、ちがう、ちがう!!
だれ?いすとまって…
そうじゃない、わたしにいまひつようなのは…
「…るいぞん…ねぇ…」
おねがい、おねがい、おねがい…いたいのはもうイヤなんだ…
いやだ、いや…………
しにたくない……
しにた…い…
「…か…子…いだ…よぉ…」
バケモノに喰われるのとは違う、生きたまま肉体を喰われる際の真の「苦痛」に意識がとびかけていた私の耳に、福音にしては随分と濁った音が届き痛みから解放される。
「…ああ゛…はぁ……はぁ…」
痛みに眩んだ脳に、突然酸素が供給されて頭がくらくらする。
息が苦しい、頭が痛い、腕が痛い…でも、生きてる。体も…動く。
「はぁ…はぁ…」
それらから導き出されるはずの答えを重たい頭を動かして、どうにか探す。
でも、あるはずのその「答え」はなぜか見つからない。
「ルイゾン…」
「ねぇ…」
「なんで…どうしてよ…ルイゾン…」
きてくれるって言ってたのに…。
あの言葉は嘘だったということ?
でも、でも、なぜか八条は…
おそるおそる後ろを振り返ると、ベッドの上に倒れる八条が目に入る。意識は失っているようだが、時折痙攣して床に赤いなにかを吐いている。
「八条…」
なにが起きたのかさっぱりわからないけど、なんだかだんだん恐ろしくなってきておそるおそる八条に声をかける。
私は死にたくなかったけど、八条を殺したかったわけじゃない。
いや、でも私のことを殺そうとしてきてたし、これって正当防衛なのかな?私、悪いことしてないよね?でも、はたからみたらきっと私が殺したようにしか見えない。そうしたら…私ってこの世界でどうなるの?目には目をってことで死刑?ちゃんと法律の授業とっておけばよかった…。
でも、それよりも…
「八条が死んじゃったらどうしよう…」
さっきも言ったように、私は八条を殺したかったわけじゃないし死んでほしいとも思っていない。
私を加害する存在ではあるけど、楽しい思い出もあるし…なにより、「人を殺した」という十字架を私は背負いたくない。背負って生きていけるほど強い人間じゃない。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
急に体が熱くなってきて、血塗れのシャツを脱ぎ捨てる。脱ぎ捨てるけどまだ熱いし、熱いはずなのに震えがとまらない。
すべてがおそろしい。どうしよう。八条を殺しちゃいけない。助けなきゃ。でも、どうすればいいのかわからない。助けたとして、目覚めた八条にまた襲われたらどうしよう。
__そうだ、ルイゾンに電話しよう。
でもさっき来なかったじゃん。
ううんでもそれって、きっと近くにいなかったからだ。遠いところにいたら、声が聞こえるわけないし、すぐに来れるわけもない。
そうだよ、じゃあ、声を届かせる手段をつかおう。
電話帳、電話帳…あった。
L、L、L…Lou…ないない、えっと、Louis…あった。
「い、今すぐ部屋にきて、お願い…」
震える全身と、おかしくなりそうな頭で必死に声を絞り出す。
私が発した言葉が本当に言葉になっていたのか私にすらわからなかったけど、彼は「わかった」といっていたからきっと来てくれる。
* * * *
永遠とも思えるような時間をベッドの上で無為に使っていると、ついにその時は訪れた。
「カヨコ…」
控え目なノックの音。優しい声。
その声に飛びつきたいぐらいの気持ちだったけど、今の私にそんな元気はない。
私はただ、目線だけをそちらに向ける。
「ルイ…
違う。
なんで…
「ルイゼ…」
そこには、深い紫の瞳を見開き身を固くしたルイゼがいた。
「なんで…」
その言葉を、どちらかが発したのかはわからない。もしかしたらどちらもだったのかもしれない。
ただ、その言葉をきっかけに、この部屋の時間は動きだした。
「なんで、なんで、なんで………!!」
そして、時間が動き出すと同時に私は再びベッドの上に張り付けられていた。
もちろん、ルイゼによって。
「ルイゼ…!!!!」
私の上に乗り上げた肉体は思いのほか軽く、私が藻掻くたびに彼の骨があたり痛い。
しかし、男女の力の差を覆すほどの決定的なものではなく、意味があるのかないのかわからない時間稼ぎの時間が延びる程度の差でしかない。
「なんで、なんでなんだよ!!」
上からは春の雨のように水滴がぽたぽたと落ちてくる。
春の雨と違うのは、その水滴が熱いことと、その水滴を穏やかな感情で受け止めることはできない…ということだけだ。
「僕は、お前を、ずっと…ずっと…!!」
まるで、さっきの再放送だ。
様子のおかしい男にベッドで押し倒されて、怖くて、怖くて
「ルイゼ、お願い、やめて…!!」
ルイゼの片腕が首にかかる。
ああ、やっぱり、彼は…
「…どいて!!!!やめて!!!!!…お願い!!!」
ついに両手が私の首に絡みつく。
暴れていたせいで上がっていた息が突然制限される感覚があって、喉からおかしな音が漏れる。
「…はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
苦しいのは私のはずなのに、なぜかルイゼの方が苦しそうな息を吐いていて、こんな状況なのに思わず笑ってしまいそうになる。
笑ってしまいそうなのは、意識が若干とびかけていてもう自分のことさえ他人事になりかけているからかもしれない。
__もう、このまま死んでしまってもいいかもな。
八条の時ほど苦痛に満ちたものでもないし、なんか…ルイゼも気が付いたら私を殺したいほど憎んでたみたいだし。
もう、別に、生きてる意味も…
「あ゛あ゛あ゛!!!」
頭に響く突然の絶叫に、暗くなりかけていた視界にヒビが入る。
同時に首も解放されて、徐々に視界が明るくなっていく。明るくなって、明るくなって…明るくなりすぎなことに気づく。
私の目の前では、紫の炎が燃え上がり、その中心にルイゼがいた。
「る、ルイゼ…!!?」
また、なにかが起きている。私を守るようななにかが。
その確信から、再び大きな期待をもって周囲を見回す。でも、私が期待する答えはやはり見つからない。なぜか、どうしてても見つからない。
いや、そうじゃない。がっかりする前に考えなきゃいけないことがある。だってルイゼが燃えているのだ。このまま放置したらきっと死んでしまう。それに火だ。放置したらそのまま部屋に火が回ってしまう。
でも、どうすればいいんだろう。彼がいないのに、これをどう解決できる?
あ、水?火には水だ。水、水…
キッチンに水をとりにいこうと思ったけれど、歩き出そうとした瞬間にへにょり…と足が崩れてしまって動けない。
立ち上がって崩れて、立ち上がってちょっと歩いて崩れて…と馬鹿な繰り返しをする間にもルイゼは燃えていく。彼はベッドの下でのたうち回っているが、不思議なことになぜかベッドにも床にも火はうつらない
「…」
結局、私がまともに立ち上がれるようになったころには、ルイゼから火は消え、肉の焼けた独特のにおいと焦げくさい臭いのみが残っていた。
ただ、そこにある「ルイゼ」の全身は黒と白ばかりで少し残っている紫の毛でなんとかルイゼと判別できる…といった有様だった。確認する勇気はないけれど、さすがにきっと彼は…………
「もういやだ……」
なんでこんなことになっているのだろう。
かつて友人だった二人に殺されかけて、なぜか二人ともが勝手に死んでいった。
意味がわからない。意味がわからない。二人からどうしてこんなに、殺そうと思われるほど恨まれているのかも、どうして彼らが死にかけているのかも。
抗わずに大人しく私が死んでおけばよかった?たしかにそうかも。だって、私なんかより二人のほうがよっぽど価値がある存在だもん。彼らより私が生きるべき理由なんか一つもない。
それに、行動に移すほどの殺意を二人から抱かれる人間に存在価値なんてあるの?
そこまで死を望まれているなら、死んだ方がよくない?私を愛してくれる人の数より死んでくれと思ってる人の数の方が圧倒的に多いよね?
というかそもそも、私って本当にパパとママに愛されてたのかな?私が、私を愛してくれていると思っていた人は本当に私を愛しているの?義務感で育ててくれただけじゃない?親らしい親を演じようとして、愛しているふりをしてくれていただけだったりしない?
ぜんぶ、ぜんぶわからないよ。ルイゾンも来ないし。電話だってかけたのに。
やっぱり、私……
「死ね、お前は死ぬべきだ」
いつの間にか目の前に、黒い服の男がたっていて私にそう告げる。
いつから部屋にいたのだろう。わからない。でも、この人が恐ろしい存在であることはわかる。
「だ、誰…?」
「とっととやるべきことをやって死ね」
「やるべきこと?やるべきことってなに?」
その人は私の質問を無視して、ナイフを突きつけてくる。後ずさりして、後ずさりして、部屋から追い出される。追い出されてもなお、ナイフを突きつけられ続けてついになにかが腰にあたる。
「かけろ」
いかに私と言えど、自分の居住地のどこになにがあるかぐらいはある程度把握している。
だから、背中にあたっているのがなにかぐらいはわかる。だが、いったいどこの誰に「かけろ」というのか。
「わかっているだろう」
…たしかに、本当は薄々わかっている。
「I、I、Is…Isot…」
また、電話帳から番号を探し出し、電話をかける。
アイツにこの状況で電話をかけるということは、本当の本当に私は死ななきゃいけないということだ。本当に死ぬの私?でも、死ななきゃいけない。この人もそう言っている。それに私だってもう…こんな状況になってまで生きてたくない。生きてはいられない。
私が死ぬということは、せめて私はアイツを殺さなきゃいけない。きっと「やるべきこと」とはこれのことだ。
「…寝室に呼び出せ」
「私の部屋に、私の寝室にきてください……まってます」
思ったより冷静な声が出て自分でも驚く。
了承の旨を聞いた後、通話を終えるとなんだかスッキリした気分で高笑いでもしたくなる。
「寝室に戻れ」
でも、その言葉のせいですぐに憂鬱で暗い気持ちが私を覆う。
「…い、いやです。私…いやだ…」
「自分がやったことから目をそらすな」
「…」
今度はナイフを突きつけられない。でも、その言葉からは逃げられなくて寝室に嫌々戻る。気が付くとその人はいなくなっていて、ナイフだけが床に残っていた。
黒い人が残したナイフを拾い、今度は寝室の扉の横で蹲ってその人を待つ。
倒れる二人をなるべく視界にいれないようにしながら、ナイフを抱える。でも、そんなことしたって耐えられなくて、視界はぼやけて涙がこぼれていく。
だって、だって、八条とは最近でこそおかしな関係になっちゃったけど、前までは故郷の不思議な共通点をみつけたり、森の中で遊んでみたりして…すごく楽しかったのだ。ルイゼとだって、ずっとずっと一緒に授業を受けてきたし、授業以外の時間もいっぱい……きっとこの大学の誰よりも一緒に時間を過ごしてきた。ハンドクリームをもらったり、一緒にお茶を飲んだり、勉強を教えて貰ったり…ムカつくこともあるけど、ルイゼと一緒にいるあの時間は嫌いじゃなかった。むしろ好きだった。
そんな二人が、今、どういう理論かはわからないけど、たぶん私のせいで、物言わぬ物体になってこの部屋に転がっている。
そんなの…そんなの…
「こんにちは」
コンコン、というノックの音の後に響いた玲瓏なその声は私の脳を覚醒させるのに最適だった。
立ち上がり、おそらくここに首がくる…という位置にあたりをつけて、「どうぞ」という声とともにナイフを構える。
「失礼し、ま…………
その人が、言葉をいいきる前にナイフを前につきだし標的に突き刺す。
無我夢中で、もう、なんの戸惑いもなかった。なんというか、「やらないといけない」っていう気持ちにひたすらに突き動かされていた。やらないと死ねないし、やったから死なないといけなかった。
「…すみません」
別に謝る必要はないけれど、一応謝っておく。癖みたいなものだ。
無事うまい具合に首に刺さったことを確認してから、首からナイフを抜き取る。
「あ…」
その人は、いつも鋭い緑の目を丸くして、床に倒れて行って…血が、血が、血が…
私、人を、殺そうとしてる。ううん、殺そうとした。たぶん、これから死ぬ。
なにやってんの?私。悪にまみれた人間の血も、それが殺人の罪を洗い流す禊の水になるわけじゃない。血は血で、罪は罪。いくら、相手が最悪な人間だからって、殺していいわけがない!!!
「あ、あ、あ、私、私、やだ…なんで…助けて、助けて!ルイゾン!ルイゾン!どうして、どうして、まだ来てくれないの!?」
今度こそ、今度こそ、私が、望んで、自ら人を殺してしまった!
どうすればいいの?私、私、たぶんきっと今はコイツよりも悪い人間だ!だって、コイツはきっと人を殺したことはまだない。でも、私は、殺そうとしてる。ただの人殺し。
「ルイゾン…!!!ルイゾン!!!お願い…はやくきてよ!!!」
お願い、お願い。真偽はどうでもいい。
適当でいいから、私は悪くないと一言告げてくれ。誰でもいい、私のこの殺人を承認してくれ。死にゆく人間への最後の哀れみでもいいから。
「悪いよ、カヨコ。君がしたことは<殺人>。立派な犯罪だ」
…ルイゾンの、声がする。
姿は見えないのに。声が聞こえる。たしかに傍にいる。背中に狼の毛並みの気配がする。
「俺は君に言われたから八条のこともルイゼのことも殺した」
「そしてついに君は、自分の手でイソトマのことを殺した」
「これが罪じゃなかったらなんなんだ」
「君は死ななくちゃいけない」
「自分で決めたことぐらい守れ」
声はそれだけ告げると、気配とともにどこかへ消えてしまった。
行ってしまった。ついに、最後まで傍にいてくれた人まで私から離れてどこかに行ってしまった。
ごめんなさい。自分で決めたことなのに守れなくて、忘れちゃって、本当にごめんなさい。だめな私でごめんなさい。すぐにやります。罪は償います。光り輝く未来があるルイゾンの手を、私なんかよりも何倍も価値のあるルイゾンの手を、私なんかのために汚させてしまって本当にごめんなさい。
すぐにちゃんとやるから、お願いだから、最期だけは、もどってきて…そばにいて…
「あ゛あ゛…」
痛い、いたい、いたい…でも、これで、もどってきてくれる…?
あたりをさがすけれど、姿も、気配も、声も…どこにもみあたらない。わたしはこの部屋で、ひとりさびしく…しんでいくの?
だれか、だれか…
「あ…」
その時、枯れかけながらもたしかにまだ生の光を宿す静かな森の色をした目と目が合った。
そして「そうだ一人じゃない」という安堵…よりも先に覚えのない記憶が脳内を駆け巡る。
__「イストマ」。
私は、この人のことをたしかそう呼んでいた。
この人は、私の世界だった。私の庇護者だった。彼は、私の本来の第一発見者だった。
私は、この人を愛していた。私はなぜこの人のことを忘れていたのだろう。私は、私は…なんてことをしてしまったんだろう。
「うう…」
声にならない嗚咽が喉の隙間からもれて、感情がぐちゃぐちゃに混ざった涙が瞳から落ちていく。
イストマ…どうして、なんで、なんで私たちこんなことに。
私、本当になんで…どうして…どうして、あの箱庭から追放されちゃったんだろう。あの時、たしかに私たちは幸せだったはずなのに。
「(ペ、チュ、ニ、ア)」
目の前のその人の口がたしかにそう動く。
思い出してくれたのだ。ぜんぶの記憶かはわからない。でも、その人の瞳にはあの日の穏やかな愛情が蘇っていた。うれしい、うれしい、かなしい。
ああ、瞼が重い。でも、最後にこれだけは伝えないといけない。
「(ご、め、ん)」
本当に、ごめんなさい。
なんで、どうしてこうなってしまったのか…頭の悪い私にはさっぱりわからない。でも、本当に、ごめんなさい。
* * * *
「…なんで」
ついに尽きたと思った命だと思ったけれど、なぜか生きていた。
波打つ血の海の中で私は一人目が覚めてしまった。
その血の海にはなぜかさっきまではいなかったはずのバケモノ__エルちゃんもいて、意味がわからない。今日だけでなんど死にかけ、なんど息を吹き返すのだろう。
「ああああああああ!!!」
可愛らしくもなんともない絶叫のような私の鳴き声が部屋に響き渡る。
こんな状況で目を覚まして、私にどうしろってんだ。もう無理だ。本当に無理なんだ。
帰りたい!帰らせて!!!森に!!!違う!!そうじゃないの!森だけど、森じゃなくて、森の…裏で、表で、後ろで、上で、下で…
私はどうしようもない衝動のまま、言葉にならない感情の濁流を発しながら外に飛び出した。
ずっと地面は波打っているし、空は虹色だし、身体があつくて、身体が震えてなんども力が抜けて地面に崩れ落ちて、どんどん身体がドロドロのボロボロになっていく。でも、そんなのことは一切気にせず身体を動かし続ける。
ついに身体がまともに動かなくなって、ああ、だめだ…まだ、まだついてないのに…
「カヨコ…!!!!」
誰かに名前を呼ばれて、背中を支えられる。
力強い腕、優しい声…
「シ、ェバさん…?」
「ああ!そうだ、私だ!」
そっかシェバさんか…。
嬉しいな、最期がシェバさんの腕の中だなんて。まだ、まだあそこにはたどり着けていないけれど、最期がシェバさんの腕の中だったらそれはそれで幸せかもしれない。
でも、でも…ここで死んだらシェバさんにまたきっと迷惑かけちゃう。ほんとうに、シェバさんにはきらわれたく、ない…から、ちゃんとあやまらなくちゃ。
ああ、こんどは…しぇばさんのとなりにたっても恥ずかしくない、どんなひとからも愛される、どんなくるしみもわらって乗り越えられる…物語のお姫様みたいな人になりたい…な。
きっとこの世界だったら…そういう転生先もあるだろうし、ははは…この世界でしんでせいかい?だったりして…はは…ははは、
…ちがう、ちがう、ちがう!!!!そんなの私の本当の望みじゃない!!私の本当の願いは一つだけ!!!
私は元の世界に帰りたい!!帰して!!!!返して!!!!!私の、日常を!!!!
こんなふざけた世界で起きたことは全部なかったことにして、私の時間、私の自尊心、私の生きたいと思う心、私が奪ってしまったもの…全部返せ!!
誰との出会いもいらない、誰との愛情もいらない、誰との記憶もいらない。せんぶ返すから!!だから、全部、全部、全部返せ!かえしてよ!!!
かえして…かえして…おねがい、おねがい、おねがい、おねがい…
最後までありがとうございました。
評価、ブックマーク、リアクション、誤字報告本当にありがとうございます!