19
「どうしていつも君はそうなんだ」
シェバさんの呆れた目が突き刺さる。
なにをしたかは忘れてしまったけど、また私が迷惑をかけたことだけはわかる。
迷惑をかけたことも、なにをしたかさえ忘れてしまったこともとても申し訳なくて、シェバさんの突き放すような目が怖くて不安でひたすらに謝る。だけど、シェバさんの目には失望が広がっていくばかりで、もうもとには戻らない。
やがて、シェバさんは「もういい」とため息をつくと長い長い銀色の髪を翻しどこかに立ち去ってしまった。
「ごめんね、もうここにいてもらうことはできないんです…」
今度は気が付いたら、あの文房具屋の店長がいた。少し離れた物陰には一緒に働いていたみんながいて、こちらの様子を息を潜めて見守っているのがわかる。
恐縮しながら、でも確固たる意志をもってその人はその言葉を紡ぐ。「ごめんなさい」と言っても「すみません」と返ってきて、なんだか自分がすごく悪いことをしているような気分になる。違う、そうじゃないんだ。私は、私のダメ人間さをただただ謝罪したいのであって、こんな風に謝ってもらいたいんじゃない。
終わりのない謝罪合戦をしばらく続けていると、思いつめた顔をした店長に「ごめんなさい」という言葉とともにそっと肩をおされた。大した力ではなかったはずなのに身体がゆっくりと後ろに倒れて行き、床の上に後頭部を強打する…ことはなくそのまま背中からどこかに落ちていく。昔からこの落ちる時の独特な感覚は苦手だ。
「…裏切者。あなたがあんなことさえしなければ、僕はまだ人間でいられたのに」
落ちて落ちて次はばしゃんとどこかの水の中に落ち、酸素を求めて足掻いているとそんな言葉と共に水上に引き上げられる。陸まで引き上げられる頃には、息も若干落ち着いてきて「ごめんね」と謝罪の言葉をなんとか絞り出す。
そして、潮水に邪魔されながら薄目を開けると、エルちゃんはいつのまにか巨大な姿になって私を見下ろしていた。まるで怪獣のようなサイズになったエルちゃんは、「そんな風に謝るのなら最初からしなければいいのに」と蔑んだ目で呟き私を鋭い爪が生えた異形の手で摘まみ上げると、私を鋭い牙の生えそろったその真っ赤な口に放り込んだ。
周囲が完全に真っ暗になって噛み砕かれるかと身構えたが、痛みは特になく再びどこかに落ちていく。向かう先は胃液だろうか?
「本当に汚らわしい人間。そんなんだから捨てられるんですよ」
髪の毛を引っ張り上げられる鋭い痛みと身体ががくんとなる感覚。それと同時に浮遊感も消える。
私の落下は止まり、私の全体重は髪の毛とそれを引っ張り上げる腕に託されていた。ぶちぶちと髪の毛の千切れる音が死へのカウントダウンのようでとてもおそろしい。あまりにも恐ろしいからなのか、私をいつも苦痛で支配しようとする悪魔のようなその人に私は思わず「ごめんなさい、いい子にしているから捨てないで…」と縋るように手を伸ばしてしまう。
それに対し、森の静寂の瞳はなぜか優しくゆるんだのちに「おやすみなさい、ペチ**ア」とその手を離した。そしてそれと同時に身体がどこかに落ちていく。
「なんでかよ子はわたしのことをだいじにしてくれないの?かよ子にとってわたしはほんとうに友だち?それとも…ずっとつごうよく使ってただけだけ?」
柔らかい腕がハグするときのように私の首にまきつき、背中に小柄な熱が重なるのを感じる。
その腕に触れ「友達だよ。まえは本当に…ごめんね」と目を閉じるけど、鈴のような笑い声と「ウソつきのかよ子なんてダイキライ!」と言葉が返ってくる。そして、その言葉をきっかけにするように徐々に八条の身体が硬く冷たい「人間の身体」以外のものに変化していく。
首に巻かれたそれはまるで、犬かなにかの首輪のようだ。ただもちろん、首輪が増えようがなんだろうが落下はとまらない。
「…」
しかし、その首輪はどうやらご丁寧にもリードつきだったようで、それがなにかにひっかかったらしい。落下はとまり、代わりに私の首はその首輪に締め上げられていた。
どうにか息を吸おうと暴れる私を、目の前の紫髪のその人は汚物をみるような目で眺めるだけ。前まではずっと助けてくれたのに。
私も、本当は助けを求めた方がいいことぐらいわかっているのに、彼が「助けて」と言えば断れない人なのはわかっているのに、今更そんなことできなくて…なにも言えない。
…そうだ、私は彼にほぼ「助けて」ともなにも言ったことがなかった。ずっと助けられ待ちだった。「迷惑をかけたくないから」なんて言うのは本音ひとさじほぼ建前で、「嫌われたくないから」というのは本音と建前の中間。
本当は…自分の現状を素直に曝け出して「助けて」ということが、自分がみんなより一段と劣った存在であることを認めることになるようで、恥ずかしくて、惨めで…言えなかっただけだ…。
なにも言わなくてもルイゼもシェバさんも助けてくれたから、私はその優しさにずっと甘えていた。私が惨めにならないように、ちっぽけなプライドを守るために「<求めてはいない>けど厚意で助けてくれている」状態を保っていた。
でも、だって、だって、私が劣った存在だなんてわかってるけど、それでもイヤじゃん。直視したくないじゃん。「いじめられてる」なんて恥ずかしいし辛いじゃん。別に私以外のいじめられてる人のことを恥ずかしい存在だなんて思ったことないし、他人事だったら「虐めてるやつが絶対に悪いしそっちの方が恥ずかしい」って言いきれるけど、「私のこと」になると無理だ。ムリにきまってる。明らかに恥ずかしい。それ以外の点でもすべてにおいて劣等生なのに、さらにいじめられてるなんて…。
それにさ、いじめられてることが薄々バレていたとしても、「助けて」だとかダサいじゃん。一番いいのはどうにか自分で解決することだけど、そんなのムリだし。だったらせめて、毅然と立っているふりだけでもしたいじゃん。「こんないじめ効いてないし気にしてません」って。
…わかってる、わかってるよ。
いくら言い訳したって、これが助けてくれる側に「どう見えるか」は明らかだ。私は彼らからすれば「散々助けてやってる」のに「別に助けてもらわなくても大丈夫だけど」みたいな顔で好意を搾取してくる人間だ。お礼を丁寧にしてるとか、そういうのは関係ない。
__私は本当になにをやっていたんだろう。
気が付いたら、紫色の彼は目の前から消えていた。最後まで一言も言葉を発さないまま、静かに消えていった。
私もなんだか足掻く気力もなくなって黙ってリードにつるされ揺れていた。死ぬほど苦しかったけど、このままでもどうやら死ぬことはなさそうだったし、もうずっとこれでもいいかもしれないと思い始めていた。
「おい、さっさと出てけ」
しばらく揺れていると、成金趣味の白髪交じりの男がやってきてそのリードをパチンとハサミで切り落とした。
私が地面にへたりこんで呆然とルエさんの顔を見上げていると、ルエさんは鼻を「ふん」と一つ鳴らしそのままどこかへ立ち去ってしまった。
私は、苦痛からは解放されたものの…今度はまた別の意味で宙ぶらりんになってしまった。
真っ黒な世界の中で私だけ独りぼっち。
縛られてもいなくて、自由だし、もう苦しくもないけど…どうすればいいんだろう。どうせいつか誰か来るだろうから待てばいい?
…………………………
………………
………
…来ない。誰も来ない。なにも起きない。
もう、だいぶ長い時間がたった気がするけど…なにもない。
不安ばかりがどんどん大きくなってくる。
…………………………
………………
………
「…誰か、誰かいませんか!!!!!」
暗闇の中で叫んでみる。でも、なんの声も返ってこない。
「ママ!!!!!!パパ!!!!!おばあちゃん!!!!!」
…なにも、返ってこない。
虚しく私の声が響くだけ。しばらく色々叫んでみたけど、なにも返ってこない。
やがて叫ぶのにも疲れて、その場に寝っ転がる。
なんだかもうどうにもならない気がして、思考停止してボーっと宙を眺めてみる。
眺めてみる。
眺めてみる。
眺めてみる。
眺めてみる。
眺めて…
「意味が上°わ峨↑縺??ょ勧縺て※繧!!!!!!」
……獣の唸り声のような絶叫が聞こえてきて、そのまま目を開くと日の光に満ちた明るい天井が目に入ってきて思わず息が止まる。
「…夢か」
一瞬なにがなんだかわからなかったものの、布団と窓からのいつも通りの太陽光でなんとなく状況を把握する。
おそらく、さっきまでのはぜんぶ夢だったのだ。たしかに、よく考えてみるとリアリティのないことの連続だった。夢の世界で叫んだ拍子にこっちの世界でも叫んでその声で目を覚ましたのだろう。
夢の中で暴れていたのを反映するように、現実世界の布団も相当乱れているし、服が汗でびしゃびしゃで気持ち悪い。
「いたっ…」
ベッドのヘッドボードに腕を軽くぶつけただけのはずなのに、予想以上の痛みで返ってきて驚く。そこをみると、皮膚が青黒い色になっていて…どうやら痣ができているようだ。というより、よく意識してみると寝る前よりも痛む部位がまたかなり増えている。
「…だる…」
…最近ずっとそうだ。寝る度に傷を増やしている。いやな夢は前からよくみていたけど、最近どんどん悪化しているし、夢の中での私の動きが寝ている現実の「私」の動きにも反映されてしまう。
「……」
身体も痛いし、だるいし、今日は動きたくない。
バケモノとの約束があるのに。バケモノに私という餌をあげて、金を貰わないといけないのに。
時計をみてみるとまだ約束の時間まではいくらか時間があったから、枕の周辺に適当に手を這わせ目当てのものを探す。やがて、ざらざらとした独特な手触りの紙束が手に触れたので、それを顔近くに引っ張り寄せる。
…ワーク及び、極東にある国々に関する書籍だ。
情報が必要だと思い図書館で借りてきたが、あまりにも情報が少なくすべてが曖昧で、徐々に読む気をなくしていた。
ただ、寝たくもないけれど、身体を起こすこともしたくないこのタイミングにはちょうどいいものだった。いちおう移住を検討している国々を調べることは、「やるべきこと」のうちの一つではあるし、こうやって時間を使っても罪悪感がまだ少ない。
見慣れた表紙は特に見ることもなく、適当なページをそのまま開く。
「…」
__最悪だ。
ページに並ぶのは意味のわからない文字の連続。たしかに昨日まで読めたはずのものが読めなくなっている。
「…なんでよ…」
なんで今日なんだろう。今日はこれまでで類をみないぐらいに身体が重くて憂鬱で仕方ないのに、よりにもよってだ。
八条のところに行って、バケモノのところに行って…帰ってこれるのはいつになるだろう。
「…やるしかない。キツいだろうけど」
いつのまにかベッドの横にいたルイゾンが私に声をかける。
「…いつまでこんなことの連続なんだろう、私」
「こんな大学を出て、ワークに行けばこんな毎日とはきっとおさらばだ」
「本当かな…」
「ああ。俺を信じて」
ルイゾンの手が私の手に重なる。大きくて温かくて…綺麗な手。隅々まで手入れされていることがわかるスベスベの肌。女性的とさえ感じる細く滑らかな指が私の手の上をすべるのが心地いい。
「そもそも、ルイゾンは私についてきてくれるの…?」
「もちろん。君以上に優先すべきことはないから」
「本当に…?大学、卒業できなくなっちゃうよ…」
「大した問題じゃない」
初めて会った時に「卒業しなきゃ」と言っていたはずの彼にこんなことを言わせて喜んでいるなんて…最悪の女だ。
本当は「私は大丈夫だから、あなたは卒業して」なんて言うべきなんだろうけど、そんなこと今の私にはとてもとても言えない。ルイゾンがいなければ私は心が砕けてしまう。
「…そろそろ準備しないと」
バケモノとの約束の時間を考えると、さっさと出かける準備をして八条のところに行かないとまずい。
別にバケモノとなんか会話できなくても構わないけど、これで言葉がわからないのをいいことに下手な要求をのまされたりしたら最悪だ。
「ああ、頑張って」
部屋の隅にいたはずの蟲たちがベッドに這い上がって来ようとするのをみて、ようやく私は地面に両足をつけることを決断した。