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ここのところ、常に、現実感がない。
現実を生きているはずなのに、自分の目線で世界を視ているはずなのに、どこか世界が浮ついていて他人事だ。
その感覚はこの世界に来た頃からあった。だが、徐々に自分の状況を受け入れてきたっていうのと…痛みと苦痛のたびに現実を突きつけられてきた。今は苦しみを与えられるたびに…自分が「自分」から離れていく感覚がある。痛いは痛いんだけど、前みたいにどうこうしようとはあんまり思わない。この…自分から自分が離れていく感覚は喰われた後に特に起こる。
わからない。これは、恋人というものができて浮ついているからこうなっているの?
嬉しすぎて舞い上がった結果、頭も舞い上がって全てを許容できるようになった?それだったらいいけど…本当にそうなのだろうか。
そんなことを考えながら食器を下げていると、身体がふらついて思わず埃が積もった椅子に手をついてしまう。私が部屋で食事する時いつも座る席の真向かいの席__ルイゾンがいつも座っている椅子だった。
「いてっ…」
椅子についた手になにかが刺さるような感覚があって思わず声を上げるが、その音は空っぽの部屋に響くだけで…なんだかちょっと虚しい。ルイゾンがいれば反応してくれただろうが、彼はもう学校に行ってしまった。
気を取り直して、私の手を傷つけた犯人を捜すために椅子の上に目をやると、その犯人はすぐに見つかった。
「あ…」
以前バケモノがまだエルちゃんだった頃におすすめしてくれた本だった。
昔から本を読むのは好きだったから、こっちに来てからも時間をみつけてちょこちょこ読んでいた。気が付いたら自分が物語の世界の登場人物みたいな境遇に立たされてしまっていたけど、それでも…物語を読むのは好きだった。この世界の常識を知るのにもちょうどよかったし。
だけど__そういえば最近は読むのを辞めてしまっていた。
この本はミステリー小説で、仲間の魔法使いがかけた魔法の魔力にあてられたらしき体力・魔力・推理力共に低めヒロインポジの女の子が錯乱して、部屋の壁をナイフで切りつけはじめたところまで読んだ。
ミステリーなのに「魔法」ってあり?
読者側が知らない実在するのかよくわからない魔法だとかで、トリックだとか謎解きを「どうにかしました」「こうなりました」ってされたらミステリーとしてなんにも面白くなくない?
って感じだったし、そもそも異世界人の私にとってはヒロインポジの女の子がおかしくなった理由も、以前エルちゃんに教えてもらった知識がなかったらなにもわからなくて、「なんじゃそりゃ…?」だったと思う。
それでもまぁまぁ面白くて続きが気になっていたから、エルちゃんがああなってからも少しずつ読み進めていたのだ。でも、この1,2週間ぐらいなんだかなんの気力も出なくて放置してしまっていた。
本の無駄に豪華な裏表紙の上には、私の無気力と怠惰を象徴するかのように埃が降り積もっている。
白と灰の混ざったそれはまるで道端にひっそりと佇む薄汚い雪のようだが、雪とは違って私の身体を冷やすはずはない。
__だが、私の身体はいつの間にか震えていた。
まただ。また。いつもの。
だから、いつものように私も手をぎゅっと握りしめて少し動かす。するとやがて震えはおさまっていく。
いったいこれはなんなんだろう。意味がわからなくて少し怖い。でも、他にもっと怖いものがいっぱいあるから、これは後回しにするしかない。この世界があまりにも恐ろしいから勝手に身体が震えるのだろうか。
なんであれ、気持ち悪いだろうから人にはなるべくバレないようにしているけど、ルイゾンにはバレていると思う。彼は私をよく見ているから。気づいていても触れないでいてくれるのは助かる。
…本当に、ルイゾンには感謝している。
彼のおかげで部屋の中で「目」によって監視されることも減ったし、それでルイゼを度々部屋に呼びつけて迷惑をかけるようなこともなくなった。大学でも街でもひそひそと悪口ばかり聞こえてくるけど、まだ私にも「ルイゾン」という味方がいるんだと思えば心強い。最近、またイソトマの嫌がらせなのか部屋によくネズミだとか虫が侵入してくるようになったけれど、それもルイゾンが対処してくれるから助かる。
__私は、ルイゾンさえいれば生きられる。
脳内に響く「本当に?」の言葉を無視して立ち上がり、食器を片付ける。
ついでに本もどこかに片付けてしまおうと、改めて本を持ち上げ表紙を見て気づく。
「…読めない」
読めないということは…そういうことだ。
少しだけ日にちが空いたから、警戒するのを忘れていた。頭が浮ついているせいもあるかもしれない。
今日は幸い授業は二限からしかないけど、急がないと…八条のご機嫌がなかなか治らなかったらその授業にも間に合わないかもしれない。
もう全部どうでもいいし授業もサボっちゃおうかな…なんて思いもちらつくけど、これで変にケチをつけられて学校から追い出されたら終わりだと頭をふってその思考を飛ばす
私は食器も洗わないまま、慌ただしく荷物をまとめ部屋から飛び出した。
* * * *
「おつかれさま」
一瞬ルイゾンのその言葉を理解できないくらいには、脳が疲弊していた。
朝の八条もすごく大変だったしイヤだった。だけどどちらかといえばそれじゃない。私が気になっているのは…頭が混乱しているのは…ルイゼの方だった。
「あ、あのね、実はね…恋人ができたの。だから、部屋の確認はもう大丈夫。いままで迷惑かけてごめんね…」
なんだか気恥ずかしかったけど、もう迷惑はかけないってことを伝えたくてそう伝えた。
ほっとした顔だとか、適当な祝福な言葉が返って来るもんだとばかり思っていた。
でも…
「…ああ、そう」
__この顔は、なんだ?
ルイゼは、私が見たことがない顔をしていた。
驚くぐらい「無」の顔の中で、青紫の目だけがいつもよりも深みを増してじっとりと光を放っていた。
「…ね、ねぇ、」
「じゃあ」
ルイゼはそう言い残すと、わざわざ広げていたノートだとか教科書を閉じて席を移動していった。
いつもであれば、ため息と文句を吐きながらもなんやかんやと私の隣で授業を受けているのに。「わざわざ」移動していった。
その次の授業でも、ルイゼは私の隣にはいなかった。そしてもちろん、その次の授業でも。
「ルイゼ…わ、私、なにかよくないことしたかな?」
「してないよ」
「本当?本当に?じゃ、じゃあなんで一緒に授業を…」
「たまたまそういう気分じゃなかっただけ」
本当に?本当にそうだろうか?
その言葉がとてもとても信じられなくて、思わず「本当に?」とリビングのいつもの椅子に腰かけるルイゼの前に詰めよってしまう。こんな風にしたって、彼が本心を話すことがないであろうことはわかっているのに。
「…そんなに本心を知りたいわけ?」
「知りたい」
「じゃあ、教えてあげる。もともとお前のことがうざったくて嫌いだったけど、色ボケしたお前の顔見てたら気持ち悪すぎて見てられなくなっただけ。できれば二度と話しかけないで欲しい」
「…ごめん」
「そうやって適当にごめんごめん言ってりゃなんとかなると思ってるんでしょ。反吐が出る」
「ごめんなさい…」
こう言われて、謝る以外私になにができるんだろう。
私が「ごめん」を重ねる度に私の謝罪の価値が下がっていくことはわかっても、もうどうすればいいのかわからなくて「ごめん」を積み上げることしかできない。
その日から、当然のようにルイゼは私と授業を受けなくなった。
そして、しばらくして定期テストがあっていつも通り悪い点数を…ルイゼの協力もないからいつもよりもっと悪い点数をとって、そのまま長期休みが始まった。