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エル…いや、もう名前も呼びたくないソレの捕食行為が終わった後、私はどう館に帰ったのか全く記憶にない。
気が付いたら、浴室でシャワーの水を頭から浴びていた。少しハンドルを捻れば温かいお湯が出るはずなのに、冷たい水をそのまま浴びていた。
冷たい水は肌の感覚を鈍らせてくれるはずなのに、冷たい水の下でたしかに感触が__全身を我が物顔で蠢く生温い温度の舌、肉を抉る牙、肌の上を滑り落ちていく血__そのすべてのキモチワルくてキモチイイおぞましい感触が未だに身体の上を這っている気がした。
「やだ、ヤダヤダヤダヤダヤダヤダ…」
タオルで肌がすりむけるぐらい何度もこすったけど、どうにもその感触だけは流れ去ってくれない。
「助けて」と今すぐ叫んで全てを誰かにどうにかしてもらいたいけど、今の私の周りにはそんな人はいない。パパとママは異世界に置いてきてしまったし、ヒーローは不出来な私に愛想を尽かして白馬で走り去っていってしまった。誰も私を守ってくれない。抱きしめてくれない。
「ママ、パパ…」
会いたい。会いたいよ。
例え二人がこの世界にいたとしても、「話すな」と脅されている以上臆病者の私は相談なんかできないかもしれない。でも、それでもいいんだ。ただ、私のこの恐怖と苦痛に寄り添って抱きしめてくれるだけでいい。そうすれば私はきっとちょっとだけ救われる。
ワガママを言うならばママかパパがいいけれど、この際誰でもいい。今の私のすべてを受け止めて、抱きしめてくれるなら。誰か__
___誰か、みてる。
その時、私は気づいてしまった。
誰かが私を「みてる」ことに。誰だかはわからないけれどずっと私を見てる。
たぶんなにか魔法かなにかを使っている。そしておそらく、相手はあえて私に「見られている」ことをわかるようにしている。そういう嫌がらせなんだと思う。
気づかない間に身体がガタガタと震え始めていて、手をぎゅっと握りしめてそれをおさえこむ。
あまりにもおそろしい。唯一、自分の部屋だけはちょっとは落ち着けると思っていたのに。そんな場所さえ奪われて私はどこに行けばいいんだろう。逃げ場所なんてもうどこにもないのに。
* * * *
「…どこにもなにもない」
ルイゼは布団の上に乗って、ベッドと壁の間にできた隙間を端から端までじっくり眺めると、ため息まじりにその言葉を吐く。
「お前はずっといったい何に怯えてるんだ?」
最初は私の部屋で私を無遠慮に見るそれを無視することでやり過ごそうとしていた私だったけど、ついに耐えきれなくなってルイゼを部屋に呼ぶようになった。
でも、どうやらそのそれはルイゼが部屋に来ている間はどこかに逸らされている?伏せられている?ようで、ルイゼにはなにも異常は見つけてもらえない。だからルイゼに来てもらうのもなんの意味もないかもなと思いつつも、ルイゼがここにいる間は見られている気配がなくなるから…ちょっとだけマシなのだ。
「…本当に、見られてると思うんだけどな」
「でも、そういうことができる魔道具も使い魔もなにもここからは見つからない」
「魔法は?」
「…僕がわかる範囲ではなにもないと思うけど」
だからたぶん、ルイゼにはわからない範囲で魔法でなにかされているんだと思う。
以前、あのバケモノが「実はルイゼはあんまり魔法が得意じゃない」「魔法に関してはルイゼより上がたくさんいる」と言っていた。それってつまり、ルイゼのわかる範囲は少ないってことじゃないかと思うんだけど…どうなんだろう。そう考えるとあのバケモノを部屋に入れたほうが…いや、あり得ない。
「…じゃあ、僕はこれぐらいで__
そう言ってルイゼは、ベッドから降りていつも通りそそくさと帰る準備を始めようとする。
なので私もいつも通り声をかける「お茶でものまない?」と。
「…またかよ。今日も僕に不味い茶を飲ませる気?」
顔も声も不機嫌そうだけれど、完全に帰りの準備の手は止まっている。というより、なんでも手早くすませるルイゼがまだ準備を終えずにここにいる時点で、私が声をかける前提で動いていた節があると思う。
「だ、だめかな?」
「別に」
そういいつつ、ルイゼは荷物をさっとまとめてリビングへと移動していく。
…これはちょっと自惚れも入っているかもしれないけど、ああいいつつルイゼは結構私のお茶が好きなんだと思う。まえ、「母上のいれる茶に少し似ている」って言ってたから。ルイゼは異常なマザコンだから、これは結構な誉め言葉…なんじゃないかと思う。
ルイゼを追う途中でキッチンに立ち寄り、なけなしのお金で買った不味いお茶請けを棚から出す。購買のクッキーはまずいけど、これぐらいしか買うお金がないのだ。
というより、これもかなりギリギリなのだ。だって最近はバイトもできていない。あの文具屋さんを辞めてからも、無能すぎて超短期での離職をくりかえしていたけど、最近はついになにもできなくなった。雇ってくれる店がもうないっていうのもあるけど__街中で、私の悪口を聞くようになったから。
一緒に働いている人が言うならまだしも、お客さんやら特に関わったことのない人まで…私の悪口を言っている。これも推測だけど、学校の人たちがなにやら吹聴してるんだと思う。
そんなこんなでバイトはまともにできなくなっちゃったから…最近の収入源はルエさんから渡されるあまりにも少ない支援金と、バケモノからの御食事代だけだ。…認めたくないけれど、御食事代がなければこのクッキーも買えないどころか飢え死んでいたと思う。
クッキーをお皿の上に並べ、安い茶葉をポットに放り込み、なぜかすでに鍋でグツグツと音を立てて湧かされていたお湯をポットに流し込む。
それらとカップをお盆にのせて応接間に入ると、そこではルイゼがいつも通り綺麗な姿勢&どや顔で椅子に座って待っていた。
「またそのまずいクッキーか…」
「ごめんね…」
とはいいつつ、ルイゼはクッキーを綺麗に手入れされた細い指で摘まむ。
…まえ、本人にも直接言ったけど。やっぱりルイゼの手はすごくすごく綺麗だ。私のクリームパンみたいな手とは形から違うし、お手入れ面でも全然違う。私の手は昔から酷い乾燥だったけど、こっちに来てから水仕事を自分でやるようになったからもっと酷くなった。最近は…暴力を振るわれる時に身体を庇おうとしたりして、傷が増えたりもしてるし。たぶん、八条の魔法と、ルイゼがくれたハンドクリームがなければもっと酷いことになっていたと思う。…そういえばネイル、すっかり剝げちゃったな。八条のところにも全然いけてないから…行きたい。
「…あ、あれ?ルイゼ?」
気が付くと前に座っていたはずのルイゼがいない。
驚いてきょろきょろとすると、ルイゼは窓の前に立っていた。ガサゴソと…どうやら窓を開けているらしい。
「なにやって、…わ!!」
ぺちんとなにかを顔に投げつけられる。
痛くはないけど、結構驚いた。
「…暑そうなのに震えてるってなんだよ」
何を言われているのかよくわからなくてポカンとしてしまう。その間に、顔になげられたなにかはひらりと机に落ちていく。
そしたら、ルイゼがカツカツと近寄ってきて、それを拾ってまるで汚れでも落とすかのようにゴシゴシと私の顔を拭う。
「もうソレいらないからやるよ」
それを手におしつけられて気づく。どうやらそれはハンカチで、ルイゼは私の汗を拭ってくれたらしい。よかった雑巾を顔に押し付けられたわけじゃなかった。
「…え、でも、洗って…」
「いや、お前の汗拭ったハンカチとか洗ってもいらない」
「それは…うん…」
「お礼はこのクソまずいクッキーで特別に許してやるよ」
「…ありがとう」
たしかに私も他人の汗をぬぐったハンカチとか二度といらないな、と思ったので大人しくこのハンカチは貰うことにして遠慮なく顔を拭う。
…最近、汗が酷い気がする。別に暑い時期でもないのに汗が出る。もともと汗はむしろ出にくい体質だったのに。もしかしたら、こっちの世界に来てよく動くようになったから、代謝がよくなったのかな…?それだったらいいんだけど。
「…お前、元の世界ではさ、」
「うん」
「__やっぱいいや」
たっぷり間をおいた後、結局ルイゼはそんな風に言葉を濁した。
そういえば、ルイゼが前の世界のことを聞こうとするのは結構珍しい気がするけど…結局なにもきかれなかったな。
その後は、学校の話とか、次の試験の話とか、最近食べたものの話とかくだらない話をした。一時間ぐらいお茶をした後、ルイゼはそろそろ門限だからと立ち上がった。
「じゃあ、また」
「…またね」
彼がこちらに背を向けた瞬間、また「見られている」ことを感じる。
もう少しいて欲しいところだけど、門限は仕方ない。これ以上迷惑をかけるのは絶対にダメだ。そんなことをしていると、またシェバさんの二の舞になってしまう。
この嫌がらせをする人がなるべくはやく飽きますように…。