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花がいつかは散るように、平穏な日々もいつかは瓦解する。
最初の屋根瓦が落ちたのは、雛菊の花が華やかに生い茂る麗らかな春の日のことでした。
私がいつもより早めに帰宅すると、ペチュニアは居間の窓辺にいました。それ自体はおかしなことではありません。魔力の鎖による制限は以前よりもだいぶ緩和されていて、現在では私の居住区内であればどこにでもいけるようになっています。
ただおかしいのは、いつもであれば大抵は出迎えにくるはずの彼女が出迎えにやってこなかったこと。そしてなによりもおかしいのは、彼女の前にある窓のいつもは魔力により堅く閉ざされているはずのカーテンが開かれていること。
「…ペチュニア?」
私が声をかけると彼女は大げさに肩を揺らし、やがてゆっくりとこちらに首を回します。
「…あなたが、開けたのですか?このカーテンを」
そんなわけがありません。彼女は魔力を持たないのですから。
…開けられるわけがないのです。
「…私が、閉め忘れたのでしょうね」
私は、他の可能性を考慮する前に思考を止めそう結論付けました。
彼女が開けた可能性もしかりですが、他の可能性も考慮するにはどれも可能性が低すぎたのです。であれば、私の閉め忘れとしてこの件はなかったことにしておくべきだと考えました。
それよりなによりも、深く考えるともう戻れなくなるような、なんとも言えない薄ら寒い予感がしたのです。
「…uyw@mue9」
なにごとかを言い訳するように言葉を発しながら、いつものようにこちらに擦り寄って来る彼女のためにもその違和感は無視する他なかったのです。
それからペチュニアは私が帰って来る際に窓際にいることが増えました。
そして、なにかしらの「違和感」がちらつく日も増えました。最初の日と同じように開いたままのカーテン、これまた魔力仕掛けで決して開かないようにしていたはずなのに開いていた窓、閉ざされたカーテンを頻繁に見つめるようになったペチュニア、部屋を出る前よりも花が増えたような気がする花瓶、逆に花が減ったような気がする花瓶…。
何度か行動範囲を狭めようかとも考えましたが、彼女に失望されてしまうのではないかと、それを行動に移すことは終ぞできませんでした。彼女に失望されてこの関係性が壊れるぐらいならば、徐々に遠ざかっていく「偶然」や「私のうっかり」の可能性にすがる方がよほどよかった。
ですが代わりに、居住区の周りに今まで以上に厳重に人・動物避けの魔法をかけ、魔法による罠を幾重にも張り巡らしました。これで、何人たりとも動物さえもこの家に寄り付けなくなったはずです。しかし、「違和感」は順調に私の部屋で起こり続けました。嫌なその気配を感じる度により強い罠を追加でかけましたが、意味はおそらくありませんでした。
いつまでも見て見ぬふりをしてそのまま生活できるものならばしたかった。
でも、幸運と違い災難はあちら側から歩いてくるものなのです。見て見ぬふりをする努力をしたところでそれから逃れることはできない。
居住区周りの罠に、ネズミがかかって死に、次にツバメがかかって死に、猫がかかって死に、どこからか迷い込んだ小鹿がかかって死んだ頃。
「…ただいま戻りました」
声をかけても今日もペチュニアは迎えに来ない。ここ最近のいつも通り。
いつも通り、のはずなのになにかがおかしい。
__くすくす
何も見たくない知りたくないのに、勝手に足はリビングへと歩みを進める。
__くすくす けらけら
いる。確実になにかが。彼女以外のなにかが。
__くすくす けらけら くすくす
私の、平穏が崩される。
「ごきげんよう。イソトマさん」
背を向けてリビングから立ち去ろうとした私の背中に、軽やかなソプラノの声がかけられる。
その声に、私はなるべく動揺を見せないようにゆっくり現実に向き直る。
そこには全身を派手に着飾った女、とその影に隠れ目を見開くペチュニア。
「…こんばんは。コスタ先生。家主がいない間に勝手に部屋にあがっていらっしゃるとは…先生ともあろう方が随分と良い趣味をしていらっしゃる」
「あら。あなたこそ随分と趣味の良いことをしてらっしゃるでしょう」
「そうですか?身に覚えがありませんが」
「ひどいことおっしゃるのね。随分手間をかけて飼いならされたのだと思ったけれど」
「…彼女のことを犬猫のように言わないで頂きたい」
「マ、これは失礼」
口に手を当てて申し訳なさそうに眉を下げてみせてはいるが、実際なにも失礼などと思ってはいないのでしょう。これはそういう女です。
この女はリーア・コスタ。高学年に上級防御魔術を教えているこの学校の講師の一人。
他者のかけた魔法になんらかの影響を与える__例えば、魔法により閉じられていたカーテンを開く、魔法の罠を打ち消すなど__には、正攻法でやるならばその魔法をかけた魔法使い以上の実力が必要ですが、たしかにこの女であれば一部で私の実力を超えている可能性もあるでしょう。あるいは正攻法以外でどうにかしてきた可能性も十二分にある。
「…それで、なんの御用ですか」
「あらあら。もうよくわかっていらっしゃるでしょう。それとも、私がただかわいいこの子と遊びにきただけとでも?」
女はこちらを煽るようにペチュニアを抱き寄せる。
言葉がわからないながらも不穏な気配を察しているのか、ペチュニアは怯えた様子で私たちを交互に見やる。そして、私と目が合うと少し目を潤ませて、泣くのを耐えるように口を引き締めた後に、
「(い、す、と、ま)」
と、音を出さずに口を動かす。
その様子を見て、思わず言葉が口から飛び出る。
「…彼女を解放してください!私に返してください!」
すると、女は気味が悪いほどに巨大な目をさらに見開き何度か瞬かせた後、心底面白いとでもいうようにけたたましい鈴のような音を喉から発し始めた。
「ふふふふ、本気でおっしゃっていらっしゃる?いえ、本気なのでしょうね」
微笑ましいものを見るような不快な目でこちらを見た後、女はふと真面目な顔を作る。
「彼女を解放すべきはあなたですよ、イソトマさん」
その言葉は、ゆっくりと、諭すように発された。
「わかっていますか。これは罪深い行為ですよ。人一人の人生を奪い、破壊する」
「…これは、ただの保護です。森に落ちていたのを拾い助けました」
「保護ですか。家から一歩も外に出さないこれが?」
女は不可視のはずの魔法の鎖にそっと触れる。
「…ええ。いけませんか。彼女はこのあたりに不慣れなようで。しかも、翻訳魔法もかからず言葉も通じません。なにもわからないのに下手に出歩くと危険だと判断しこうしています」
「なるほど。一理あるかもしれませんね」
「わかっていただけて幸いです。それではお引き取りください」
そう言って居間の扉を開けて退出を促す。だが、それでもなお女は動かない。女は哀れむような目でこちらを見るばかり。
「…なんなんですか」
「保護だというのであれば。なぜあなたは大学側に報告しなかったのでしょうね」
「それは…」
「賢いあなたであればよく理解できたでしょう。個人で<保護>することがどれほど危ういことか、どれほどあなたの名誉と地位を脅かす危険性を孕んでいるか。それともなんでしょう。この貴重な実験動物を使ってどうしてもしたい実験でもありましたか。それとも…」
<実験動物>という言葉に怒りを感じ、言い返そうとして…ふと、思考が止まる。
確かに彼女は実験動物だったはずです。だとしたら、なぜ私はその〈実験動物〉という言葉に怒りを感じているのか。
「愛玩動物?」
「は?」
「あなたは言葉のわからない小さな彼女をペットとして愛玩していらしたのでは?」
「…違います」
否定する私を一瞥し、女は一言。
「であれば、あなたにとって彼女は一体何?」
…それは。
それは…
「…5zs、」
先ほどまでこちらを心配そうに眺めるばかりであったペチュニアが突然声をあげた。
「ck…」
そして、彼女の身体に回された女の手を、柔く、しかししっかりと掴んだかと思うと…そのまま剥がした。
剥がして、そのままこちらに歩み寄って来る。
「お嬢さん?」
「3lt@s4 dyf「edwh;we。yw@r9、」
腕を伸ばし彼女の歩みを止めようとした女に、ペチュニアは軽く頭を下げる。
そして、「あ~」だの「う~」だのいいながら必死に腕を動かし始めた。
私のことを指したかと思うと、笑顔を作り自身の顔を指さす。しばらくすると、私たちの反応を窺い首を傾げる。
やがて今度は自身の心臓あたりを指さした後、私に抱き着いてくる。
「…ペチュニア…」
その様子を、私はただ呆然と眺めていました。
今、たしかに彼女は私を庇っていました。なにを言っているのか具体的にはわかりません。でも、確かに彼女は私を庇おうとしていた。
「」r@tde…」
現実とは思えないその光景の中に、ふと、女が入り込む。
どんな顔をしてこの光景を見ているのかと思ったら、
あの女は、哀れみの目でペチュニアを見つめていました。
先ほど私に向けていたのとなんら変わらない。いえ、むしろそれよりも深い哀れみを、女は彼女に向けていました。
私は、その目を見て、視て、
「いすとま…!?」
何度直しても正しい発音にならない私の名前。
怯えと不安が多分に含まれたその呼びかけにふと我に返る。
目の前には不自然な姿勢で地にひれ伏す女。女からは強い、しかしなじみ深い魔力の気配。そして、私の手の中には角笛。
なにが起きたのかは明らかでした。
私は女に対し角笛を使い支配魔法をかけたのでしょう。それも、最上級の。
その魔法は、任意の相手の肉体と精神を一定時間強制的に奪い、任意の相手のほぼ全てを自由に操ります。その魔法は私の一族が最も得意とする魔法であり、私の研究分野でもある。
もちろんこの魔法も「魔法の使用者よりも上の実力」を持ってすれば封殺は可能ですが、この魔法においては上記の理由により「私以上」というのはほぼありえない。特に、この我が一族代々の魔力と叡智がつまったこの角笛の音色を使い魔法を行使した際には。
__やってしまった。
この魔法は中級より上のレべルのものは禁術と言われ、少なくとも島内での許可なしでの使用は禁じられています。しかも、私はそれを講師に使用してしまいました。
これは、かなり、いえ相当にまずいでしょう。この事実が明るみになれば、私がこれまで積み上げてきたキャリアは、研究は、努力は、全て森の霧となる。
…いえ、であれば明るみにならないようにすればいいのです。
全てをなかったことにする。それをできる力を私は持っている。
青ざめた顔で女に近づこうとするペチュニアの腕を掴みその場から遠ざけ、角笛を口元に構えながら女に近づく。
女の目は閉じられ、開く様子はない。恐らく私が命じれば開くこともあるでしょうが…
「…イ、ソトマ、さん」
…!
すぐさま角笛を唇に当てます…が、どうやら口以外が動く様子は見られません。その様子を確認し、角笛を口から離し、落ち着きがてら息を軽く吸います。
…それにしても驚きました。まだ魔法の支配は続いているはずですが、どうやらこの女、私の魔法に抗って見せたようです。他の部位は無理だとしても、口が動くだけでも相当だと言えましょう。
この女は私が考えていたより、いくらか上の魔法使いだったのかもしれません。
そして、そんなことを考えている私に対して女はなおも言葉を紡ぎ続けます。
「あな、たが…なにをしようとしているかは大体想像がつきます。が、残念ながら彼女のことは既に理事長に報告済みです。このままでいられるとは、思わ、ないよ、う…に…」
その言葉を残し、女は口を閉ざしました。
さすがにもう抗う力は残っていなかったのでしょう。
一般人であればともかく魔法使いの「口が動く」というのは若干厄介だったので、このまま動かし続けられるようであれば角笛を吹くつもりでした。しかし、もう一度角笛を吹くのは色々な意味で避けたかったので良かったと言えばよかったのですが、女の言っていた内容も気になります。
…いえ、まずはその前に「処理」をしなくては。