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__あきらめなさい。あなたは二度と自由にはなれない。
『イザベルと妖精の騎士』より
「随分成績が下がっているようですね。授業態度も中々のものだとか」
「これは遠回しに助手の誘いを断られていると考えて構いませんか?」
「…あの、聞こえてますか?目はともかく、耳が悪いというあなたの情報は聞いたことがないのですが」
僕を責めるそれは、その種族の特徴である尖った耳を隠すことなく、その知的な緑の瞳を冷たく光らせる。
全身から知性を主張するそれの種族名はエルフ。かつての僕は…人間かその種族になりたいとよく願ったものでした。そして、それが叶わないのであればそのエルフの中でも特に優秀なエルフ__イソトマの研究室で助手として働きたいと。
イソトマは現役の学生でありながら、精神支配魔術研究の第一人者であり、大学内に研究室を用意された特別な学生です。イソトマの研究室で助手として働くことは、優秀さの証明であり、卒業後の未来も約束される。しかも給金も支給されるということで、以前の僕を含めた多くの生徒たちがその立場を欲するのです。
そして、ちょうどあの日__彼女と僕が罪を犯すことになるあの日に、僕は「二年生になったら研究室で助手として働かないか」と、イソトマから声をかけられていたのでした。
今となってはなんの興味も湧かない__むしろ吐き気の催すような誘いです。ですが、以前の僕はその誘いに舞い上がり、イソトマがその言葉を言い終わるとほぼ同時に、どうかよろしくお願いしますと頭を下げました。
__僕も、くだらない存在のくだらない誘いに喜んだものです。
「…聞こえていましたよ。目は悪いですが耳はいいので」
「ならば、」
「カヨコ・カガミへの嫌がらせ…あなたが主導されていたんですね」
これまで安定していたイソトマの呼吸音が、静かに、でも確かに…一瞬だけ乱れました。
「…なんの話でしょうか」
ですが、さすがはイソトマです。
白衣のポケットに手を突っ込みつつ、まるで何事もなかったかのように言葉を発します。
「助手さんに指示を出されるのは…ほら、あなたに用意されていている研究室みたいな、外部の人があまり入ってこないような空間の方がいいと思いますよ」
「ですから、
「さっきみたいに、いくら図書館の奥と言えど人が来る可能性のある場所でああいった話をされるのは…悪手かと」
「…ですから、なんの話をされているのか私にはさっぱりわかりません。__それでは、成績のこと…よろしくお願いしますよ」
イソトマはそう告げると、前に立つ僕とすれ違って立ち去ろうとします。
「逃げないでください」
__なんて言ってみたはいいものの。
イソトマの足を止めて、この罪について問い詰めて、それで一体僕はなにをしようとしているのか…僕自身もよくわかりませんでした。
先ほど偶然知ってしまったその事実__イソトマの罪に対し、感情の赴くままに言葉を吐き出したはいいものの、その罪を糾弾できるような立場でもありません。彼女を守りたいなんて口が裂けても言えません。でも、
「逃げませんよ」
後ろから、息を吸い込む音。
そして、その直後に響く、笛のような音。
こんな音が鳴る楽器を僕は知らないけれど、どこか懐かしさを感じる不思議な音。
__動けない。
全身から力が抜けて、全身が急に重くなって、身体が地面にゆっくりと倒れていく。
おそらく、イソトマが得意とする支配魔法の一種でしょう。ただ、僕はセイレーンの混ざりものなだけあって、そういった魔法への耐性はかなりある方です。ですから、かなりの魔力を消費して、相当強力な魔法をかけてきたと考えて構わないでしょう。ただ、そうだとしても、ここまで僕の行動を支配できるとは思えないので、あの笛らしき音を出すものがよほど強い力を持つアイテムだったのかもしれません。
…ああ、そういえば。僕の後ろは棚があるだけの行き止まり。そんなところに賢いイソトマが逃げるわけがないのでした。
イソトマは逃げたのではなく、あの笛を吹くために僕の視界の死角に入り込んだのです。
やっぱり僕は__セイレーンと人間の混ざりものでは…人間にも、エルフにも知性では勝てない。
「失礼します」
ハーフアップにした部分の髪を掴まれて、無理やり顔を上に向けさせられる。
眼鏡が外れてしまったのか、もしくは支配魔法のせいか、ぼやけにぼやけた視界に金色__イソトマの髪であろうものだけが写る。
__頭の、バレッタは無事だろうか。
「…ああ、やはり生意気な顔をしていますね」
イソトマに髪とともに雑に掴まれて、壊れたりしていないだろうか。
「まだ頭がそれなりに動いていそうですが…まぁ、すぐですよ」
その言葉と同時に、徐々に頭にももやがかかってきて…バレッタが…バレッタの…バレッタ…なんだっけ…
「ご安心を。殺しはしませんよ。__ああ、あとご忠告ありがとうございます。これからはもっと気を付けますね」
でも、ぶちぶちと髪が抜けていくのが不快で、あと…僕の大切なものが壊されてしまうかもしれないから、それで、僕の、なにかが…どうにもならなく、て、
「はなせ…下衆が…!」
衝動に身を任せ、腕を動かす。
すると、なにかが爪に当たった感覚。それと同時に、無理に引っ張りあげられていた髪が離され顔から地面に落ちる。
「…やはりセイレーンは厄介ですね」
その声の後に、再びあの不思議な笛の音が響く。
それと同時に、身体がさらに重くなり急速に意識が遠のいていく。
「畜生は畜生らしく、そうやって床に這いつくばっているのがお似合いですよ」
「あ、あと助手の話はなかったことにしてください。あなたのようなおつむの弱い下等生物は最初から不要ですので」
「…ああ、今話しても意味ないんでしたね。じゃあ、またあとで」
……………
………
……
「…起きなさい」
冷ややかな声に、はたと目を覚ます。
「ラボの床は眠る場所ではありませんよ。寝るなら部屋かどこかの地べたになさい」
目を開いたはいいものの視界は曇っていてなにも見えない。
慌てて身体を起し、まずは頭のバレッタに触れてそれの無事を確認した後、次に周囲に手を回して眼鏡を探しますが近くにはないようです。
仕方ないので眼鏡はいったん諦めて、とりあえず声の聞こえる方に身体を向けます。
「すみません、眼鏡をなくしてしまったようでよく見えないのですが…そこにいらっしゃるのはイソトマさんでよろしいですか?」
「…ええ」
「それで、ここは…?」
「私のラボです」
先ほどまでは、たしか、図書館の地下の部屋にいて…あれ?えっと…
「なんで僕がイソトマさんのラボに…?」
「私が呼び出したのです。…そんなことも覚えてないんですか?」
…ああ、そうでした。
イソトマさんに研究室に呼び出されて、行かなければと思って…
「ですが、私が来てみればあなたはラボの床ですやすやと寝てらっしゃる。待たせたのは悪いですが…失望しましたよ」
「失望した」という言葉に思わず心臓がきゅっとなります。
…いえ、失望されようが構わないのです。今日は助手の件をお断りするために呼び出しに応えたのですから。知識にも、研究にも、イソトマさんにももう興味はないのです。
「あの、
「それに、ずいぶんと成績も下がってるそうじゃないですか」
「はい、ですから、
「ということで、助手の話についてはなかったことにしてください」
簡単に言われた一言。
もともと僕が言うはずの一言ではありましたが、いざ相手から言われるとその衝撃は…小さくはありませんでした。
「それでは、そろそろ失礼します」
足音の後に「あなたも帰っていいですよ」という言葉が少し離れた位置から投げかけられます。
ガチャリ、と扉が開く音がして、
「…ああ、これ。忘れてました。片方のレンズが割れてるようですから、新しいものを買い直すか修理に出した方がいいと思いますよ」
カシャン、と軽い音が僕の足元でなります。
「では」
ガチャン、と扉が閉まる音。
そして、イソトマの気配は完全に室内から消えました。