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__罪を犯す人は罪の奴隷なり。
『新約聖書-ヨハネ伝八章三十四節』より
「え…?」
彼女がアルバイトを始めて、しばらくして向いてなかったので辞めたとサークルで聞いて…少し経った頃のことでした。
「…あ」
秘密のサークルの部屋の壁を久方ぶりに背景にして立ち尽くす、ずいぶん痩せたように見える彼女…と、その細い手に捕まれた数枚の紙幣。
そして、もう一つの手に握りしめられた、僕の汚い文字で「サークル用」と書かれた封筒。
慌てていたのか紙幣で手を切ってしまったようで、そこからは甘い血の匂いが漂ってくる。
__僕は、まさに彼女が罪を犯そうとするその瞬間を…見てしまったのでした。
「…ごめんなさい!!!!」
しばらく呆然としていた彼女は、我に返ると同時に床に頭を擦り付け謝罪を繰り返しました。
「魔がさしてしまって!その…その、バイトをクビになっちゃって、お金が全然なくて…ご飯もずっと食べれてなくて…」
ごめんなさいごめんなさい、と泣きそうな、いえ、もう泣いているであろう声で彼女は繰り返します。
「だから、そこに…机の上にお金が…おいてあったからつい…」
…今回のことはたしかにショックです。
ですが、彼女には彼女の事情が…
「お金は勿論返しますし、なんでもします…」
__なんでもする。
その言葉に僕の…理性がぐらつく感覚がしました。
「だから…どうか、どうかこのことは誰にも言わないで…。ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
いえ、本当は…紙幣で切ったらしき彼女の指を、彼女の血を見た時から、
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
いえ、いえ、本当の本当は、初めて出会った時に僕はすでに彼女のことを、彼女の血肉を…
__歌が、
___歌が聞こえる。
いつの間にか。
あたりは、赤、赤、赤。
あのバレッタを包んでいた包装紙のような色に染められた部屋はどうにも血なまぐさくて、誰もいなくて、真っ暗でした。
朧げな記憶をたどってみると、どうやら僕はセイレーンの本能に負けて彼女の血肉を喰らい、その後多少正気に返ってその傷を自分の血__セイレーンの傷病を癒す効果を持つ血を使って治し、封筒の金を渡し、渡し、渡し…
今回の「盗み」のことを黙っていてほしければ、またこの部屋に来て「食事」になるように要求…したようです。
僕はこの島を守るセイレーンの一族で理事長ですら僕たち一族には逆らえないと脅しながら、金もやるからいいだろうと甘い声で囁きながら。
__最悪です。
本当に最悪という他ないほど最悪。まさにセイレーンらしいセイレーン。力で圧倒し、脅し、時には甘い声で優しく囁いて主導権を握り、本能のままに血肉を喰らう。僕が幼い頃より疎んできたセイレーン像そのままのセイレーンです。
唯一の救いとしては、おそらく僕は彼女を喰らう前に「歌」を歌ったらしいこと。セイレーンの人を惑わすあの歌を彼女が聞いていれば、生きながら身を食われる痛みと苦しみは、そのまま悦楽に変換されていたことでしょう。
ですが、それだけです。最悪な事実はなに一つ変わりません。
でも…
__でも、それにしても最高だった。
…最悪だ最悪だと言いながらも、本心はそれで。
__だって、こんな風に満たされたことなかったから!
どの友人から感謝の言葉や笑顔をもらうよりも、どんな知識を得るよりも、彼女の血肉は僕を満たしました。満たされきれないものを笑顔だ知識だで誤魔化してきた僕でしたが、僕は僕が思っていたよりも大分セイレーンだったようで。結局僕を満たすものは人間の血肉だったのです。
僕は、その比類なき快楽の、想像するだけで身震いが止まらないその味と絶頂の虜になっていました。
その日から、僕は崩れ落ちるように堕落と退廃の日々を送りました。
彼女を呼び出し、その血肉を喰らう。そして、その身体に僕の血肉を注ぎ込み、肉体ごと作り替えていく。
恐ろしいことを、罪深いことをしていることはわかっています。
真白い狐耳の青年に僕の「におい」について指摘された時には…恐怖のあまり数日間ベッドから動けなくなりました。その恐怖は、この行為が明るみに出ることへの恐怖でもありましたが、なによりも…自分がやっている行為の恐ろしさを再認識してしまったからという面が大きかったように思います。
であれば、この行為を辞めればいいと多くの方は思うかもしれません。
でも、辞められなかった。辞められるわけがなかった。その頃にはもうすでにその「食事」と「作り替え」が僕の生きる目的だったのですから。
__他のことなどもはや眼中にありませんでした。
あれだけ追い求めていた知ももはやかつての輝きを失い、なんの興味も抱けないのです。
惰性で授業にだけは顔を出していました。ですが、予習も復習も課題もまともにしなくなったので、以前のような点数を小テストで取ることはできなくなり、かつての僕が友人と勘違いしていた有象無象もあっという間に離れていきました。
そんな状態で迎えた定期考査では、当然のように僕は何の勉強もせずに試験当日を迎え、無感情に成績発表の日を迎えました。
なんとなく皆と同じように廊下に出てみたはいいものの、自分の名前も、以前は必ず探していた彼女の名前を探す気も起きず、ただぼんやりとその紙を眺めていました。
以前、あんなに順位を気にしていたことが嘘みたいでした。
__でも、ぼんやりしていたところでやはりセイレーンの耳はよく音を拾うようで。
「あの…ごめん。せっかく勉強教えてもらったのに、また…だめだったみたいで…」
「…別にどうでもいいけど」
「えっ?あっ…ああ。…その、ルイゼはさすがって感じだよ。また一位連発でさ、うん。いつもすごく頑張ってるもんね。やっぱり、」
__寒い。
深海を泳いでいるよりもずっと、ずっと、寒い。周囲を見る限りなにか突然気温の変化が発生したわけではないようですし、その寒さは物理的なものではないはずです。だからといって、いつか彼女に教えた雪病に罹患したわけでもないはずなのに…身体が震える。
先ほど話していた位置から離れ、仲良く手を繋ぎどこかに向かう二人の姿に震えはもっとひどくなる。
"このままだとまずい"
その確かな予感に、どうにかこうにか身体を動かしてお手洗いの個室に逃げ込む。
個室に入った瞬間、背中からはギチギチと嫌な音と共にビッシリと黒い鱗の生えた翼が生え、人間の爪は剥がれ落ち代わりに鋭い鉤爪が生える。
__ここまでの変化はまだ想定の範囲内。でも、今日はいつもと違いました。
足が、指先からサラサラと溶け始めました。
そして、溶けた欠片は黒く染まり羽と揃いの鱗に生まれ変わり、その鱗は巨大な魚の尾ひれの形を成していきます。
当然ながら、立ってはいられずにトイレの蓋の上に座り込む。
でも、魚類用に作られていないそれの上に座っていることは難しく、身体は徐々に滑り落ちていき、鱗が腰にまで到達するころにはトイレの床に這いつくばっていました。
__惨めだ。
とても、惨めです。
親しそうな彼女とルイ・クーポーを見て勝手にショックを受けて、完全なセイレーン体に戻って、こうして便所の床に這いつくばっている。
…いいえ、違います。
本当に惨めなのはルイ・クーポーです。
彼女の肌の柔さも、その血の温かさも、喰われる悦びの声も、血肉の味も知らないのですから。それに、僕と彼女が喰らい喰らわれる関係であることすらも知らない。彼女の肌の下に流れる血潮に、僕の血が多分に混ざっていることすら知らない。
なにも知らない、仮初の関係。薄っぺらい関係。僕は、彼の知らない彼女を知っている。