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それから私は徐々に「傍観者」となっていった。
大学では恐怖や不安を探知して彼女のもとに向かっても、いつも当然のように私より先にL.クーポーがいた。食堂で彼女と目が合って微笑んで昼餉を共にとろうと思っても、いつも彼女の隣の席にはすでにL.クーポーがいた。どこで彼女を見つけても、探し出しても、いつも、いつでも、あの男が、いた。
そういったことを繰り返し続けるうち、私は例え恐怖や不安といった負の感情を探知しても、彼女のもとへは向かわなくなっていった。
館の中でも私の役割は徐々に失われていった。以前は全くできなかったはずの食事の用意や洗濯も、必要物品の購入すらもいつの間にか彼女は一人でこなせるようになっていた。私が手を貸すべきところなどもはや何もなかった。以前は本当になにもできなかったのに。
毎食必ず共にとっていた夕餉ですら、試験期間で共に食せない日が現れ始めた。喪失感を誤魔化そうと私が剣術部に通い始めてからは一週間の中で一緒に食べられない日の方が多くなった。そして、彼女が大学からの支援金は十分にあるはずなのに、どうしてかアルバイトを始めてからは、ついに一週に一度共に食べられるか食べられないかというところまで行った。
それに比例するように、館の中で会うことも減っていった。先述したように互いに忙しいことが増えたことも大きい。同じ館に住んでいるとは言え、設計からして意図的に会おうとしなければ会うことは中々ない。なので、それは順当と言えば順当なことだった。
それらに対して…寂しさを覚えなかったとは言わない。
しかし、全てが元に戻っただけでもあった。私は父の娘、この大学の理事長の娘__ただの娘に戻り、そんな私に相応しい行き過ぎた幸も不幸もない灰色の__ある意味では非常に落ち着く毎日が私の元に帰って来た…ただそれだけだ。私はそれを不幸だとは感じない。
たしかに彼女と共に暮らす幸福な日々を知ってしまった後では、普通の日々の色彩が一つ落ちるということは否定しない。しかし、「彼女が今日も幸せに生きている」その事実があるだけで、私は幸福な日々を知る前よりも幸福だ。
彼女の傍にいることができなくとも、滅多に会うことができなくとも、彼女が幸せならばそれでいい。
そうして何者でもない傍観者でいるうち、いつからかL.クーポーが彼女の部屋を訪ねてくるようになった。
位置探知と感情探知の魔術は、初めて彼の声が上階から聞こえたいつかの休日に「…ああ、やはりな」なんて思いながら音とともに遮断した。その日は私の役割が完全に終わったことをしみじみと感じて、情けないことにも無性に誰かに抱擁されたい気分になりながら一人ベッドに横たわっていた。
しかしながら、カヨコが彼女らしからぬ香りをその身体に纏いはじめた時から、いつかこうなるだろうなとは思っていたし、彼が相手というのはむしろ安心できたと言って構わないだろう。この頃には、彼が「悪役」の息子と言えど謹厳実直な青年であることは私も十分に理解していたので、他のおかしな男にひっかかるよりは余程いいような気がしていた。きっと彼であれば、彼女のことをしっかり守り支えてくれるだろう。
彼女は…私のような父という存在から独立できない未完成な人もどきの傍にいるよりも、彼のような人間の隣にいる方が相応しいのだ。
…そんなこと、誰よりも私が知っている。
夢のような光景を見ていた。
例年通りのうだるような暑さにも負けず咲き誇る花々の中、少女が一人踊っていた。
何度も腕を宙に伸ばしながら、何度も崩れ落ちそうになりながら。
それはどう見てもカヨコだった。しかし、部屋にいたはずの彼女がなぜここにいるのか、別人かもしれない、と久方ぶりに位置探知の遮断を解除する。するとやはり、遠くで踊る女は確かにカヨコで。
目線を上げた瞬間、彼女は極彩色の花の中に崩れ落ちていく。
支えなくてはと咄嗟に駆けだすが、距離はあまりにも遠く間に合うはずもない。伸ばした手の先で、随分細くなった気がする少女の肢体が花の中に沈んでいく。
彼女が倒れてから幾秒か遅れて彼女の前に辿りつき、その名を呼びながら背の下に腕を滑り込ませて上半身を起こしてやる。
「…し、ぇばさん?」
「あ、ああ!そうだ、私だ!」
「…ああ、ああ…ごめんなさい…」
その一言と一筋の涙を最後に彼女は目を閉ざした。
その後、何度名前を呼んでもその目は開かれず、以前よりも明らかに軽いその身体を抱き上げ医務室に運び込んでもその目は開かれず、治癒魔法がかけられても目は開かれないままだった。
彼女の部屋からは死にかけの男たちが発見された。その中にはL.クーポーもいた。
彼が眠っている間に彼のベッドの前に何度立ったか覚えていない。
死ぬべきだと思った。殺そうと思った。
彼の事情も、彼が何をしていたのかも知らない。ただ、彼女の隣に居ながら彼女を守れなかった__その一点で彼は死ぬべきだと思った。酷い火傷を負って目覚めない彼のベッドの横に立ち、ナイフを振り上げて結局殺せないをくり返し続けていた。
しかし、殺人未遂を繰り返していればいかに愚かな私でも気づく。私が許せないのは彼ではなく私で、私が殺したい相手も私なのだと。
…覚えてないとはとても言えない。
私が彼女から逃げたこと。
そもそも「傍観者」を気取ったところからすべては「逃げ」だった。彼女が私にとって唯一の人間であっても彼女にとってのそれが私ではないことを察知して、惨めにならないように「傍観者」の立場に私は逃げたのだ。
夕食を一緒に食べられない、も最初は確かに偶然のことだった。しかし、途中からはL.クーポーのことを話す彼女から確かに逃げていた。食事をしながら楽しそうに話す彼女の言葉が、笑顔が、あの男の名前が__苦痛だった。そんな話を聞いていると、心の中で「裏切り者」と今にも彼女を糾弾しようとする醜い私が顔を出そうとする。そんな私に向き合うことも未熟な私には苦痛で、私は私からすらも逃げた。
もちろん、彼女のことを助けに向かわなくなったことも、L.クーポーといるカヨコを見るのが苦痛で逃げただけ。
「彼女が幸せならばそれでいい」なんて言葉も、自分の「逃げた」という事実から逃げるために、自分を慰めるために生まれたそれらしいだけの言葉。彼女の幸せを願っていたことは嘘ではない。嘘ではないが、私が彼女の隣に居て彼女のことを幸せにしたかった。
他の人間は当然、L.クーポーが彼女の隣に立つことも決して許容できることではなかった。
でも私は女だから__違う。これも全て逃げだ。女だろうと関係ない。隣にいたければ、行動を、言葉を、尽くすべきだった。
それができなくとも、せめて彼女の近くにいることを諦めなければ、逃げなければ…隣にはいられなくとも彼女の背中を守る役割ぐらいにはなれたかもしれない。
なのに、私は「無理だ」と全てを諦めて逃げた。
その顛末がこれだ。
「幸せ」どころか彼女は目を覚ますことすらしない。
私はなにをやっているのか。なにをやっていたのか。自分を守るために逃げて、逃げて、逃げて、逃げて…結局、一番守らなくてはならなかったはずの彼女のなにも守れなかった。誰も彼女を守らずとも、自分が彼女を守るなんてのたまったのはどの口だ。それとも、私が守りたかったのは「カヨコ」ではなくて、「誰にも守られない一人ぼっちのカヨコ」だったとでも…
…違う。そんなはずはない。私は確かに彼女を、彼女を彼女のことを…
シェバ編はこれにて完結です。