8 迎え
唖然としているうちにクローゼットの戸が閉められる。ほどなくして、廊下から複数人の足音が聞こえてきた。
(ここが、フェルレッティのアジト……ということは、この足音は)
――正真正銘、フェルレッティの人間のもの。
ディーナの背筋を冷たい汗が伝ったとき、ノックもなしに部屋の扉が開く音がした。壁に叩きつけるような、乱暴な開け方。
来た。
「……ようテオドロ、探したぜ」
男の声は若い。テオドロと同じくらいだ。
ディーナは息を潜めた。叩きつけるように開かれた扉、低く押し殺したような声音。――嫌な緊張感。
「ルカさんでしたか。お早いお戻りで」
明らかに不機嫌な様子のルカに、テオドロは丁寧な受け答えをしている。立場は向こうのほうが上なのだろうか。
「ああ、おまえが海沿いにバカンスに向かったって聞いて、取り引きを巻いて急いで追ってきたんだよ」
「アウレリオ様の指示です」
「途中でシストとダンテを撒いたのも?」
「よせといったのに、屋台で妙なもの食べて腹を下したので置いていきました。急ぎの命令でしたので」
嘘だ、と思ったのはディーナだけではなかったらしかった。クローゼットの外側で、ゴツッ、と鈍い音が響く。ディーナは拳を口に当てて悲鳴を飲み込んだ。
「おまえ勘違いしてるな。あの二人はおまえの子分としてつけたんじゃねぇ、新入りの見張りだ」
テオドロの返事がない理由を想像して、噛み締めた拳が震えた。
「腕が立つのも知恵が回るのも認める。だがフェルレッティでやってくのに一番大事な要素は、上への従順さだ。それがない奴は、他がどんだけ優れてても、いや優れてれば優れてるだけ、邪魔なだけだ」
また鈍い音が、ルカの声とは少しずれたところからした。部屋には複数人入ってきたから、殴ったのは別の人間か。
(大丈夫、テオは強かった)
声と気配を必死に押し殺しながら、ディーナは心の中で自分の恐怖を宥めた。
(今は、相手に従順なふりをしているだけ。彼らを追い払うか、反撃に出るか。この状況を、脱する算段があるはずよ)
だから今は耐えて、彼がこの戸を開けてくれるのを待つしかない。ディーナは自分にそう言い聞かせた。
そんなディーナの忍耐を、ルカの冷ややかな声が揺らがせる。
「命令違反の単独行動なんてもってのほかだ。その上、言いつけられたおつかいだってまともにやってねえじゃねぇか。レベルタには何しにいった? ペッツェラーニ一家の下っ端を河に捨ててくることが“急ぎの命令”だったか?」
テオドロが小さく「……河?」と呟いたが、ルカは気に留めなかった。
「新人にしちゃ、おまえは気に入られてたろうが。勝手が過ぎたな」
「……それがアウレリオ様の判断ですか?」
テオドロの声は、普段と変わらないように聞こえた。語尾が、何かに耐えるように震えたのを除けば。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。彼が言った、開けるまで出るなと。
「おまえの“上”はアウレリオ様の前に、俺だよ。おいルキーノ、ヴァンニ」
彼が――。
「こいつを連れていけ。上客室は汚すとうるせえから、物置で」
「待ちなさい」
気が付くと、ディーナの拳は解かれ、その手はクローゼットの戸を内側から押していた。
「神はすべて見ておられます」
飛び出したディーナが見たのは、テオドロの両腕を横から抑える屈強な男二人と、その正面に立つ、茶色い髪に青い目の若い男だった。
「ディ……」
名を呼ぼうとしたテオドロの口の端が切れていた。見開かれた灰色の目が、責めるように自分を見ている。
けれどディーナは直感していた。このまま待っていても、彼が連れていかれるだけ。そしてきっと、戻ってこられない。
「彼に乱暴しないで。わたしを助けてくれた人です」
衣装クローゼットから現れた女を、ルカは頭から足元まで品定めするように見た。そして呆れたようにクローゼットに視線を移した。
「読めねぇ奴だと思っちゃいたが。せっかく広いベッドがあるのに、狭いところで致すのが趣味か」
ディーナの登場に、ほかの男二人が気色ばんだのと比べても、ルカは不愉快そうに眉を寄せているだけだ。
ルカは顔だけ見るとテオドロどころか、ディーナと同じくらいの年齢にも思えた。しかし醸し出す威圧感は、見た目よりずっと上だ。
そして、顎を上げてディーナを見下ろすせいで、右耳の下にテオドロと同じ蛇の入れ墨があるのが見えている。
ディーナはその蛇をひたと見据えて、改めて声を低く発した。
「ルカ、と言いましたね。知らない名前です。最近うちに来たという意味では、新入りなのは、あなたも変わらないんじゃないですか」
「……なんの話だお嬢さん」
「彼はアウレリオの遣いでレベルタに来た。そう言ったでしょう」
話す声は、クローゼットの中での震えが幻だったかのように落ち着き払って、大声でもないのに部屋によく通った。雨の夜に、教会へ入ってきたテオドロと祭壇越しに相対した時と同じように。
「テオドロは役目を果たしてくれました。わたしを迎えに来たの、ディーナ・フェルレッティを」
「……クスリきめてんのか? 怖いもの知らずも限度があるぜ」
吐き捨てるルカがテオドロとディーナを順々に見遣る。その目の苛立ちの影に、確かな当惑が見え隠れしていた。
鵜呑みにはしないながら、『まさか』と思っているのだろう。
彼もテオドロ同様、ディーナ・フェルレッティが金髪であると知っているのかもしれない。
けれど、目の前で名乗られて、嘘だと断じることもできない。アウレリオが指示した場所にいる、二十歳前後の身寄りのない“ディーナ”は、ひとりしかいないからだ。
「彼を離して。テオドロの上はあなたでも、その上はアウレリオであり、そして同時に、わたしのはずでしょ」
「……付け焼刃にしちゃ話を合わせるのが上手いな、女優か? 恋人のピンチに名乗り出た度胸は買うよ、バカだが俺好みのバカだ」
「嘘かどうかは、ディアランテでわかるわ」
よせ、と言った声はテオドロのもののように聞こえた。けれどディーナはそれに従わなかった。
「兄に会いにいきます。急な誘いだったから、迷って、隠れたりしたけど、ようやく決心がついた」
宣言したとき、心臓は意外といつも通りだった。考える間もなく言っているから、脳が口に追い付いていないだけかもしれなかったが。
しばらくにらみ合ってから、顔を歪めたままのルカが一つ息を吐く。着ていた上着の襟を正し、ディーナに向かってエスコートするように手を差しだしてくる。
その手を前に、ディーナは険しい顔のまま言った。
「勘違いしていますね。わたしの迎えはテオです」
舌打ちと同時に、テオドロの拘束が解かれた。