表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/50

7 宿屋

 ***


 ――ガチャ。


「きゃあああああああ!!」


 跳ね起きて叫び這いずるディーナに、部屋に入ってきたテオドロは目を見開いて固まり、やや呆然としながら後ろ手に扉を閉める。

 

「……ごめん、驚かせたね」

「えっ、あっ」


 紙袋と瓶を手に、戸の前で立ち尽くすその姿に、ディーナは自分が運ばれながら眠ってしまったことを思い出した。緊張したまま寝入ったせいか、覚醒のタイミングに人の気配を感じてパニックになったようだ。


「い、いえ、こっちこそごめんなさい……」


 そう言って恐怖をなだめながら、きょろきょろとあたりを見渡す。


 ディーナが手をついているのは、真新しいシーツの寝台だった。ほかにも、華やかな壁紙や照明、しみのない絨毯が敷かれた床。清潔なカーテンの隙間からは朝日が差し込んできている。


 昨日入った建物は、宿屋だったのだろう。しかしずいぶん上等な部屋だと、ろくに旅行などいったことのないディーナにも見当がついた。


 そうして状況を理解するとともに、自分が見覚えのない服を着ていることにも気が付いた。ちっとも濡れていない。――下着も。


「……」

「なに?」

「いえ、別に……」


 着替えさせたのかと、面と向かって聞くのもはばかられて目を逸らせば、ベッドわきの小さなテーブルの上に紙袋が置かれた。隣に並んだのは、ワインの瓶のようだった。


「一眠りして落ち着いたなら、食べるといい」

「……」

「何も混ぜてない」


 そう言われても、この男の首筋に刻まれた蛇の模様がためらわせる。服の下のロザリオが表を上にしているのを、思わず手で触って確かめた。


 黙り込んだディーナに対し、テオドロはグラスをふたつ、瓶の横に並べ、椅子を寝台のそばに引き寄せてそこに腰を下ろした。


「食欲がわかなくても、少し胃に入れてくれないか。泳ぎはしないが、できればすぐに出発したいから」

「出発? ……レベルタへ?」

「いや、王都」


 王都、ディアランテ。あの生家がある場所。

 グラスのひとつにワインを注ぐ男を前に、ディーナは青ざめ、震える己を抱きしめた。


「い、嫌よ、なんでそんなとこへ。人違いって言ってたじゃない、私は無関係なんでしょ?」

「そうもいかない。寝落ちする前に僕が言ったこと、覚えてる?」


 テオドロは痛々しそうに眉を寄せて首を振った。同情するような反応に虚を突かれる。

 ディーナは自分を落ち着けて、慎重に、自分の置かれた状況を正確に把握しようと努めた。あくまで、ディーナ・トスカとして。


「覚えてるわ。あくどい貴族の妹さんと勘違いされてるって」


 本人だけど。

 緊張するディーナを横目に、瓶を置いたテオドロは紙袋から小さな林檎を取り、懐から出したナイフで器用に剥き始めた。

 ――そのナイフ、もしや人を殺した凶器じゃなかろうか。


「そう、それも死人だ。本人の遺体はフェルレッティ邸に眠ってるのに、アウレリオ・フェルレッティは認めない」


 テオドロの言うことはもっともだが、今回はアウレリオが当たっている。身代わりの遺体という恐ろしい事実まで明るみになって、胸に重いものを感じた。

 それを口に出すこともできず、ディーナはテオドロの顔を見上げて、そしてゾッと背筋を凍らせた。


 灰色の目の、冷たいことといったら。


「奴が固執するせいで、裏社会でも奴に妹がいると噂が流れ始めた。本人が名乗り出ようがない以上、あなたが別人だということは、もはやアウレリオ本人に宣言させるしかない」

「……それって」

「つまり、あなたがアウレリオ本人に会うのが一番手っ取り早いが」


 絶対無理!という絶叫が、ディーナの喉元までせり上がる。


 遺体が偽物だとわかっているなら、アウレリオはディーナが本物だということも見破るかもしれない。そうしたら身の破滅だ。

 そしてもし偽物だと騙し通せたとしても、釈放してくれるとは限らない。誘拐犯は、人違いなら殺す気でいた。


 しかし、蒼白になったディーナが言葉を尽くす必要はなかった。テオドロの灰色の瞳が、安心させるように細くなる。


「でもそんなことはさせない。あなたには、誰にも見つからないところにしばらく身を隠していてほしいんだ」

「見つからないところ?」

「ディアランテに、重大事件の関係者を保護するための屋敷がある。常時軍の護衛が付くし、末端の使用人まで王家が素性調査をしてる。そこへ匿うよ」

「……あなた、なんでそんなところにわたしを連れて行けるの? フェルレッティ家の関係者なのに」


 つい口にしてから、全身の血がさぁッと引いた。

 しかしテオドロは、「ああ、これ?」と小さく笑って、首筋に手を当てた。ちょうど入れ墨のあたりに。


「よく知ってるねシスター。案外、やんちゃな元恋人でもいた?……僕は、フェルレッティ家の悪事を裁くために、王命であの家に潜入してる、軍の特殊部隊員なんだ」


 予想外の言葉に、ディーナは目をむいた。


「軍……王命!?」

「王家はフェルレッティ家の正体に気が付いているが、奴らも慣れてるだけあって決定的なしっぽを掴ませない。だから、敵の懐に入って内情を探る人間が必要だと判断された」


 にわかには信じられないが、それなら彼の言動はつじつまが合う。正真正銘フェルレッティ家の手下なら、連れ去るのにこんな嘘で安心させる必要はない。


「僕がレベルタに来たのは、それこそ“妹を迎えに行ってこい”というアウレリオの指示だった。いるはずないが、僕は表向き逆らえないし、それに誰かがディーナ・フェルレッティのふりをしているのかもしれない。他の組織も動いてたし、確認しないわけにはいかなかった」

「それで、あの街に」

「そう。他の組織の人間に先に鉢合わせて、ひと悶着あったけど」


 しゃりしゃりと、林檎の皮が細く長く、テーブルで渦を巻く。


「あなたと別れたあと、誰が教会の鍵を持ち出したのか調べてたら、また別の組織の末端がうろうろしてるのを見たからさ」


 そこまで聞いて、ディーナは内心首を傾げた。

 テオドロは教会でディーナを見て、別人だと判断した(本人だが)はず。それ以降の彼には、ディーナ・トスカに用はないように思える。

 なら、港の倉庫に現れた理由は。


「……あの、あなた、わたしがさらわれたのを知って、わざわざ助けにきてくれたの?」

「そうだよ。死ぬと分かってて見捨てていい人間なんて、フェルレッティ家の人間くらいだし」


 見捨てていい張本人だと言われて、ディーナはぐうと息が詰まりかけたが。


「巻き込まれた一市民を、むざむざ抗争のど真ん中に置き去りにしたりしない。不審者すら助けるほどのお人好しなら、なおさら」 

「……」

「そういう人のために、命張るのが僕の仕事で、存在意義だから」


 言葉を失ったディーナの目の前に、グラスが置かれる。中に綺麗に切りそろえられた林檎が盛られていた。


 迷っているうちに、男が林檎を自分で一切れ食べた。とりあえず、ディーナはチーズとベーコンの香りが漂う紙袋に手を伸ばす。

 焼きたてで買ったのであろうパニーニは少し冷めていたが、小声でお祈りの一節を唱えて一口かじると、二口目三口目は止まらなかった。しばらく無言でパンとワインを口に運ぶ。

 その様子を見た男が、ほっとしたように息を吐いたのを感じながら。


 ……そういえば、教会で彼の怪我を手当てしたとき、危険な持ち物は回収した。


「その、今、林檎切ったナイフって……」

「気になる? さっき買った安物なんだよね、もともと持ってたやつは誰かさんに没収されちゃって」


 嫌味を無視し、ディーナは林檎にも手を伸ばした。水気と甘さが、塩気の口にちょうど良かった。

 数分後、空になった紙袋とグラスを前に、ディーナはがっついた自分が少し恥ずかしくなった。


「……ごちそうさま。助けてくれて、ありがとうテオドロさん」

「テオでいい。それに先に助けてくれたのはあなただよ」


 微笑んだ顔に、ディーナはそれまでとは別の意味で戸惑い、視線を逸らした。

 その間に、男は空になった紙袋を握り潰して立ち上がる。急いで出発するというのは本当のようだ。


 だがそこで、男の目つきが変わった。


「隠れて」

「え?」

「人が近づいてきてる」


 それまでの穏やかな空気が一変していた。テオドロは、ディーナの腕を掴んで立たせると、壁際の衣装クローゼットへと連れて行った。

 空のそこに押し込められて、わけも分からず相手を見上げると、今までにない真剣な眼差しで見下ろされて息を呑む。


「ここはフェルレッティのアジトの一つなんだ。僕が開けるまでここから出てくるな、絶対に」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ