7 宿屋
***
――ガチャ。
「きゃあああああああ!!」
跳ね起きて叫び這いずるディーナに、部屋に入ってきたテオドロは目を見開いて固まり、やや呆然としながら後ろ手に扉を閉める。
「……ごめん、驚かせたね」
「えっ、あっ」
紙袋と瓶を手に、戸の前で立ち尽くすその姿に、ディーナは自分が運ばれながら眠ってしまったことを思い出した。緊張したまま寝入ったせいか、覚醒のタイミングに人の気配を感じてパニックになったようだ。
「い、いえ、こっちこそごめんなさい……」
そう言って恐怖をなだめながら、きょろきょろとあたりを見渡す。
ディーナが手をついているのは、真新しいシーツの寝台だった。ほかにも、華やかな壁紙や照明、しみのない絨毯が敷かれた床。清潔なカーテンの隙間からは朝日が差し込んできている。
昨日入った建物は、宿屋だったのだろう。しかしずいぶん上等な部屋だと、ろくに旅行などいったことのないディーナにも見当がついた。
そうして状況を理解するとともに、自分が見覚えのない服を着ていることにも気が付いた。ちっとも濡れていない。――下着も。
「……」
「なに?」
「いえ、別に……」
着替えさせたのかと、面と向かって聞くのもはばかられて目を逸らせば、ベッドわきの小さなテーブルの上に紙袋が置かれた。隣に並んだのは、ワインの瓶のようだった。
「一眠りして落ち着いたなら、食べるといい」
「……」
「何も混ぜてない」
そう言われても、この男の首筋に刻まれた蛇の模様がためらわせる。服の下のロザリオが表を上にしているのを、思わず手で触って確かめた。
黙り込んだディーナに対し、テオドロはグラスをふたつ、瓶の横に並べ、椅子を寝台のそばに引き寄せてそこに腰を下ろした。
「食欲がわかなくても、少し胃に入れてくれないか。泳ぎはしないが、できればすぐに出発したいから」
「出発? ……レベルタへ?」
「いや、王都」
王都、ディアランテ。あの生家がある場所。
グラスのひとつにワインを注ぐ男を前に、ディーナは青ざめ、震える己を抱きしめた。
「い、嫌よ、なんでそんなとこへ。人違いって言ってたじゃない、私は無関係なんでしょ?」
「そうもいかない。寝落ちする前に僕が言ったこと、覚えてる?」
テオドロは痛々しそうに眉を寄せて首を振った。同情するような反応に虚を突かれる。
ディーナは自分を落ち着けて、慎重に、自分の置かれた状況を正確に把握しようと努めた。あくまで、ディーナ・トスカとして。
「覚えてるわ。あくどい貴族の妹さんと勘違いされてるって」
本人だけど。
緊張するディーナを横目に、瓶を置いたテオドロは紙袋から小さな林檎を取り、懐から出したナイフで器用に剥き始めた。
――そのナイフ、もしや人を殺した凶器じゃなかろうか。
「そう、それも死人だ。本人の遺体はフェルレッティ邸に眠ってるのに、アウレリオ・フェルレッティは認めない」
テオドロの言うことはもっともだが、今回はアウレリオが当たっている。身代わりの遺体という恐ろしい事実まで明るみになって、胸に重いものを感じた。
それを口に出すこともできず、ディーナはテオドロの顔を見上げて、そしてゾッと背筋を凍らせた。
灰色の目の、冷たいことといったら。
「奴が固執するせいで、裏社会でも奴に妹がいると噂が流れ始めた。本人が名乗り出ようがない以上、あなたが別人だということは、もはやアウレリオ本人に宣言させるしかない」
「……それって」
「つまり、あなたがアウレリオ本人に会うのが一番手っ取り早いが」
絶対無理!という絶叫が、ディーナの喉元までせり上がる。
遺体が偽物だとわかっているなら、アウレリオはディーナが本物だということも見破るかもしれない。そうしたら身の破滅だ。
そしてもし偽物だと騙し通せたとしても、釈放してくれるとは限らない。誘拐犯は、人違いなら殺す気でいた。
しかし、蒼白になったディーナが言葉を尽くす必要はなかった。テオドロの灰色の瞳が、安心させるように細くなる。
「でもそんなことはさせない。あなたには、誰にも見つからないところにしばらく身を隠していてほしいんだ」
「見つからないところ?」
「ディアランテに、重大事件の関係者を保護するための屋敷がある。常時軍の護衛が付くし、末端の使用人まで王家が素性調査をしてる。そこへ匿うよ」
「……あなた、なんでそんなところにわたしを連れて行けるの? フェルレッティ家の関係者なのに」
つい口にしてから、全身の血がさぁッと引いた。
しかしテオドロは、「ああ、これ?」と小さく笑って、首筋に手を当てた。ちょうど入れ墨のあたりに。
「よく知ってるねシスター。案外、やんちゃな元恋人でもいた?……僕は、フェルレッティ家の悪事を裁くために、王命であの家に潜入してる、軍の特殊部隊員なんだ」
予想外の言葉に、ディーナは目をむいた。
「軍……王命!?」
「王家はフェルレッティ家の正体に気が付いているが、奴らも慣れてるだけあって決定的なしっぽを掴ませない。だから、敵の懐に入って内情を探る人間が必要だと判断された」
にわかには信じられないが、それなら彼の言動はつじつまが合う。正真正銘フェルレッティ家の手下なら、連れ去るのにこんな嘘で安心させる必要はない。
「僕がレベルタに来たのは、それこそ“妹を迎えに行ってこい”というアウレリオの指示だった。いるはずないが、僕は表向き逆らえないし、それに誰かがディーナ・フェルレッティのふりをしているのかもしれない。他の組織も動いてたし、確認しないわけにはいかなかった」
「それで、あの街に」
「そう。他の組織の人間に先に鉢合わせて、ひと悶着あったけど」
しゃりしゃりと、林檎の皮が細く長く、テーブルで渦を巻く。
「あなたと別れたあと、誰が教会の鍵を持ち出したのか調べてたら、また別の組織の末端がうろうろしてるのを見たからさ」
そこまで聞いて、ディーナは内心首を傾げた。
テオドロは教会でディーナを見て、別人だと判断した(本人だが)はず。それ以降の彼には、ディーナ・トスカに用はないように思える。
なら、港の倉庫に現れた理由は。
「……あの、あなた、わたしがさらわれたのを知って、わざわざ助けにきてくれたの?」
「そうだよ。死ぬと分かってて見捨てていい人間なんて、フェルレッティ家の人間くらいだし」
見捨てていい張本人だと言われて、ディーナはぐうと息が詰まりかけたが。
「巻き込まれた一市民を、むざむざ抗争のど真ん中に置き去りにしたりしない。不審者すら助けるほどのお人好しなら、なおさら」
「……」
「そういう人のために、命張るのが僕の仕事で、存在意義だから」
言葉を失ったディーナの目の前に、グラスが置かれる。中に綺麗に切りそろえられた林檎が盛られていた。
迷っているうちに、男が林檎を自分で一切れ食べた。とりあえず、ディーナはチーズとベーコンの香りが漂う紙袋に手を伸ばす。
焼きたてで買ったのであろうパニーニは少し冷めていたが、小声でお祈りの一節を唱えて一口かじると、二口目三口目は止まらなかった。しばらく無言でパンとワインを口に運ぶ。
その様子を見た男が、ほっとしたように息を吐いたのを感じながら。
……そういえば、教会で彼の怪我を手当てしたとき、危険な持ち物は回収した。
「その、今、林檎切ったナイフって……」
「気になる? さっき買った安物なんだよね、もともと持ってたやつは誰かさんに没収されちゃって」
嫌味を無視し、ディーナは林檎にも手を伸ばした。水気と甘さが、塩気の口にちょうど良かった。
数分後、空になった紙袋とグラスを前に、ディーナはがっついた自分が少し恥ずかしくなった。
「……ごちそうさま。助けてくれて、ありがとうテオドロさん」
「テオでいい。それに先に助けてくれたのはあなただよ」
微笑んだ顔に、ディーナはそれまでとは別の意味で戸惑い、視線を逸らした。
その間に、男は空になった紙袋を握り潰して立ち上がる。急いで出発するというのは本当のようだ。
だがそこで、男の目つきが変わった。
「隠れて」
「え?」
「人が近づいてきてる」
それまでの穏やかな空気が一変していた。テオドロは、ディーナの腕を掴んで立たせると、壁際の衣装クローゼットへと連れて行った。
空のそこに押し込められて、わけも分からず相手を見上げると、今までにない真剣な眼差しで見下ろされて息を呑む。
「ここはフェルレッティのアジトの一つなんだ。僕が開けるまでここから出てくるな、絶対に」