43 “迎え”
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炎を避けながらだと、知っている館でも進むのに時間がかかる。
そのうえ、抱える物がだんだんと重みを増しているような気までしてきた。
絵だけでも木枠から外せればと思うが、キャンバスは釘で木枠に端をしっかり打ち付けられている。釘抜きなど持っているわけもない。
とにかく、安全な場所にこれらを持っていくのが最優先だ。
運河につながるガゼボの抜け道は使えない。なら礼拝堂の地下から墓地に出るのがいいだろうか。
考えながら、ディーナは頭の中が霞がかってくるのを感じた。南側の庭に面したテラスを目指す足も、ふらついている。
ディーナは感じ取っていた。明らかに体の調子がおかしくなってきていると。
――まさか、食事を、必要な毒を摂っていないから?
頭を過ぎった可能性を振り払う。
きっと強い酒を被って少し酔いが回っているうえに、肩の傷にろくな手当てができていないせいだ。それでも急所に弾は当たっていないし、どうあれ、時間がないなら進むしかない。
そう思うのに、足は思ったようには動かなかった。気を取り直すように、絵画と文箱を抱え込む。
だが、曲がった角の先、廊下の向こうに、見覚えのない男たちがいるのに出くわした。そのうちのひとりと目が合う。
「いたぞ、金髪! ディーナ・フェルレッティだ!!」
見つかった。
曲がったばかりの角を引き返したディーナの耳に、銃声が響く。
だめだ、まだ死ねない。
ディーナはすぐそばの扉の先に飛び込んだ。使われていない客間では、じりじりと炎が壁を這っていた。
構わず、窓を開けて髪飾りを外し、庭の先で踊る炎のそばへ狙って投げる。先にあるのは温室とガゼボだ。さらに髪を乱暴に数本引き抜き、窓枠に引っ掛ける。
そうしてから、大事な証拠を抱えると、部屋に備えられていた空っぽのクローゼットに飛び込んだ。
両開きの扉を閉じた一拍後、部屋の扉を開けて、男たちが入って来る足音がした。
「髪、……髪飾りがある! 窓から出たか!」
「追うぞ! フェルレッティの生き残りだ、逃がすんじゃねぇ!」
――良かった。偽装工作が功を奏しそうだ。
部屋の中でなされる会話に、息をひそめるディーナは安堵した。
男の一人が言った「怪しい」という一言を聞くまでは。
「逃げるのに、火元にまっすぐ向かうか? 罠の可能性もある。先に部屋の中をさがせ」
凍り付いたディーナの前髪から、ハーブの香りの酒が一滴、したたり落ちた。クローゼットの床に吸いこまれていった雫の音を拾ったかのように、足音の一つが近づいてくる。
ああ。神様、どうか。
せめて、この絵と帳簿を、行くべきところに。
神様、神様。
――……誰か。
ディーナはぎゅっと目を閉じた。
カチャ、と音がして、クローゼットの中に光が差し込む。
そのタイミングは、ディーナの予想よりも少しだけ遅かった。
「……狭いとこ、癖になっちゃった?」
鼓膜を震わせる、優しい声。
ディーナは確信した。自分はもう死んだのだと。
だからこれは幻聴だ。
だって、そうでないとおかしい。そう思いながら、きつく閉じていた瞼を上げる。
「迎えに来たよ」
迎え。
こんなときまで、あなたが来てくれるのか。
「……これは夢ね。あなたが死んでるはずがない。神様が、あなたを救わなかったはずはない。……ジュリオの見つけた薬が、あなたを助けなかったはずがないもの」
絵画と箱を抱きしめたまま、うわごとのように呟く。幻覚の男はディーナを見下ろしたまま、少し困ったように笑った。
よく見るとその呼吸は荒く、顔も血と汗に汚れていた。服も乱れ、煤に塗れ、タイのなくなった襟元からのぞく蛇の入れ墨はなにか痣のようなもので上書きされている。
初めて会ったときのような月明かりの代わりに、背後で煌々と揺れる炎が、その姿を浮かび上がらせていた。
「ましてや、あんなひどいこと言ったわたしのもとに、今さら戻って来るわけない。……そうでしょ、テオ」
残念ながら、と、青い目の男は笑った。パチパチ、と背後でものが焼ける音がする。
「僕は父親似なんだそうだ。あなたの言うことは聞かない」
幻覚が、肩の怪我を痛ましげに見て、手を伸ばしてくる。
血を触らせてはいけないと反射的に引いた身を抱きしめられて、少し速い鼓動が耳を打つ。
触れられた所からぬくもりを感じて、そのときようやく自分が震えて、泣いていたことに気が付いた。
確証はなかった。古い解毒薬が効くことも、その身が仲間によって救出されることも。望まない結果は、考えないようにしていた。
生きている。運命は、彼を救ってくれた。
ディーナは相手を抱きしめ返そうとして――己が抱えていたものの重要性をハッと思い出した。
「テオ、これ! 絵画と帳簿!」
腕を突っ張って相手へと押しつけるように渡す。
二人の間に距離ができる。テオドロはわずかに目をみはってそれらを眺めた。
「これを持って、早く外へ。ガゼボは火元らしいし、邸内にはまだロビオ家の人が」
「知ってる。僕が仕組んだ」
「……へ?」
「色々あるんだ。ごめんね」
燃え盛る部屋を背景に、男は悪びれることもなく謝罪を口にして、絵画と文箱を丁寧に床に置いた。
今になって、ディーナはテオドロの足元に男が一人倒れていることに気が付いた。部屋にはさらに二人の男が倒れてピクリとも動かないでいる。
「悪いね。生家、物理的に潰しちゃった。嫌だった?」
「……い、いいわ。未練なんてないもの」
「諦めが良くて助かる。……とはいえ、奴らがまだ残ってるなら、やっぱり髪色は戻しておこう」
そう言うと、テオは燃えずに残っていた薄手のシーツをベッドからはぎ取り、引き裂いて戻ってきた。それに床へ置いていた瓶の中身を逆さにして染み込ませると、乱れ、もつれたディーナの髪を覆う。
「少ししたら赤毛に戻るはず」
薬液を浸透させるように、わしゃわしゃとシーツ越しに髪を揉まれたあとで、テオドロはシーツを床に放った。そのまま長い指で濡れた髪を整えながら「……酒、飲んだ?」と訝しげに聞かれたので、「色々あったの」とだけ答えておく。
そのとき、バキバキと大きな倒壊音がした。どこかの天井が焼け落ちたのかもしれない。
「早く行くよ。ここも危ない」
テオドロが、ディーナの手を取ってクローゼットの中から引っぱり出した。絵と箱を片手で抱え、空いた手で当然のように脱出を促される。
それを、ディーナはぐっとこらえて踏みとどまった。
振り返ったテオドロの目が、わずかに見開かれている。
「……テオ、来てくれてありがとう」
あらわになった青い目をまっすぐ見つめて、ディーナは静かに呼吸を整えた。
来てくれて良かった。来ないでと思っていたけれど、今となっては、素直にそう思う。
「どうにかして、リストと帳簿を外に出さなきゃって思ってたの。あなたが来てくれて良かった」
おかげで自分は、屋敷から出ずに済む。
ディーナは笑って、テオドロの手から自分のそれを引き抜いた。
いたるところで火花のはじける音がする。オレンジ色の影が、天井付近まで辿り着こうとしている。
部屋は炎に包まれ始めていた。
覚悟はできている。
残す仕事は、あとひとつだけ。




