42 幹部、『ルカ』
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少年の住み家は王都の路地裏だった。
酒浸りの人間たちの間で寝起きし、入れ墨の大人が怪しげな薬を売るのを手伝って食い扶持を稼ぐ。それが少年にとっての普通だった。
学校などには縁がなかったが、同年代の中では頭が回ったし、見た目の幼さに反して腕も立った。
何より、仕事の足かせになるような倫理観を持ち合わせていなかったおかげで、少年はなかなか死ななかった。
とはいえ、やはり運には恵まれていなかった。
十五歳の秋、子分の一部が売上を持って逃げたのだ。少年は売人たちの本拠地である豪邸に連れていかれた。
庭につくられた、窓のない建物の、立像の足元。どれだけ殴られても、逃げた子分の行方など答えようがなかった。
床に倒れ、声も出せなくなった頃に、見せしめだと首に斧を当てられた。いよいよかと、少年が目を閉じたとき。
扉が開いて、待て、と声がかかった。
――そいつは殺さないでおけ。
――はぁ? なんで。
話し声に、少年はうっすら目を開けた。
――……だろう。
ぼやける視界に、大人たちの足、体、顔の輪郭が映り込む。ピントはその背後に立って自分たちを見下ろす立像に合った。
微笑む女性の像だった。
――サルダーリがしくじったときの保険に、とっておくんだ。
『おい、起きなガキ』
襟首を掴まれたときには、喉にあてられていた斧は退けられていた。
『金の髪の女王がご所望だと。面見せる前に、顔洗ってこい』
ぞんざいにかけられる言葉を、少年は口の動きだけで繰り返した。
『手に負えない暴君だ。死んだ方がマシな目に遭うことだろうが、下僕として、せいぜいがんばんな』
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煙が二階の天井付近にまで充満し、熱の気配が近づいてきている。
被った酒の度数の高さは、飲んだ身としてよく知っていた。急がないと、これまで燃えてしまう。
荒い息で壁に寄りかかったディーナは、左腕で抱えた文箱を見下ろした。
だが、今はまだ外に出るわけにはいかなかった。
(絵を、あの絵を持っていかなきゃ)
ディーナは血を流す右肩の痛みをぐっと堪えて、一階の玄関広間に繋がる階段を目指した。
幸いなことに、足は無事で、周囲には追手の姿もない。ほどなくして、ディーナは目指した場所を視界に収めて顔をほころばせた。
出来る限り急いで階段を下りる。燃えていたら大変だ。
手すりに助けられながら、ようやく踊り場へとたどり着き。
「……ない」
その目に映る踊り場の壁は、少しの煤を残し、ぽっかりと壁紙だけを晒していた。
「そんな……」
絶望が全身を支配した。動かされたのだ。捨てられたのかもしれない。どちらにしろ、ここにはない。
目の前が真っ暗になった。膝が崩れそうだ。肩の痛みが急に強くなった気までした。
それでも、背後からの足音に、ディーナはすぐに階下へと続く階段を振り返った。
「……ルカ」
踊り場と地上階の間。
男は満身創痍だった。口の端からも額からも血を流し、服は乱れ、破れ、左腕はだらりと不自然に下がっていた。
そして右腕には、外飼いのリストたる、大きな絵画が抱えられていた。
文箱を持つ左手に、力がこもる。ディーナの心臓がどくどくと音を立てた。
どうしよう。
奪わなければ。けれどどうやって。
怪我人相手なら、自分でも。けれどこちらもまた、右肩を負傷しているから――。
ぐるぐると思考が渦を巻いた、そのとき。
「……え」
差し出されたキャンバスに、ディーナは固まった。
「いるんだろう、これが」
かすれた声。喉に何かが詰まっているのか、喋りづらそうな響きをしていた。
それでも、ルカは確かにディーナを見つめて、絵を差し出していた。
「早くいけ。火が回る前に」
「ルカ……?」
罠かもしれない。
手を伸ばすことをためらうディーナに、ルカは口元を歪めて小馬鹿にするように笑った。
「俺のほうが、役に立つでしょう」
ディーナは目を見張った。
何故と疑問に思った。
けれどもう、無駄口を叩く時間がなかった。
ディーナは唇を引き結び、痛みに耐えて右腕を伸ばした。受け取ったキャンバスを、脇に挟むように抱え込む。
「……外は正面玄関まで延焼し始めてる。南側のテラスから出るか、裏の通用口へ向かえ」
ディーナはルカの青い目を見つめた。その視線の問いかけは、相手に正確に伝わっていた。
「明日死ぬ女に構う暇あるわけねぇだろ。こっちは自分の解毒薬さえ手に入れたら、さっさと逃げさせてもらう」
薬品庫は南側のテラスとも、使用人の通用口とも方向を異にしていた。
「……ありがとう、ルカ」
男は何も言わず、いつも通りの不機嫌そうな表情で、階段を下りていくディーナを見送った。
十年前。
今にも振り下ろされようとしていた斧を止めた、不可解な言葉。
『目が青いだろう』
それが、その日の死体をひとつ減らした。
もしかしたら、青い目の奴隷を所望した人間は、保険の少年を気に入らず、むごく殺したかもしれない。逆に気に入って、おもちゃのようにいたぶったのかもしれない。眼球だけを望まれて、くりぬいたかもしれない。
結局、“女王”と引き合わされることはなく、自分がどう思われるのかは、分からなかった。
そのあとも、成り行きで生き延びた自分の境遇は、好転したわけじゃなかった。
監禁状態がしばらく続いたと思えば、新当主による粛清のあとの、不足人員として働かされた。生き延びることだけ考えているうちに、当主に顔を覚えられた。そして気が付いたら、幹部なんて呼ばれるようになっていた。
その頃から日に一回薬を飲むようになって、殺したり殺されかけたりしながら日々を越えて。
やっぱり運はない方だった。
自分が行くはずだった迎えの仕事が、突然入ってきた薬物取引のせいで後輩に奪われた。
あのとき、もし自分が向かえていたら、何が違っていただろう。
十年前、主人と下僕が引き合わされていたら、今の自分はどうなっていたのだろう。
いっそ。
あの日、まともな人間のようにミサに行っていたら、目を留められた子どもは自分だったのだろうか。
ぽっかりと空いた壁に背中を凭れさせて、ルカはずるずると座り込んだ。朦朧とする意識が、火の爆ぜる音と、こちらに向かってくる足音を拾う。
だが、折れた足ではもう立ち上がれそうもなかった。銃も落としたし、あっても手の感覚だってない。肋骨もいくつか折れている。本当に嫌な後輩だった。十年前からずっと。
でも、もう関係ない。
薬品庫はここから遠すぎる。
「……どうせなら、無理にでも唾つけとけばよかったな」
できもしないのがわかっているから、ルカは笑って目を閉じた。
――金の髪の、女王様。
ずっとお会いしたかった。
あのとき、あなたに助けられたこの身だと、ずっとお伝えしたかったのです。




