41 祈り
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邸内の至るところに、火が回り始め、煙が視界を覆い始めていた。
そんな中でも、ルカは弾切れになった敵が二階に消えるのを見過ごせなかった。追って階段を上り、獣のような息遣いを徐々に落ち着かせる。
見失った。銃に弾を装填しながら、もはや動ける人間がほとんどいない廊下を、ガラス片を踏みしめて進む。
目は周囲を油断なく睨み、行き当たった部屋の扉を慎重に開ける。眼前に飛び込んできた、折り重なる部下と見知らぬ男の遺体に顔を歪めた。
「元からいけすかねぇ奴だったが。……死にぞこなったうえ、よりにもよってロビオと組みやがって」
吐き捨てたその喉に、扉の影から静かに出てきていたテオドロの右前腕が食い込んだ。
とっさのことで銃を落とし、のけぞる形になったルカがもがく前に、テオドロはさらに左腕でがっしりと首を固定する。すかさず足を払って後ろに引き倒そうとし、そこでルカの肘が脇腹に入った。
腕が緩む。衝撃に震えた腕を、ルカは逆にしっかり掴んで背負い込み、テオドロを床に叩きつけた。苦痛に顔を歪めながら銃に伸びたその手を、容赦なく踏みつける。
「だが、戻ってきてくれて助かるぜ」
これで殺せる。
嗤い、落とした銃を拾おうとかがんだルカの手ごと、今度はテオドロの足が蹴りつける。銃が床の上を転がって遠ざかる音を背景に、その足は今度はルカの顎にしたたかに打ち付けられた。ふらつくルカが、壁際まで下がる。
「こっちこそ助かる。先輩が役目を忘れがちで」
彼女の前じゃ殺しにくい。
反動をつけて起き上がるなり、テオドロはそこから大きく退いた。元居た場所に、ルカが投げた骨董品の斧が深く突き刺さる。
「見捨てられた分際で、健気なもんだ」
ルカの皮肉に、テオドロは手にしたナイフを投げて吐き捨てる。
「健気なのはおまえの方だよ。ご主人に追い払われても、見捨てて逃げることができない」
ルカが椅子の背で受け止めた刃は深々と刺さっていた。抜くのを即座に諦めたルカが投げた椅子は、テオドロが倒した机の天板にぶつかり、ひしゃげた。
「逃げる必要がねぇ。相手は壊滅間際の悪党と手を組んだ、だらしねぇ軍人崩れだってのに」
「違うな。僕と彼女が合流するのが、屋敷に火が付くことより許せないんだろう。放っておけば死ぬ可能性の方が高いのに、わざわざ手ずから殺さないと落ち着かないほど」
机を盾にするテオドロに、ルカは迷いなく突進した。机のへりに手をかけて飛び蹴りしたところで、テオドロが予想通りと受け流して距離を取る。
冷静さを欠いたのはルカの方だった。テオドロは自分と出入口の間の障害がなくなったのを見ると、すぐに廊下へと走った。すぐに後を追ったルカと廊下で取っ組み合い、互いに相手を壁に打ち付け合う。
だが、上がってきた階段そばで、ルカがテオドロを手すりに押しつけて首に手をかけた。テオドロの背後は火の回り始めた一階へ続く吹き抜けだった。
「……あの女、連れ出したところで長く生きられない」
手に力を込めたまま、唸るようにルカが吐き出す。窒息に顔色が変わっていきながらも、テオドロは相手の手首を掴んで、口を開いた。
「ああ、おまえのそばじゃな」
目を見開いたルカの耳に、足音が響く。一階には、階段に向かってくるロビオ家の残党がいた。
――しまった、挟まれた。
そう思うや否や、ルカの腹部に重い衝撃が走る。反射的にかがんだ体は襟首を掴まれて、宙を回った。
「それから。僕は別に誰とも手なんか組んじゃいない」
手すりを乗り越え、階下に向かって背中から落下していく男にそう言い捨てる。下から聞こえていた足音に、ドサッと重い音が重なった。
つかの間、テオドロは壁にもたれて、深く息を吐いた。
それから額から垂れてきた血を拭い、すぐさま待ち伏せに使った部屋に戻ると、棚に隠しておいた薬品を手にその場を後にした。
***
「なんで……」
ディーナはふらふらとその場で膝を折った。血の流れる右肩が灼けるように熱かった。
「なんでじゃないわ。わたしの立場なら、当然じゃない」
ラウラは肩を竦めると、コツコツと靴音をさせて近づいてきた。割れた酒瓶が転がる水たまりの前で足を止めると、汚いものを見るように眉をひそめてディーナを見下ろした。
「愚かな人ね」
ぐい、と髪を引っ張られて、声にならない悲鳴をあげる。
「思えば、歴代当主が金髪なのって、きっと毒のせいよね。わたしももう少し毒を受け止め続ければ、同じように綺麗な金髪や銀髪になれたのかしら」
どうでもよさそうに言って、ラウラはディーナを後ろへと放り出した。たいして体格の変わらないラウラの仕打ちに、ディーナの体は面白いほど振り回されて、執務机から遠ざけられた。
どうしよう。どうすれば。
焦るディーナの耳に、アウレリオの声が響く。
「ラウラ、この子の罰は私の領分だから、きみは」
二度目の銃声が鳴った。衝撃に固まるディーナの見つめる床に、血が滴る。
「早く出ていって下さるかしら、ディーナ様」
血は、アウレリオの肩から流れていた。
「なに、その顔。言ったでしょう。わたしの獲物、横取りは許さないって」
言葉を失ったディーナが仰ぎ見る先で、アウレリオも目を丸くして自分の肩にぴったりとつけられた銃口と、服を濡らす鮮血を見つめていた。
そして、床に手をついたままのディーナのもとに、ぼすっと固い物が投げてよこされる。
「痛っ……」
「ほら、これ」
飛んできたのは、鍵付きの文箱だった。
「薬物取引の帳簿よ」
「な……」
「それ持って、早く出ていってくださる?」
「待って、アウレリオは、フェルレッティはわたしがっ」
三発目の銃弾は、立ち上がろうとしたディーナの足のすぐ横に沈んだ。
「次は頭よ」
ディーナは愕然とした。それを見たラウラの目元が少しだけ和らぐ。
「ディーナ様。あなたは人の命が心臓にしか宿らないと思ってる? 尊厳はいつ死ぬと思う? ねぇ、わたしはもうとっくに死んでるの。それでも三年、死体のつもりで生きながらえたのは、この日のため。わたしの生きざま、無駄なものにしないで」
揶揄うように笑うラウラの喉には、鉄の首輪の痕が赤く残っている。
何か言いたくて、ディーナは口を開け、――かける言葉に窮し、結局口を閉じた。文箱を手に立ち上がると、右肩を庇いながらずりずりと後ずさる。次に聞いたラウラの声は、それまでよりずっと穏やかだった。
「爆発はガゼボからよ。この騒ぎは列車を襲撃したロビオ家の生き残りが入ってきてるせい。ディーナ・フェルレッティが捕まれば、ろくな目に遭わないでしょうから、気を付けて」
こちらを気にかけるようなことを言うのに、銃口は最後までディーナに向いたままだった。
ぱたん、と扉が音を立てて閉まる。
アウレリオに向きなおったラウラは、銃口を迷いなく男の左胸に押し当てた。
「さて伯爵。言い遺したいことはおありかしら」
「死にたくない」
あっさりと引き出された生存意欲に、ラウラは不愉快そうに眉をひそめた。
「ずいぶんかわいげのあるお言葉。パパの命乞いを文字通り蹴ったときのあなたに聞かせてやりた」
「解毒薬がない」
嫌味を遮ったその言葉に、ラウラは驚き、固まった。
そうして見つめる先で、アウレリオは肩を落としていた。いつもの笑みもなく、怒るでもなく。
空虚な瞳でラウラを見つめて、途方に暮れた幼子のように。
「今僕が死んだら、きみは明日死んでしまう」
遠くで、また窓が割れる音がした。
女はこの音と匂いを覚えていた。三年前、自分のすべてが奪われた日の記憶とともに。
目の前の男に笑われた屈辱の記憶とともに。
いつからか。
二人きりのとき、男は肌を撫でながら、笑わなくなった。
折に触れて、口づける回数が増えていった。
気が付くと、『派手な色だね』と言われた唇から、ため息が漏れていた。
「……わたしの体をこんなにしておきながら、腹立たしいことを言うのね。そんなことで手を休める女だと思うの?」
「ラウラ」
「もう指図は受けない。心はとっくに死んだの。自分で殺したの。……あなたごときにじゃないわ」
アウレリオの胸から銃が離れる。
戸惑ったその背に、ラウラの両腕が、銃を持った右手も含め、ゆっくりと回される。酒と血が付くのも構わないとばかりに、そっと、ぴったり、寄り添う。
「……たったひとりの肉親に、会えて、嬉しかった?」
沈黙が示す回答に、ラウラはふっと微笑んだ。
「祈って神父様。地獄への道、二人とも迷わないように」
銀髪が、赤茶の髪にすり寄るように、傾く。
銃声は一発だった。




