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神様、どうかこの嘘だけは見逃してください (書籍版タイトル:偽装死した元マフィア令嬢、二度目の人生は絶対に生き延びます)  作者: あだち


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40 蛇退治

 ***


 アウレリオは窓の外に一瞬視線をくれてから、また手元に意識を戻した。


「ロビオ家の後始末、ルカにやらせたけど、やっぱりバルトロにもついていかせた方がよかったな。皆殺しに関してはきっちりやりきる男だったし」


 相手からの反応はない。それを見越した言葉だったのだろう、小さな鍵をカチャカチャと言わせながら、伏せ気味の目で、男はなおも話を続けた。


「バルトロ、私の育った教会の関係者を自分が殺したことで、私にトラウマを植え付けたと思ってたらしい。あいつの中の私って、だいぶまともでかわいい男だったんだな」


 語尾が揺れる。

 アウレリオは小さく笑っていた。浅はかな部下をあざ笑ったわけではなく、勘違いを苦笑するような眉の寄せ方だった。

 だがそんな表情はすぐに消えて、今度はすこし苦々しそうに呟いた。


「……人のこと言えないか。私もディーナのこと、全然わかってなかった。十歳の頃までに蓄積した価値観って、思ったより抜けないものなんだね」


 ようやく、男の手元からカチ、と音がした。長い吐息が部屋に落ちる。


「仕方ないから外すけど、もう勝手なことしたら駄目だからね」


 それにも、さして反応を返さない相手に、さすがに緑の瞳に咎めるような険しさが宿る。が、庭からまた爆発音がしたので、アウレリオは不満そうに部屋の出口へ親指を向けた。


 扉が閉まったあと、アウレリオは手に持った物を執務机に無造作に置き、代わりに新しい鍵のついた黒い文箱に手を伸ばしたが。


「……どうかした? 先に礼拝堂行っててくれて良いんだけど」


 再び開いた扉の音に振り返ると、そこに立つディーナの姿に、かすかに目を丸くした。



 ***



 ディーナからすれば、予想通り、部屋の主はたいして驚きはしていないように見えた。


「変わった子だね。混乱に乗じて外に逃げようとは思わなかったんだ。もしかして、神父たちの身を案じた? まさかね。あんなにべったりだったテオのこともあっさり切り捨てられるのに、今さらまともぶったりしないか」


 ディーナが口を引き結んだままでいると、アウレリオは文箱を手放し、「ちょっとお湯沸かしてる暇ないから、酒でいい?」とボトルの並んだ棚へと近付いていった。


「……なんて。正直なところ、ちょっとがっかりした。延命させる方法があるのに、そっち選ぶんだ、って」


 酒瓶とグラスを手に机に戻ったアウレリオは、本当に残念そうな苦笑を浮かべていた。


 残念。ディーナがテオドロを見捨てたことについて、それがアウレリオの所感。


 おぞましいと思った。

 テオドロの立場はルカでも、ニコラでもあり得た。迎えは、当初このふたりのうちのどちらかになるはずだったから。


 誰でも良かったのだ。心を許した、最初の人間を取り上げることで、ディーナに自分の運命を思い出させることができれば。


 歓迎すると言ったのと同じ顔で、声で、人を奈落に突き落とすことができる。そのための人の死をなんとも思わない。

 そういう化け物を作るのが、この家の毒。


 ――ともすればそんなふうに、得体のしれないもののように見ることもできるが、そればかりに足を取られてはいけない。

 彼は確かに人間だ。

 いや。

 人間に戻りたがっているのだ。でなければ、ディーナを恨まない。

 でなければ、ディーナを生かして連れ戻さない。


「伯爵、あなたが本当にわたしを見つけたかった理由は、もうわかってる」

「へぇ」


 小さなグラスにあざやかな黄色い液体を注いでいたアウレリオは、ディーナの方を見もしない。ディーナの方も構わなかった。


「復讐もたしかに理由の一つだった。でもそれ以上に、わたしが必要だった。わたしが“生きているなら”どうしても連れ戻したかった」


 ボトルを置く音が部屋に響く。騒がしいはずの邸内で、それはいやに耳についた。


「十年前、わたしは死ぬはずだった。溺死しなくても、毒なしじゃ生きられない体に、もうなってた。それなのに十年間生きていられた。あなたは地下の遺体が偽物だったからわたしを捜したんじゃない、死んだ証拠がなくなって、生きている可能性に思い至ったから、見つけ出そうとした」


 ゆっくりと顔を上げたアウレリオは、もう笑っていなかった。

 ディーナがテオドロの死のために祈ると言ったときと、同じ表情をしていた。


「“ないはずの解毒薬を持っている”。わざわざ身代わりを立てて、この家から逃げたわたしに、その可能性を見出したから」


 争う声は続いている。

 ひっきりなしの怒号に、断末魔が混ざっている。

 部屋の外は地獄。隠されていたものが、現実まで浮かび上がってきたかのよう。


「生きていた以上、解毒薬を持ち出したのは確実。尋問しなかったのは、さっきの悪趣味なお楽しみまでわたしを油断させたかったからだとしても、可能なら薬は早く手に入れたかったことでしょうね」

「でもきみは何も持っていなかった。完全に失われたか、もしくは、最初から十歳のきみは毒の食卓についていなかったかだ」


 アウレリオの声は、眼差しと同じくらい冷えていた。

 ディーナはその声と視線に、そっと答えを示した。


 握りしめていた、蛇のからみつく、血まみれのロザリオを。


「……テオが、庭の礼拝堂は祈りに向かないって言ってたけど、でもやっぱり、あそこは助けを求める人へ手を差し伸べる場所だったのよ」


 祭壇画に描かれた怪物は、フェルレッティそのもの。

 自ら毒蛇となって周囲の人間を噛み殺す一方で、剣で貫かれたあとに流れた血は人々の脅威ではなくなった。

 つまり、そういうことだ。


「交差する十字、縦横の杭はそれぞれ中に細い管が通されていて、そこに薬が塗られてる。でもおそらく、中の薬だけじゃ解毒薬にならない。わたしたち毒の宿主の血を中に通して、初めて”蛇の毒”への解毒薬が完成する」


 アウレリオの顔色が変わる。

 ディーナもひっそり息を呑む。

 これを教えるなら、もう後戻りはできない、と。


 ――推察するに、ジュリオ・サルダーリはこの家に関わる過程で、先のとがった古いロザリオを見つけた。

 そして、もとは大学で美術を学んでいた彼は、奇妙な祭壇画の意味に気が付き、ロザリオがそこに描かれた剣そのものである真相にも辿り着いていたのだ。


「十字架ひとつに、解毒のチャンスは二回だけ。つまり、もう使い切ってしまったの」


 一度目は、ジュリオが、ディーナに。

 そして二度目は、ディーナが、つい先ほど、テオドロに使った。

 だから、解毒薬はもうない。ほんの一瞬、アウレリオの手に渡った解毒薬は、祈ると言ったディーナのもとに、あっさり返されたのだ。


 アウレリオは、しばらく言葉もなしにディーナの掲げる十字を見ていたが、やがて喉の奥で短く笑った。あからさまな嘲笑だった。


「やられたね。かつての私なら、真っ先に十字架に救いを見出そうとしたはずなのに」


 俯き、脱力した体を、机に手をついて支える。もう片方の手のひらで目元を覆って自嘲する男に対し、ディーナは目元と口元に力を込めた。


 憐れまない。

 自分は、この男が救われることを祈らないと、決めたのだから。


「それで。そんなこと言うために、わざわざこの取り込み中のところに足を伸ばしてくれたわけだ。私も、そしてきみ自分も、一生ここに囚われるしかないと、宣言しに」


 笑いを収めたアウレリオが手を下ろす。憎悪に満ちた眼差しが、狙いすました蛇のようにディーナに絡みつく。


 押し返すように、ディーナは一歩、アウレリオに近づいた。


「十年前、ジュリオ・サルダーリがなぜ、わたしにこの貴重な解毒薬を使ったか、考えてみた。なぜわざわざ解毒したあとに、運河に沈めたのか」


 一歩一歩、近づく先にあるのは執務机。その上に置かれた黄色い酒は、昨夜から今朝にかけて、ディーナをしたたかに酔わせたもの。


「たぶん、一度死んで、戻ってくることに賭けたからよ」


『さようなら、お嬢様。フェルレッティが生んだ罪深い蛇』


 助ける人もいない、冷たい川。

 死ぬ可能性の方がよほど高かった。絶対に生かして保護するつもりなら、軍に引き渡せばよかったのに、そうしなかった。


 その状況で、もし、生き伸びることができたなら。

 それはきっと運命の采配だから。

 そのときは。


『どうか、生まれ変わって、今度は善良な人間に』 


「だから、彼は拷問されても、わたしが生きている可能性をあなたに教えなかった」


 ――ジュリオの、最後の願いを叶えた神様。

 どうか彼の息子が、運河沿いに待機している仲間に見つけてもらえますように。

 安全なところに行けますように。

 この家の人間が、誰もあの人の生存に気づきませんように。運河に捨てろと言った、わたしの嘘に、気づきませんように。


「生き延びて、外を知ったわたしが、この呪われた家の歴史に終止符を打つことを信じたから。罪のない人が、自分の家族が、謂れのない脅威に晒されなくて済むように。……アウレリオ、わたしはここに、囚われることを伝えに来たんじゃないの」 


 ディーナが十字架をアウレリオに向かって差し出すと、冷たい視線はそちらに向いて、右手でそれを受け取った。


 ――そうして空いた自分の手を、ディーナはすばやく机の上に伸ばした。


 フェルレッティの蛇は、自らの尾を食らう形をしている。


「終わらせにきたんだもの」


 この怪物を殺せるのは、怪物自身だけ。


 アウレリオの手が伸びるより先に掴んだボトルを振り上げて、机の上に叩きつける。あたり一帯に強いハーブの香りとともに、瓶の中身が撒かれて、二人にかかった。

 そのまま机の上のランプに手を伸ばしたが、今度は届く前に手首をアウレリオが掴んだ。

 揉みあいになれば勝てない。ディーナは無我夢中で相手の襟を掴んだ。その手もまた強く払われるがその際、手に当たった固いものを握り込んだので、それが布から引きちぎれた。


 大聖堂の前で買った、エメラルドのラペルピン。

 ディーナはその針を、自分の手首を掴むアウレリオの手に深く刺した。


「っ!」


 ほんの一瞬、アウレリオの顔が歪む。

 いまだ。

 ディーナはすかさず、炎が揺れるランプに手を伸ばし。





 轟いた銃声に、動きを止めた。






 ――床に、酒と、血のしみが広がる。


「……だから、先に礼拝堂行っててくれて良かったんだけど」


 撃たれた肩を見て呆然とするディーナを、濡れた前髪をかきあげたアウレリオが自分から引きはがす。

 その視線の先に立つ、少し前に部屋を出たはずのラウラに、苦笑を漏らして。



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