39 役立たず
***
ああ、お許しを、ロレーナ様。
『本当に』
ロレーナ様。美しい人。嫁いできて、子どもを産んで、日に日に弱っていった人。
『役立たずな男』
理性ではわかっていた。これは当主以外の人間、例えばその伴侶などが実権を握らないようにするための仕組み。当主本人が望まなかろうと、蛇の毒がそうさせる。
男にできることなどなかった。理性ではわかっていた。
だから、理性を捨てた。
「ロレーナ様、今夜はたいそう暑うございますね」
廊下も、庭も、騒がしかった。窓の割れる音、銃声、物の焼ける匂い、火薬の匂い、血の匂い。
それらすべてを無視して、男は貴婦人を見上げ続ける。
「今日の宴会では、僕の作った“裏切り者のスパイス”が披露されたのですよ。あなたにも見ていただきとうございましたが……いや、きっとあなたはお気に召さない」
貴婦人はつんとすましていた。不機嫌そうなその口からは、いつもの声が聞こえてくる。
役立たず。役立たず。役立たず。
「蛇の毒の解毒。それだけが、あなたからのご用命だったのですから」
まさか、その“蛇の毒”が、当主の食事から作られていくものだったなんて。
ただ言われるがままに調合して厨房に運んでいた、あの毒が、女神を殺す毒に変じていただなんて。
「なんて残酷な。僕はあなたをお助けしたかったのに。いや、知っていても無駄なこと。人間の体を通して完成する毒なんて、創造主にしか……。そう、こんな言い訳をするから、僕はいつまでも、」
ロレーナ様。せめてあなたの心をお慰めするものを。
そうだ、ジュリオ・サルダーリが来るそうです。美しいもの、珍しいもの、彼ならなんでも用意することができます。なんなりとご用命を。
ほら、ロレーナ様――。
「ベルナルド・バッジオ」
呼ばれて、ベルナルドは壁に飾られた先代夫人の肖像画からゆるゆると視線を動かした。
部屋に林立する薬品棚。奥にいるベルナルドに声をかけた男は、出入口をふさぐように立っていた。
「……ジュリオ殿? まさか、死んだはず」
テオドロは、忌々しげに顔を歪めた。
「その名で呼ぶな」
「なぜ生きている。ロレーナ様の毒を飲んで、なぜ」
「……おまえ、取引する気はあるか」
ベルナルドの目は話す相手に向いているが、いつも注意はそこにない。
それが、今ははっきりとテオドロに向いていた。――かつて、彼の女神を死なせたものと同じ毒を含んで死んだはずの男に。
「じきにフェルレッティは制圧される。おまえも捕縛される。本来なら絞首刑は避けられないが、おまえが軍に協力し、ここで扱った毒の情報を渡すなら」
「まさか、あれは蛇の毒ではなかった?」
ふらふらと立ち上がったベルナルドの言葉に、テオドロはあっさり説得を諦めて、銃を手にした。
「動くな」
「そう、そうだ、ジュリオ殿には……ロレーナ様の娘を殺したおまえには、悪魔のようなあの薬を……南からやってきた彼が考案した、あの薬を試したんだった。とても興味深い実験結果だった」
引き金にかかる指に力がこもる。ベルナルドは、銃口など見えていないかのように近づいていく。
「そうだ、蛇の毒を食らって生きていられる人間なんていない。ロレーナ様が死んだのに」
「プライドを打ち砕くようなら悪いが、ドクター。解毒薬はあったよ」
銃声はしなかった。
しかし、ベルナルドはまるで心臓を撃ち抜かれた人間のように、その場に留まり、目を見開いて硬直していた。
「……嘘だ」
やがて、視線を宙にむけた男は「嘘だ」と繰り返し始めた。
「そんなはずない、そんなはずない。だってロレーナ様は助からなかった、僕があんなに、誠心誠意、あんなに」
「ベルナルド」
「ああ、ロレーナ様、ベルナルドは役立たずでしたが、最期は安らかにと、だからあの薬を。寂しくないようにと旦那様をも。だから、解毒薬なんてあるはずない、そうでしょうロレーナ様」
焦点の定まらない目で、ベルナルドは薬品棚に手を伸ばした。おぼつかない手付きで、いくつかの瓶を床に落としながら、透明な薬液の瓶を一つ、握り込む。
「ロレーナ様、ロレーナ様」
テオドロは動かなかった。ただその様子をじっと見つめていた。
一方で、別の棚の影から現れたもう一人の男は、銃を同じように構えて鋭く叫んだ。
「大人しくしろ!」
その声とほぼ同時に、ベルナルドは瓶の蓋を開け、中身を大きく開いた口の中へ流し込み。
「……お許しを、役立たずなベルナルドめを」
呟いた口から、どっと泡が吹き出した。床に倒れ込み、全身を痙攣させたベルナルドは、やがてぴくりとも動かなくなった。
「くそ、まるで聞いちゃいなかった」
駆け寄り、悔しそうに吐き捨てるファビオの傍らで、テオドロは銃を下ろして薬品棚の中に目を走らせた。
「薬品を押収しようにも、量がな……テオドロ?」
自分の手のひらほどの瓶を手に取ったテオドロは、同僚に向かって軽く振って見せる。
「僕の用事はこれだけだ」
そう言ってきびすをかえす。その背中に、ファビオの「おい手伝えよ!」と焦る声がかかる。
足を止めたテオドロは、ファビオの足元で虚空を見つめる男に目を向けた。
「憎たらしい男だった。ある意味で、アウレリオ以上に」
――いつも、他人のことを、ロレーナが生きていたころの幹部たちの名前で呼んでいて、それには統一性も脈絡もなかった。
なのに、自分のことだけは、なぜか常に父親の名で呼び続けた。
案外、アウレリオがテオドロの正体に気づいたのは、誰も気に留めなかったこの男の狂気がきっかけだったのかもしれない。
こうなった以上は、もうどうでもいいことだが。
フェルレッティを怪物たらしめた、その立役者の亡骸に乾いた一瞥をくれて、テオドロは薬品庫を後にした。
煙が充満し始めた邸内のあちこちで、乱闘の気配がする。数で勝るのはフェルレッティの方だが、予想外の侵入者には完全に意表を突かれたのだろう。
――数十分前。
フェルレッティに戻ると宣言したテオドロは、『応援が間に合わない、時間を置け』と説得してくるファビオに首を振った。
『見つけた証拠は今夜のうちに隠される。動くなら今しかないし、応援は待っていられない』
『それでも、貴族であるフェルレッティに裁判所の命令も王命もなしに踏み込むことはできないだろうが!』
『そんなもの必要ないやつらにやらせる』
テオドロは、戸惑うファビオにディアランテ内のいくつかの建物の名前を告げた。
『そこに潜むやつらに、こう伝えればいい』
“フェルレッティに報復したくないか”と。
――列車襲撃犯がロビオ家の者だとわかったとき、ひとり尋問に徹していたテオドロは、その隠れ家をあますことなく聞き出して、そしてそれをアウレリオには報告しないでいた。
ルカ主導の報復がロビオ家になされると、わざと何人か見逃した。予想通り残党がその隠れ家に身をひそめると、軍の関係者に見張らせていたのだ。
無関係な女性を巻き込んだ以上、一刻もはやく決着をつけないといけない。だが今までのことを考えれば、正攻法では心許ない。
そう思っていたからこその準備だった。いざというときには、ロビオ家を捕まえる名目で壊滅状態のフェルレッティ家に応援が踏み込むという、なりふり構わない手段だった。
だが、今、このまま応援を待ってはいられない。
テオドロは迷いない足どりで先を急いだ。すれ違う人間は誰であっても容赦なく昏倒させていく。
そうして、二階に続く階段を目指し、角を出た。
その一瞬ののち、険しい顔ですばやく一歩退く。
――一瞬前まで自分の頭があった場所の、延長線上の壁に、真新しい弾痕ができていた。
「出て来い死にぞこないが」
怒りに満ちたその声に、テオドロは冷ややかな気持ちで上着を手にかけた。
***
何が起きているのかはわからないが、助かった。
庭で起きた爆発の混乱で、ディーナは見張りの目をかいくぐって部屋を出ることに成功していた。
しかし、ドレス姿で悠長に歩いていられる状況でもない。廊下は煙に満たされつつあり、壁には銃弾の跡と血、そしてだらりと手足を投げ出した何人もの亡骸が床のいたるところに見られる。
めまいがするようだっだが、それでも止まりはしまいと、ディーナは歯を食いしばって足を進めていた。
しかし、世は残酷だった。
「レディ・ディーナ!」
声と同時に腕を掴まれる。ディーナの悲痛な叫びが喧騒に木霊した。
「ニコラ、離して!」
「駄目だ、すぐに逃げるんだ! ロビオ家の奴らが入り込んでる、殺されるぞ!」
「わたしにはやることがあるの、離しなさ」
そこで、ニコラがディーナの腕を掴む手に力を込めたので、とっさに声がでなくなった。
「好き勝手させるか! 俺はあんたの叔父だぞ! アウレリオごときと、みすみす心中なんてさせられるか!!」
引き寄せられたディーナは目を見開き、そして次には強く相手を突き飛ばしていた。
「……さよなら」
そう言って、ディーナは振り返らず、一目散に駆け出した。
「ディー……っ!」
後を追おうとしたニコラの体は、複数の銃声ののちにその場でドッと倒れた。




