38 覚悟
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「そうだディーナ。きみに見てほしいものがあるんだ」
いまだ宴会のざわめきが聞こえる広間からはますます離れて、ディーナはアウレリオに引きずられるように自室へと戻された。
「これ。きみの落とし物がね、ようやく見つかったんだけど」
アウレリオは、そう言って部下の一人が差し出した鞄を手に取った。
教会を抜け出した夜に抱えていて、そして誘拐のどさくさで紛失したものだ。
それを、アウレリオは一部のためらいもなくさかさまにして、中身を床にぞんざいにばらまいた。
「無くなってるものとかある?」
「……ないわ」
短く答えたディーナの頭に鋭い痛みが走る。
髪を引っ張られながら、ディーナはアウレリオと共にその場にしゃがみこんだ。
「よく見て、よく考えて、答えて」
――レベルタの神父さんに、まだお礼にも行ってないんだから。
続いた脅迫に、ディーナは歯を食いしばってアウレリオの腕を払い除けた。
「っ、ない! これで全部よ、田舎のシスター見習いの私物なんて、こんなところがせいぜいだってわかるでしょ」
粗末な財布や手縫いのハンカチ、古い手鏡に、少しの焼き菓子が入った缶。それらをつまらない物のように見下ろしたアウレリオは、今度はその目をルカに向けた。
「初日や今日の着替えについたメイドも、身につけているものはロザリオだけだと」
「そう」
分かってはいたが、初日の晩餐や今日の着替えを手伝ったメイドからも、ディーナに関する情報は筒抜けなのだ。
そっけなく答えたアウレリオが立ち上がる。ディーナは覚悟するように身を固くしたが、そのそばを足音が通り過ぎていっただけだった。
「……どこに行くの」
「幹部会に戻る。けど、その前にちょっと模様替え」
帳簿の隠し場所を変える気だと、直感が訴える。もしかするとリストの絵も隠してしまうのかもしれない。
思わず立ちあがったディーナに、アウレリオがくっと笑った。
「そんなにがっつかなくても、話す機会はたくさんあるよ。これから先、ずっと一緒に暮らすんだから」
部屋の扉が閉まる音が、重く響く。内側にはディーナとルカだけが残されていた。
「……軽食を持ってきますので、それまでにお召替えを」
ルカの従僕然とした物言いに、ディーナは拳をぐっと握りしめた。
「ルカ。あの人は、わたしが薬を持ち出したと思ってるのね」
確認しつつ、ディーナはほとんど答えを自分の中に得ていた。であるからこそ、昼間のこの男は、容器だけでも残ってないかと聞いてきたのだろう。
扉に向かいかけていたルカが足を止めて振り向く。
「心当たりがあるなら、すぐに出した方がいいですよ」
沈黙したディーナのもとまで、男が戻ってくる。
「お嬢様」
至近距離での、催促のような呼びかけを拒絶するように、ディーナは口を噤んだままだった。
しかし、ルカはいつものような苛立ちをみせることはなく、かわりに声を低くして問いかけた。
「……あなたは、もう一度、この家での権力を取り戻す気はないんですか」
ディーナは目を丸くして、顔を上げた。そこには真剣な顔で自分を見下ろしてくる青い目――テオドロより少し色の薄い目があった。
「なに言ってるの?」
「アウレリオ様の今の立場は、あなたが消えたことに起因してます。庶子が当主になることに、当初は反対派もいました。もちろん一人残らず粛清されましたが、正統な血筋の当主が戻ってきたという話が広まれば、大人しく従っていた幹部の中にはあなたにつく者も現れる」
ディーナはしばし固まり、そしてじわじわと、小さくない衝撃とともに理解した。
ルカは、アウレリオへの反逆を、唆してきている。あんな残虐な粛清を、二回も見たあとで。
「あなたに、その気があるなら、」
「やめて」
叩き返すように言ってから、ディーナは俯いた。
「……滅多なことを言わないで。どこで、誰に聞かれてるかもわからないのよ」
その言葉に、ルカは少しの間黙り、そしていつも通りの声のトーンで話を変えた。
「俺に対する薬は、後でベルナルドか、その部下が持ってくるでしょう。なるべく、俺に在りかがわからないように持ち歩いてください。力づくで奪われないように」
「奪っても、解毒薬がなければ一日で死ぬんでしょう」
「……一日あれば、あらゆることができますよ」
どういう意味かと思ったとき、ルカの手がディーナの二の腕を強く掴んだ。食い込む指の力にディーナが顔を歪めて相手を見上げると、ぐっと目の前に迫る男の顔があった。
「死ぬ覚悟くらい、とっくにできてる」
鼻先が触れそうな距離の近さでもたらされたささやきに、ディーナは思わず叫んだ。
「出ていって!」
あっさり手を離したルカが一歩退く。その顔にうっすらと浮かんだ、小馬鹿にするような笑いを、ディーナはきつく睨み上げた。
「逃げようと思わないほうがいいですよ。窓のある部屋で寝たいなら」
「逃げないわ!」
ディーナが大声を恥じる間もなく、部屋から男が出ていく。すると、廊下からかすかに話し声が聞こえた。見張りがいるのだろう。
先ほどの、唆すような言葉は、ディーナを試すためのものだったのかもしれない。――部屋を出る直前の伏せた目が、昼間見たのとよく似ていたのは、いささか不可解ではあったが。
「……逃げないわ」
同じ言葉を繰り返し、ディーナは握りしめていた右手を見下ろした。窓辺に近寄り、見覚えのない鍵が取付けられているのに気がつく。
逃げる気はなかった。でもどうにかしてこの部屋からは出ないといけない。
こっちこそ、覚悟はできているのだから。
着替えのメイドも追い返して、ディーナはひとり、どうすべきか物思いに沈んだ。
――屋敷の外で、爆発音がしたそのときまで。
***
「何ごとだ!!」
二階から吹き抜けの下に向かうルカの怒声に、屋敷内を走り回っていた部下たちが答えにまごつく中、青い顔のニコラが人をかき分けて階段を上ってきた。
「ルカ! それが、保管庫にあった古い火薬が暴発したらしい!」
「火薬……ガゼボのか!!」
舌打ちして窓の外に目を向ける。植え込みの向こうでは、ごうごうと燃え盛る炎が黒い煙を立ち上らせながらあたりを焼き尽くしていた。
このままでは、じきに屋敷にも火がつく。我先に逃げようとする使用人たちを、片端から捕まえては脅しつけ、ルカは消火の指示を飛ばす。ニコラも同様だった。
「……ニコラ、これあいつの仕業だと思うか」
「あいつ? ……まさか。テオドロが、あの毒で生きてるはずはない」
あまりのタイミングに、頭によぎった懸念を漏らしたルカを、ニコラが否定する。
だよな、と自分を納得させたルカの耳に、それを裏打ちするような声が飛び込んできた。
「ロビオ家の残党だ!!」
直後、邸内に銃声が鳴り響いた。
ニコラとルカの顔色が変わる。ロビオ家とは、裏での覇権をフェルレッティと争っていた悪徳一家の通り名である。
過去形なのは、ついこの間ディーナたちの乗る列車を襲い、フェルレッティの報復を受けて半壊滅にまで追い込まれたはずの組織だからだ。
「くそ、詰めが甘かったか!」
悪態をつくルカに、ニコラが切羽詰まった声で叫ぶ。
「俺がお嬢を保護していったん外に出る! 悪いがロビオ家は若いので頼むよ!」
「バカ言え! お嬢付きは俺だ、あんたはアウレリオ様のもとに……」
怒鳴り返していたルカが、そこで黙った。
視線を窓に向けたまま硬直した相手を不審に思ったニコラが、口を開くが。
「……いや、急用ができた。ディーナを頼む」
そう言うと、ルカはニコラや使用人を押しのけるように階段を駆け下りた。不機嫌ながら常に冷静冷徹なその目に、強い怒りを宿して。
――あのネズミ、生きてやがった!
窓の外に見つけた、黒い髪の男への煮えたぎるような殺意を燃やして。




