33 外飼い、『――』
「父は、叩き上げの官僚だった。大学では、もともと絵画とか、図像学だとかを学んでいたようだけど、実家の商売が傾いた折に、高給が期待できる経済官僚の道に進むことを選んだ」
返事も、相槌も、瞬きすら忘れたディーナに、テオドロは淡々と話し続けた。
青ざめた顔に表情はなく、どこか他人事のように距離を取った語り口で。
ともすれば、決壊しそうな感情を抑えて、内側に隠しきろうとするように。
「借金のある父に、フェルレッティが目をつけたのか。それとも、父の方からフェルレッティに近づいたのかはわからない。ただ結果として、父は金銭を受け取る代わりに、奴らの手先となって働くようになった。フェルレッティが債務者から奪った財宝を闇ルートで売却したり、逆にフェルレッティが手に入れたい財宝を裏から手を回して横流ししたり。
借金を返したあとも、家族に隠して愛人とその息子を養うのにも、フェルレッティからの報酬は、都合が良かった。……僕はそういう金で、育てられた」
男は自嘲するように口の端を上げた。何かを言おうとするように唇が動いたが、途中で力を失ったように閉じてゆく。
「……お父様は、今は」
気が付けば、ディーナはそんなことを聞いていた。テオドロはそれまでと変わらない声で答えた。
「十年前、殺された。愚かだろう。自業自得だ」
「十年前って……」
ディーナは息を呑む。
『むしろ君に手を下した実行犯を罰したくらいだ』
アウレリオの言葉が嫌な予感に拍車をかける。
「……まさか」
憶測に、テオドロは頷いた。
「ディーナ・フェルレッティに手をかけた。その事実を世間から隠すために、アウレリオが考案した薬の、試薬品の実験台にされた。従僕に配られてる、あの白い薬だ。あれがアウレリオのはじめての殺しだったとは、あとから知ったけど」
凍り付いたディーナの脳裏に、十年前の記憶が蘇る。
『さようなら、お嬢様』
秋の夜。黒い運河。冷たい水。水面の向こうに遠ざかっていく顔。
あれが、テオドロの父親。ときどき屋敷にやってきていた、外飼い。
大聖堂でのミサに付き従い、ディーナの最後のわがままを聞いた男。
「あなたはディーナの死を疑っていたね。間違いないよ。生かしてたら、父は命乞いか、もしくは早急なとどめを求めて、そのことを口にしたはずなんだ」
『中毒症状を見たことがあったから』
昨日のテオドロが言った言葉の意味に気が付いて、冷たい汗が伝う。
「テオは、薬を飲まされたお父様を……」
「見た。こんな屋敷でも、子供の目線なら抜け穴はある。父の様子がおかしくて、後を追って忍び込んで、そしてたどり着いた礼拝堂で、のたうち回って苦しむ父を見つけた」
灰色の目が、真上の、礼拝堂に向かう。
絶句したディーナの反応に困ったように、テオドロが笑った。
「……あなたが想像するほどの悲劇じゃない。父は僕に興味がなかったし、親子の情なんてほとんどなかった。僕がフェルレッティに固執する理由は、仇討ちじゃなくて、ただ父のようになりたくないっていうだけ。正義を捨て、欲に駆られて、子どもまで手にかけて」
燭台の炎が揺れる。眩しさに耐えかねたように、テオドロが目を伏せる。
「……そんな男の息子だから、生まれながらに醜悪な俗物なんだと、思いたくない」
まつ毛に遮られて、燃え尽きた灰のような目から炎の色が消える。
「ろくな死に方じゃなくていい。でも、最期まで正しい人間でありたい。この家を延命させたのが父なら、僕の手で引導を渡したい。道半ばで尽きるとしても、できる限り追い詰めたい。あなたのような人が、わけもなく脅かされなくて済むように」
テオドロの手が、ディーナの首にかかったままのロザリオに触れる。
隠そうとは思わなかった。衝撃に動けなかったせいもあるが、そればかりではない。
罪を告解し許しを請う者から、祈るよすがを奪うことを、修道女見習いは教わっていなかった。
「……なんて言っても、説得力に欠けるな。サンジェナの女も逃がせなかった」
長い指は闇の中で十字の表面だけをなぞり、離れぎわに地下室の鍵をかすめていった。
「僕が地上に出たら、内側から鍵をかけて」
「テオ」
「怖い物を見させてごめん。最後まで、送り届けられなくて、ごめん」
この期に及んでまだ、この男はディーナを気遣い続ける。
彼が謝るべきことなんてないはずなのに。
なのに。
『そういう人のために、命張るのが僕の仕事で、存在意義だから』
そんなことを自分に課した人間だから、最後に申し訳なさそうに俯いたのだろう。
――背を向け、歩き始めた男の腕を、今度はディーナが掴んだ。
「……離してくれないか」
怪訝そうに振り返って言われた言葉を無視し、ディーナは手に力を込めた。
「約束してくれたでしょう。どんなときも、あの教会に帰りつくまで、わたしのことを絶対に守るって」
黒い眉が苦しげに寄せられる。大きな手が、精一杯の力で掴んでいた華奢な手を難なく払い落とす。
ディーナももう一度掴み直した。
「ディーナ、」
「あなたがここに残るなら、わたしも残る。わたしがここを出るときは、あなたが必ず一緒でなきゃ」
ディーナは退かなかった。テオドロに真正面から睨まれても、睨み返した。
ここにいたくない気持ちは消えていない。
けれどそれ以上に、宿屋のクローゼットから飛び出したときの気持ちが、今度は確固たる決意として胸の内に戻ってきて、突き動かしていた。
彼を死なせてはいけない。
「……神様は、嘘つきをお許しにならない」
彼を見捨てたときこそ、本当に自分は十年前の怪物に逆戻りするのだ。
――静かな睨み合いは、片方が先に目を逸らすことで決着がついた。
「……あなたはこんなことに巻き込まれるはずじゃなかった」
掴んでいた手を今度こそ振り払われた。
と思った次の瞬間、背中に大きな手が回り、ディーナは抱きしめられていた。
燭台を持つ手が驚きに震えたが、すぐにディーナも空いた手でしっかりと抱きしめ返す。
「約束は守る。絶対に死なせない」
テオドロの頬が冷たかった。きっと背中に食い込む手も冷えているだろう。
緊張している。恐れている。彼から何度も聞いたこの言葉は、ディーナよりも、自分自身に言い聞かせ続けた誓いの言葉だったのだ。
――そんな人を、騙し続けてはいけない。
ディーナは、口を閉じ、つばを飲み込み、そして覚悟を決めた。
「……テオ、わたしも、あなたに言ってないことがあるの」
テオドロの顔がわずかに動いて、ディーナの方を見たのが分かった。ディーナは一度相手を強く抱きしめてから、腕を離した。
これから口にすることは、この人をひどく傷つけるだろう。今まで心を砕いた分だけ、憎まれるかもしれない。
でも重荷になるくらいなら、その方がいい。その上で、彼の任務に協力することを、分かってもらいたかった。
最悪の場合には、ディーナを見捨ててもいいのだと、伝えておきたかった。
なぜか、そう思い至ると、緊張や恐怖をおして泣きたいような寂しさがやってくるのが不思議だったが。




