32 よみがえる過去
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悲鳴をあげて床に座り込んだディーナの周りに、人が集まっている。
どうされました。具合が悪いのですか。そんな呼びかけに混じって、遠くから名前を呼ぶ声もあった。
けれどそのどれも、ディーナの耳には届いていなかった。
(これがこの家の、フェルレッティのやり方)
手で目元を覆ったはずが、指の隙間が閉じられなくて、差し込む残酷な光に否が応にも目の前の光景を見せつけられる。
部屋の中央の異質な見世物と、それに背を向けて、ディーナを気にする人々を。
異常だ。気にするべきは吊るされていた女と焼かれた首だろうに。
普通なら。
でもこんなこと、フェルレッティでは“いつものこと”なのだ。
わかっていたはずだったのに。油断しないでと、警告されていたのに。
それなのに、愚かな自分ときたら、笑顔で歓待されて、優しくされて、受け入れられたと思って、安心して。
それでつい。
――それで、つい?
(……違う)
頬に当たった硬い感触に、我に返る。
右手の中指に嵌めた、エメラルドの指輪。
中に隠されているのは、部下を死の恐怖で縛る毒薬だ。
――嘘だ。
“つい”忘れていたはずは無い。従僕に毒を飲ませる家だということを、忘れられるはずがない。
わかっていたのだ。
『地獄で後悔しても、もう助けてあげられない』
あのときの自分は、彼女が助からないことを、予見していた。
わかっていて、見捨てたのだ。
なぜ?
簡単だ。
彼女がフェルレッティをあざ笑ったからだ。
アウレリオを、かつてのディーナを侮辱した人間に、自分は罰を与えようとしたのだ。
さながら、女王のように。
わかっていた。
否。
自分は、思い出してきていたのだ。
――自分のために、誰かが毒見するのは当然と思うほど、この身は“ディーナ・フェルレッティ”に戻りかけているのだ。
「っ、ディーナ様!」
立ち上がると、ディーナは人ごみをかき分けて、広間を飛び出した。
どこをどう通ってきたのか。
無我夢中で走って、気がつくと礼拝堂の前にいた。
(ここにいちゃいけない)
明かりのついていない中に入る。相変わらず椅子は無い。
空っぽの祈りの家は、綺麗で閑散としていて、それがついさっき念入りに掃除されたからのように思えておぞましかった。
ディーナは燭台に火をつけて手に持ち、祭壇を通り越して、地下室へ続く扉にとびついた。靴下どめに隠していた鍵を引きずり出す。鎖が絡まって一緒に出てきたロザリオを睨みつけて、首にかけると、扉の鍵を開ける。
(早く逃げなきゃ、戻らなきゃ)
階段を降り、地下室にたどり着く。広間でも嗅いだ甘い匂いがここにも充満していた。
おそらく、これは死体の匂いをかき消す香料なのだ。
その証拠に、周囲には人ひとり入れる木箱がいくつもいくつも並べられている。
ディーナは一瞬目を瞑った。鍵をビーズの輪に引っ掛けて首に通すと覚悟を決め、地下墓地の先に進もうとし。
「ディーナ!」
背後から腕を取られた。
「……テオ」
振り向いて、肩で息をする男の名を震える唇で呼ぶ。その拍子に、ぼろりと涙が溢れてきた。
「落ち着け、ディーナ」
「テオ、ここから逃げましょう!」
「ディーナ……」
肩に手を置き宥めようとするテオドロの腕を払い、逆にディーナは燭台を持たない方の手で、その体に取り縋った。
「早く、一刻も早く! でないと、わたし、ここにいたら……」
ここにいたら、ディーナ・トスカは死ぬ。
ディーナ・フェルレッティに、殺される。
生まれ変わったと思ったのは気のせいで、ほんの数日あれば、自分は簡単にもとの残酷な女に戻る。
テオドロの言ったとおりだった。十年間この家から離れていても、生まれ持った悪魔の素質は消えてなんかいなかった。
今ならまだ間に合う。今ならかろうじて。
「お願い」
泣きながら懇願するディーナに、テオドロは瞠目して、それから一度口を引き結んだ。
女の腕を自分の二の腕から優しく外し、頬を伝う雫を撫でて払うと、噛んで含めるようにゆっくりと口を開いた。
「……この奥、行き止まりの壁に、隠し扉がある。蛇の彫り物が目印で、押せば回転扉となって石造りの地下道に出られる」
橙色の灯に晒される男の顔は、青ざめてはいたが、穏やかそのものだった。ディーナは必死に相手の説明を頭の中で描く。
「その道は、途中が落盤で塞がっているように見えるから屋敷の人間は使わない。でも向かって右手に石を模倣する小さな扉があって、そこから続く階段を上れば外の墓地に出られる。墓地の管理人小屋にいる男が待機してる軍の仲間だから、テオドロの協力者だと伝えて」
そこまで聞いて、ディーナはハッと目を見開いた。
「……一緒に来てくれないの?」
問いに答えはなかった。
「あなたのことは話してある。元が赤毛であることも。金髪は水で何度も洗うか、専用の薬液をかければ簡単に落ちるから、それで今夜のうちに以前話した隔離施設へ」
待って、とディーナは悲痛な声でテオドロの説明を遮った。
「テオは?」
「僕は行けない」
「駄目よっ」
言われたことが信じ難くて、ディーナは一歩相手に詰め寄った。
「この状況でわたしだけ逃げたら、あなたは殺される! バルトロの末路を見たでしょ!?」
外に聞こえるかもしれないと危惧する余裕もなく、半狂乱で縋る。テオドロは、それを眉一つ動かさず見下ろしていた。
「お願い、わたしと一緒に逃げて、置き去りになんてさせないで。ねえ、何もあなたが残らなきゃいけない理由なんてないんじゃないの? あなたは帳簿の隠し場所を知ってる、指輪の毒薬も手に入れた、それを軍に報告するだけじゃだめなの? その情報をもとに、フェルレッティと戦うのは、ほかの人に」
「駄目だ」
「テオ!」
「僕はここを離れない。あくまでテオドロ・ルディーニは腹心の部下だったことにしないと、次に潜入する人間は今以上に警戒される。人質を出すよう言われるかもしれない。あるいは殺すためだけに招かれて、軍への見せしめにされるかもしれない。もとより途中で任務を放棄することなんて、僕には許されてない」
頑なな声に、ディーナがひく、としゃくりあげる。どうして、と声にならない言葉を唇で描く。
一人で行きたくなかった。頼れる誰かにそばにいて、“大丈夫”と言って欲しかった。
なにより、とどまれば死ぬと分かっていながらその道を選ぶテオドロの決意が、ディーナには理解できなかった。
そんな心の内は、テオドロには筒抜けだったのか。人形のように動かなかったその顔に、困ったような、悲しそうな色がわずかに浮かんだ。
それを見て、ディーナはまた口を開きかけたのだが。
「……僕の父親は、“外飼い”の一人だった」
もたらされた一言に、すべての動きが止まった。




