31 【幕間】深夜残業
14、15話の後あたりです。
ディーナが迎えの男たちとともにディアランテの邸宅に現れ、当主と晩餐をともにした、その夜のこと。
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ゴツッと鈍い音が響き、続いてドッと重いものが倒れる気配がした。
「勝手な行動をするなというのがさ、私の統治における最重要条項なんだ」
アウレリオはそう言って、礼拝堂の床に横倒しになったルカ・ベラッツィオのわきにしゃがみこんだ。
そして、たったいまその頬骨を打ち据えた銃の先端を横腹に押しつける。殴られる直前にも強く蹴られていたそこを押されて、ルカは口から少量の血を吐いた。
「今回はさっさとディーナを連れてきてほしかったから、おまえの帰りを待たずにテオドロを向かわせたんだよ」
銃口がぐり、と押し込まれる。相手が息を詰まらせる様子を、アウレリオは淡々と眺めていた。
「それなのに、なーんで一日出発を遅れさせてる。おかげで妹が列車で危険な目に遭ったんじゃないか」
そう言うと、空いた方の手の親指で祭壇の前を示す。そこには列車で捕らえた襲撃犯の生き残りが、両手を縛られ、猿轡を嚙ませられて転がっていた。
青ざめ、こわばった表情で自分たちを見つめるその男を忌々しげに一瞥したのち、ルカは荒れた息の合間に低い声を漏らした。
「……出発のための準備がしたいと言ったのは、テオドロで」
声が途中で消える。銃口がいっそう深く脇腹を抉っていた。
「ルカくん」と、主人は緑の目を細めて酷薄に告げる。
「なんのための序列だと? テオドロたちと合流した時点で、決定権はおまえにあったのに何うまく丸め込まれてんの? あの子が列車で怪我でもしてたら、おまえ今頃犬のエサになってたわけだけど?」
息もできず青い顔のルカは、一向に抵抗しない。
それを、アウレリオは体温のこもらない目で見下ろす。砂のような、無味乾燥の眼差しだった。
「私はおまえのことは気に入ってるんだ。ただでさえ幹部はおっさんばっかりなのに、平均年齢をさらに押し上げるような真似はやめてくれ」
ようやく、銃口がわき腹から離れる。
「……まぁ、テオドロと“入れ替え”られるんなら、平均はあんまり変わらないか」
呟きに、ルカの青い目が見開かれた直後。
銃声が響き渡り、部屋のすみにいた襲撃犯が体を慄かせた。
――ルカはぎこちなく首を巡らし、身をよじった。弾は手首を戒めた縄だけを器用に裂いて、床を焦がしたようだった。
「なに。死んだと思った?」
「……」
「あいにく、まだおまえには仕事がある」
起き上がるように促されると、ルカはよろけ、横腹をかばうようにしながら床にひざまづく姿勢をとった。
「まずは明日の朝、ディーナにこの薬の使い方を教えて来い。二回目からの分になるかな」
そう言ってルカの目の前に放られたのは、天鵞絨の小箱だった。開けなくても、中身が当主家族の側近に与える薬が仕込まれた指輪だとわかった。
「一応教えておくが、おまえに飲ませてるのとは別物だから、横取りしても意味ないぞ」
「……そんなことはしません」
「いい子じゃん」
嘲りでも皮肉でもない響きを耳にして、指輪の箱を手に取る。
気に食わない。
ルカの、テオドロ・ルディーニに対する所感は、その一言に凝縮されていた。
本心を見透かせない従順な態度も。
一年足らずで主人の側近くに仕えていることも。
年上の自分と並ぶと、相手の方が年かさに見られることも。
ディーナ・フェルレッティ付きに、抜擢されることも。
――もしこれを自分が捨てたら。
思うやいなや、ルカは無駄な考えだと打ち払い、立ち上がった。
薬を奪うより、もっと確実な追い詰め方がある。
「……アウレリオ様」
「なんだね」
主人の声音は、部下を痛めつけていた先ほどと寸分変わらない。
「……テオドロが見つけてきたあの女、金髪は染めかもしれません」
「なんでそんなこと知ってる? 眉まで金色だったのに。下、見たのか?」
「……俺が見つけたときは頭髪が赤かったんです」
声の固くなったルカに、アウレリオはああ、と軽く応じた。
「聞いた。テオドロから、赤毛に染めてうちからの追手を逃れようとしていたと」
「逆だと思います。テオドロは赤毛を金髪に染めるために、出発を一日遅らせたと俺は見ています」
ルカは主人の反応を待った。
待って、――しかし、返答は予想よりずっと早く、短かった。
「ふうん」
ルカは数秒待ってようやく、それ以外の応えが得られないことに気が付いた。
「……それだけですか?」
「何が?」
「……ディーナ・フェルレッティ様は金髪では」
「彼女も金髪だろ? 染めてたから赤毛だっただけで」
「信じるのですか、あの二人の言葉を。サンジェナ島からの報告もあるのに。……甘くないですか、テオドロ・ルディーニに」
噴出しそうな感情を意思の力で抑えつけた声に、アウレリオが息だけで笑う。
「なあルカくん。この話、長引かせると自分がさらに殴られるだけだってわからんかね?」
ルカが黙ったのを確認すると、アウレリオは目を祭壇の前、聖母子像の足元に向けた。
拘束されたまま身をよじるしかない、列車の襲撃犯に。
「サンジェナの件は後回し。さて、残業というにも遅すぎるが、本日最後の仕事だ。やるからにはせめてスムーズに終わらせたいものだよ。……そう思わない、青年?」
男は、傍目にはほとんど怪我をしていないように見えた。しかし、その瞳には色濃い恐怖が浮かんでいる。
手足は拘束され、背後は窓のない壁。逃げ場もないのに、少しでも目の前の男から距離をとらんとするようにその巨体をよじって床の上を這いずろうとしていたが、膝が動かせないのか、何か痛みを感じたようにくぐもった悲鳴を上げた。
その悲痛なさまを見ても、アウレリオの目にはなんの感情も浮かばない。心得たルカが男の猿轡を外し、その顔を二度、強く殴りつける。
「ロビオ家からのおつかいだって? テオドロ相手にずいぶん吐いてくれたみたいだから、別にもう聞くことはないんだけど、私は仕上げは自分でやる主義でさ。労働は美徳だって、小さい頃に神父様から教わったもんだから」
うめく男にアウレリオが淡々と話しかけていると、礼拝堂の入り口付近からものが床を擦る音がした。
襲撃犯の胸倉を掴んだままのルカが視線を送り、アウレリオも手に持ったままの拳銃を肩にとんとんと乗せて、振り返った。
「ああ、そういや、おまえはもう用が済んだんだった。お疲れ様」
聖母子の見つめる中、二発目の銃声が響き渡った。
時計が三時を回るころ、礼拝堂は静かになった。ぴくりとも動かなくなった男に「まあこんなものかね」とアウレリオがため息まじりに呟いた。
「片付けは明日、出勤してきたテオドロにやらせる。そこで最初の一錠も私が手ずから飲ませよう。で、ロビオ家に対する報復は、おまえに任せるから。……ラウラもう寝てるかな、寝てるよなぁ」
心底残念そうにぼやいたあと。
「……そういや、明日は慈善コンサートか」
呟き、男は白い手を胸の前で組んだ。
「……『神よ、この男の罪深い行いを許したまえ。肉体から離れたその魂に、安らぎを与えたまえ』」
低い声で祈りを唱え、苦悶に見開いた骸の目に手を伸ばし、瞼を下ろした。それからさっさと血にまみれた手袋や上着を脱いでルカの腕に押しつける。
そのとき、突然アウレリオが体を前に屈めた。
がぼっ、と口から吐瀉物が溢れ、ルカが声を上げる。
「アウレリオ様!」
慌てたルカを手で制する。
下を向いたまま、しばらくアウレリオは逆の手で胸をおさえていたが、程なくして、ゆっくり上体を起こした。
「何でもない。夕飯でちょっとふざけたせいだ」
とはいえやりすぎたな、と不機嫌そうに呟くと、首のタイを引き抜いて口を拭き、床の汚物の上に無造作に払い捨てた。
「ふざけて?」
「ちょっと試してやろうと思ったんだけど。いや、体張るとこ間違えたな」
それから、施錠された扉付近に打ち捨てられていた“もう一つの遺体”のことを思い出したように目を向ける。
「……残業ついでにもう一仕事だルカ。そっちの男は、先に片付けておけ」
「こちらだけ先に?」ルカの目が、先に撃たれて物言わなくなった男に向かう。
「そう。死体二つともテオドロにやらせたら、終わるまで時間がかかって、一人待たされるディーナが不安がるだろ。ただでさえこっちのはぐちゃぐちゃで、片付けが大変なのに」
その気遣いに、ルカは痣が浮いた顔をあからさまにしかめて、床の吐瀉物に目を向けた。
「こっちもテオドロに任せていいですか」
「……おまえねぇ」
肩を揺らして笑ったあと、アウレリオは外の見張りに下女を呼ぶよう伝えた。




