30 フェルレッティというもの 後
残酷描写タグはこの話のためにつけています。(ぬるいですが)
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戻ってきたテオドロは、ディーナがドレスに身を包み、髪も結ってしゃんと座っていることに目を見張った。
「心配しないで、勝手なことはしてないわ。指輪の薬を持ってきたニコラくらいしか、部屋にあげてないし」
「……酒、抜けたのか」
余計なことを言わないでおこうとしたディーナは、テオドロの呟きにすぐに投降した。
「ごめんなさい、本当はベルナルドとルカも来たわ。わたしが二日酔いの薬を頼んだから」
「ベルナルド……そうか、だからか……」
テオドロの目が、足元をさまよう。不用心だと怒られることを覚悟していたディーナは、続く相手の言葉に驚いた。
「……こっちこそ、すまない。強い酒だ、飲み慣れてないなら辛かったろう」
拍子抜けしたディーナが顔をあげると、気遣うような灰色の目にぶつかる。
どこか痛々しく見えるその表情に、唐突にディーナは気がついた。
テオドロは、ディーナを昼間大人しくさせるためではなく、夕方からの幹部会を欠席させるために、あの酒を飲ませたのだと。
――昨夜からずいぶん心配しているらしい。ディーナ自身以上に。
状況をかんがみれば当然だが、かえってディーナの内にはむくむくと奮起するものがあった。ニコラたちの言葉が支えとなっていたのもある。
「心配しないで、わたし堂々とするから大丈夫よ。それより、バルトロや、もうひとりのディーナのことは、何かわかったの?」
「ああ。いや……」
歯切れの悪い返事。逸らされた眼差しが陰を帯びたように見えて、ディーナは一転して胸がざわついた。
「テオ?」
「――なんでもない」
そう言うと、テオドロは最後の確認とばかりに、ディーナの髪や眉毛に染め残しがないか確認し始めた。
***
昨日テオドロが倒れた広間は、楽団が音楽を奏で、料理が並ぶ宴会場と化していた。
しかし、なぜかいつも煌々と輝いているシャンデリアは、いささか光が弱く薄暗い。その上、ディーナには嗅ぎ慣れない甘い香りが漂っていて、会場全体にどことなく妖しい雰囲気が流れている。
ただ、酒を手に思い思いに過ごしている出席者は、男女ともにリラックスした表情である。その光景は、ともすれば貴族が身内に開いた華やかな夜会のようだ。
入り口で深呼吸したディーナも、テオドロに手を引かれて中に踏み込む。
近くにいた何人かが、赤地に黒いレースの透かしを重ねたドレスの女に気づいて道を開ける。
進む先に、出席者の中でただひとり椅子にかけて周囲の挨拶を受ける銀髪の男がいた。傍らには、チャコールグレーのマーメイドドレスを着たラウラもいる。
事前にテオドロに言われた通り、歩く間、ディーナはすれ違う誰とも口をきかず、視線もくれなかった。
“なるべく周りを見ないで。アウレリオによる紹介が終わったら長居も無用だ。あなたは周囲を気遣う立場じゃない”
(それで大丈夫かしら)
とはいえ、十年前のディーナもまた、いつ何時も勝手気ままに過ごしていた。らしいといえばらしい。
でも、あのときと違い、今この空間の支配者は自分ではない。
歩みが止まり、エスコートしていたテオドロの手が離れる。
「ご機嫌麗しゅう、伯爵」
ディーナが膝を折って声をかけると、アウレリオは顔を上げて微笑み、立ち上がった。
「ああ、とても美しいね」
言葉と同時に差し出されるグラスを受け取り、ディーナは促されるままに体の向きを変えて、会場に向き直った。
出席者たちの視線が集まっているのが、薄闇越しにもよくわかる。ニコラやベルナルド、ルカの姿もあった。
「喜ばしい日だ。我が妹、レディ・ディーナの十年ぶりの帰還を祝して」
アウレリオの言葉で、広間が拍手に包まれた。異議を唱える声はどこからも聞こえてこない。
承認された。自分がこの男の妹だと、認められた。
「おかえりなさい、楽しんで」
アウレリオが耳元でささやく。緑の目がそれこそ楽しそうに細められていた。
あまりにもあっさりことが進んで、ディーナは逆に固まっていた。
問題は何も起きていない。テオと自分の憂慮は無駄だったのか。
ただ。
(……あの子はどこ?)
懸念は、サンジェナ島から来たディーナとバルトロの姿が、どこにも見当たらないことだ。
やがて喝采が収束に向かい、兄妹の周りから引いていた人波がまた動き始める。
あたりを見回せば、壁際にいるテオドロが目に入った。すました男が一瞬だけ扉を指し示す。
ディーナはその意図に小さく頷いた。
幹部会に出る目的は達成された。あとは人ごみに乗じて広間を出てしまおう。
だが、歩き出したディーナの背後で、アウレリオが上機嫌な声を上げた。
「さて。そろそろ我らの姫君をもてなす今夜のメインのお披露目といこうか!」
パンパンと手を叩く音に、ディーナはやむなく足を止める。振り返ってもアウレリオは別の方向を見ていたが、間違いなく自分のために作らせた何かが出てくるのに、無視して立ち去る度胸もない。
寄る辺なく立っていると、そばにラウラがやってきた。
「何が出てくるの?」
気まずさもあったが、手打ちにしろと言われていたこともあり、ディーナは問いかける。
しかしラウラは何も言わず、嫌そうに眉をひそめて自身の首を指し示した。ドレスと共布のリボンチョーカーがくるりと巻かれた細い首を。
「……?」
意味を問おうとしたところで、広間の扉が開き、男性使用人が銀色のワゴンを押して入ってきた。またどよめきと拍手が起こる。
衆人の注目を集め、湯気をまとって登場したのは、ドーム型の大きなパイだった。表面も花や葉、小鳥に形作った小さなパイ生地で飾られた金色のそれは、直径三十センチはあろうかと思われた。
――珍しい。伝統的だが、優雅というよりは素朴な料理だ。
使用人が大きなナイフを真ん中に入れる。刃は、半球の中心部を避けるような動きをして、切り進んでいった。桃の種を避けるときのような動きだ。
「あれですよっ、ロレーナ様」
いつの間にか、そばにベルナルドが来ていた。
「昼間お話した、特別な日の晩餐。いえ、食べはしませんがね、観賞用なので」
「観賞用?」
「はい。いやぁ食べられないでしょう、さすがに」
切り終えた使用人が、ナイフを抜き、ソースを拭う。
別の使用人が、真ん中に入った切り口に、大きなナイフとフォークを差し込み、それぞれを脇にずらした。
中からごろりと出てきた大きな肉を、客に見せるように。
「……なぜ?」
ディーナの問いに、医師が答える暇はなかった。
「ちょっと見づらいね。明かりをつけよう」
アウレリオの声に応えて、シャンデリアが輝き始めたのだ。
光に誘われるように、ディーナは天井を見上げ――。
垂らされた水晶片の向こうの、見開かれた薄茶色の瞳と目が合った。
「え」
鼻を突く、甘い香り。
幾本ものアームが張り出すシャンデリアには、四肢を投げ出してそこから宴会場を見下ろす、金髪の女がいた。
否。乗せられていた。
会場がざわめく。
好奇の声で。
「緑の目だと聞いていたが」
「瞳に薄い色ガラスを載せて、色を変えていたらしい」
珍しい動物を見るような声で。
「ほら、見えますか? あれに使われているのが、僕が再現した“裏切り者のスパイス”ですよ」
ベルナルドの、褒めてほしそうな声がした。
シャンデリアの真下、ワゴンの上。
切り分けられたパイ生地の真ん中に現れた、口元に傷のある男の首を指し示して。
――シャンデリア、ワゴンと移った視線を、ディーナは横に立つラウラに向けた。
醒めた目で見返すラウラが、チョーカーを摘んで首から浮かせる。
リボンの下の、黒い、金属製の首輪が、ディーナにも見えるように。
『怒られたの』
口の動きだけで、女は言った。
だから今は口がきけない、とその目が語る。
――ディーナは、体の震えが抑えきれなくなっていった。
「こんな楽しい夜に、仕事の話なんて無粋なんだが」
高揚する宴会場の空間に通る、アウレリオの億劫そうな声。
「明日から、暗殺中心の幹部仕事を引き受けて、焼け落ちたアルボーニ邸の後始末にサンジェナ島まで行ってくれる働き者はいないかね」
会場が、さざめくような笑い声で満たされる。
シャンデリアと皿の上の“裏切り者”を前にして。
驚くことではない。
ディーナは知っていた。
ここにいるのは悪徳の一族。
フェルレッティ家とは、こういうものだと。
「――ああああああああァッ……!!」
それでも、口を押さえる指の隙間から、断末魔のような悲鳴が漏れるのを堪えられなかった。




