3 蛇の知らせ
「……ええ。ディーナ・トスカが、わたしの名前ですが」
ディーナが動揺を押し殺したことは伝わらなかったのか、男の様子は変わらない。
「このあたりには多い名前か?」
「それはもう、赤ちゃんからおばあさんまで」
「……失礼だけど、あなたは何歳?」
つくづく暗闇で助かった。ディーナはこわばった口元を相手に悟られないことに感謝した。
「十九歳です」
平静を装って答えると、じゃあ、といくぶん低くなったように聞こえる声がさらに尋ねてくる。
「ディーナという名で、同じくらいの年の、金髪の女性に心当たりはある?」
見えていないのも忘れてディーナが首をふる。男は気配で察したのか「そう」とそれ以上は突っ込んでこなかった。
「それより」
男の顔が階段に向いたのが、声の調子でわかった。予想以上にあっさり話題がそれて、安堵と同時に拍子抜けする。
「いいのか。まだ今なら、大声を出せば開けてもらえると思うが」
「……あなたみたいな不審者を、ここのみんなと関わらせるわけにいきません」
それはまぎれもなく本音だった。
「不審者ね。鍵を持ってた男たちだって、相当な悪党だったけど」
「悪党って……鍵を持ってた男たちって、いったい誰なんですか?」
「誰って」
身をよじっていた男が、突然黙った。
沈黙はディーナが違和感を覚えた直後に破られる。
「……寝てる間に、僕に何をした」
心当たりはそう多くなかった。戸惑いながら答える。
「腕とお腹の切り傷なら、消毒して包帯を巻いておきました。切り傷は浅かったから大丈夫だと思うけど、たくさんある痣は、あとに残るかも……」
昨夜、脱がした男の体は傷だらけだった。血の滲んだものから、塞がったばかりのようなもの、無数の古傷のあとまで。やたら多様性に富んでいて、ディーナは唖然としたのだ。
幸い、骨が折れた様子はないと見て、医者は呼ばなかった。
男のいる位置から、ため息のような音が漏れる。
「わりと面白いこと言うね。僕は痣が残るのを気にしそうか」
「……怪我の血が止まっていても、食事はしないと体力が戻りませんよ」
「は?」
「だってあなた、食べ物持ってないでしょう。閉じ込めたのは、わたしだし」
そう言ってトレーを置いたベンチを見遣る。
不審者とはいえ、本意ではない結果にはしたくなかった。
それに、ここは教会で、自分は見習いとはいえ神に仕える者。あの状況でやるべきことは、決まっていた。
とはいえ、おかげで朝から食べていないディーナの腹がくうと鳴った。
「そう」
男の声と同時に、地下室の空気が動いた。気まずく思ってお腹をおさえていたディーナの前を、人の気配が通り過ぎていく。
嘘。この男、拘束といてる。
硬直したディーナをよそに、男は迷いのない足取りで階段を上っていった。
「ひとつ聞くけど、鍵を外部の人間に渡したのは、あなたじゃない?」
「そ、そんなことするわけないじゃないですか」
「……じゃあもう一つ聞くけど」
外開きの戸に体重を預けたのか。木製の扉が金属とぶつかる音がした。
どういうつもりか。かんぬきが嵌っているのに。
「手、縛ったまま、僕どうやって朝ごはん食べればよかったの?」
今度はディーナが沈黙した。また、男が強く押したのか、扉が再び細い悲鳴を上げる。
「…………す、スプーンを、こう……パンをちぎってこう……」
「拘束して世話する趣味? ほんと倒錯的だな」
「好きでやるんじゃないったら!!」
「冗談だよ。シスター」
笑いを含んだ声から、先ほどまでの刃を潜ませたような恐ろしさは消えていた。また、扉の軋む音がする。
「……見習いだから、シスターじゃないです、不審者さん」
些細なことを訂正したとき、ディーナの耳に、バキンと固い音が届き、地下室に光が差し込んだ。
「テオドロだよ。手当てと食事、ありがとう。……怖がらせて悪かった、ディーナ」
扉と壁の隙間を縫って入り込む陽光が徐々に太くなり、男の黒髪を茶色く照らす。
灰色と思った目も一瞬青く見えたような気がした。
唖然とするディーナを階下に残して、テオドロと名乗った男はするりと外へ消えていく。
扉には、錆びて、古くなったかんぬきが力なくぶら下がっていた。
食器を片付けたディーナは、ひとりきりの礼拝堂のベンチで物思いに沈んでいた。膝の上の手の中には、ロザリオがひとつ。
それは通常の十字モチーフと異なり、裏から見るとはっきりと剣の形を模していた。剥き出しの刃の部分には、下に向かってまきつく蛇の模様が彫られている。
(……とうとう来たと思ったのに、驚くほどあっさり立ち去っていったわ)
教会にも、修道院の中にも部外者の気配はない。テオドロはあのまま出ていったのだろう。
もしかしたら、入れ墨だと思ったものは暗がりで見間違えただけの痣か傷だったのかもしれない。
願望に過ぎないとわかっていても、ついそうやって昨夜からの出来事を矮小化しようとする自分の浅ましさを、自覚せずにいられなかった。
――たとえあれが見間違えでなくても、どうか。
(神様、どうかこの先も、平穏な日々をお守りください)
ディーナが目を閉じて祈りを深く捧げたとき、背後で扉がゆっくりと開く音がした。手の中のものを素早く首にかけて服の下に隠すと同時に、複数人の足音と衣擦れの気配が続く。
「おや、ディーナ。体調はもういいのかい?」
「おかえりなさい、神父様。……すみません、もう大丈夫です」
ならちょうどよかった、と言った老神父は、笑顔を消して眉をひそめ、不安げな顔つきになって足を早めてきた。
「今修道院のみんなで話していたのだけど、実は、さっき街で怖い話を聞いてね」
「え……」
「運河で遺体が見つかったんだ。男性ばかり、三人も」
ディーナの鼓動が大きく乱れた。
「……誰なんです」
「それがわからないんだよ。この辺りでは見たことのない方々だそうで。喧嘩でもしたのか、体中傷だらけ痣だらけで、三人とも致命傷だったのは首の切り傷だと。なんて恐ろしいことだろう」
胸の嫌な高鳴りがどんどん大きくなる。
凍りつく見習いに、しかし互いに顔を見合わせる神父とシスターたちは気が付かない。
「それでも、引き上げたときにお一人はまだかろうじて息があったのだけどね。すぐにお亡くなりになったそうで」
「助けたジャンさんが言うには、その人、いまわの際でなにか呟いてたそうです。蛇、がどうとか」
蛇。
「不吉なことだ。蛇に噛まれた傷でもないらしいのに」
「神父様、なにか怪しい薬物でも使っていたのかもしれませんよ。よそ者ですし、王都では若者の間でそういう危ないものが流行っていたりするらしいし」
ディーナは、途中から神父たちの話を聞いていなかった。
それより、震えそうになる膝が折れないよう、気を失わないようにするので、精一杯だった。
「それより、しばらくはわたしたちもひとりで外出しないほうがいいって話になったから、あなたも気をつけるように」
彼らには、思いもよらないだろう。
死んだ男が口にした“蛇”を、ディーナも見ていただなんて。
己の尾を噛む蛇のしるし。それを、ディーナがあのテオドロという男の首で見つけていただなんて。――それより、ずっと前からその存在を知っていただなんて。
それは、大貴族“フェルレッティ家”の配下の証であることだなんて。
慈善家として知られるその家が、人を殺して運河に捨てることに、なんの抵抗もない悪魔のような家だなんて。
その家の人間から渡された“蛇と剣のロザリオ”を、ディーナが十年間ずっと隠し持っているだなんて。
(……逃げなきゃ)
次の慈善バザーの打ち合わせに話題を移した神父たちを前に、ディーナは無言で決意を固めた。
――逃げなきゃ、またやってくる。今度こそ、殺される。
ディーナ・フェルレッティがここにいると、バレたらまた。