26 口から
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昨日、テオドロはアウレリオから渡された薬を吐き出したと言っていた。
今日渡した薬は偽物だった。
だから倒れる理由はない。
それなのに、駆け込んだ広間の片隅で、ディーナは横たわる黒髪の男を見つけて息が止まりそうになった。
周囲の男たちを押し退けて、その頭の横に座り込む。青ざめ、冷や汗をかく男がディーナをみて一層目を見開いた。
「テオ、なんで!? し、しっかりして!」
「薬持ってるだろ! 出せ! 誰か水もってこい!」
どうして? いつ毒を飲んでいたのか?
やっぱり一日目に吐ききれていなかったのか、もしくは別のものに薬が混ぜられていたのか。
混乱しながら、ルカに急き立てられて指輪の石に指をかける。急いでいるせいで何度か滑りながら、中から白い錠剤を取り出した。
「飲んで!」
口の中に押し込むが、うまく飲み込まれていかない。周囲の誰かが差し出した水をひったくるように取り、喉奥めがけて流し込む。が、自力で嚥下する力がないのか、薬がまだ喉奥に引っかかっているのがわかった。
「なに、テオドロが倒れたって?」
背後から聞こえてきた間延びした声はアウレリオだった。
毒を飲ませた張本人の登場だったが、構っている余裕はない。テオドロが手を伸ばしてくるのを「待ってて!」と制して、ディーナは自らグラスの水を呷った。
仰向けにした、相手の顔を両手で挟み込む。無我夢中だった。
「ディ……」
何かを言いかけて薄く開いた相手の唇に、自分のそれを重ねる。
テオドロの手がディーナの腕を掴んでいたことにも気が付かず、一度唇を離したディーナは鬼気迫る顔で叫んだ。
「死なないで! わたしのこと、絶対守るって約束したでしょう!」
テオドロの目が、必死になって喚くディーナの顔をぽかんと見上げている。いつも冷静沈着なその目に、天井からの明かりが差し込んでいる。
と同時に、ディーナの頬に、あたたかな熱が添えられる。ほんの一瞬、男の口元が和らいだ。
「――そう、そうだよ」
濡れた頬を、テオドロの指が拭っていく。知らない間に、涙を流していたとようやく気付いた。
「申し訳ありませんディーナ様、お気を煩わせて」
従者らしくそう言って、テオドロはもう片方の腕で自身を支えて起き上がろうとした。ディーナも後ろから肩を掴む手に促され、よろよろと身を起こした。
「お、起きて平気なの……?」
「……飲んだんなら大丈夫だろう」
戸惑う問いに、ルカが答える。安堵というよりは疲労の滲む声だった。
周囲ももう関心がないのか、波が引くように人が離れていく。その中で、膝をついてテオドロの背を支えるニコラが「ベルナルドのもとに一度行ったほうがいい」と勧めていたが、テオドロは身を起こしたきり立ち上がらず、口元をおさえていた。
ディーナは、まだ気分が悪いのかと眉を寄せて顔を近づけた。テオドロは、そのタイミングを待っていたかのように、口だけで「部屋に」と囁いた。
「……とにかく、一度わたしの部屋に戻りましょう」
きっぱり言い切ると、ルカもニコラも、背後に立って一部始終を見ていたアウレリオからも引き留める声は出なかった。
「お呼びに?」
尾を振る犬のような顔で現れたベルナルドも、ディーナは首を振って追い払った。
***
肩を貸そうとするニコラの申し出を断って、自力で歩いてきたテオドロに続き、ディーナも部屋に入る。
廊下に誰もいないのを確かめてから、扉を閉め、そこに耳をつけ、しばらく神経を研ぎ澄ました。
「……大丈夫、誰もいないわ」
ディーナの部屋に戻りたがったテオドロが、人払いを望んでいるのはわかっていた。
けれど、本当にこちらに連れてきて大丈夫だろうか?
やはり知識のあるベルナルドに診せた方が良かったのでは。
胸のうちに残る不安とともに、ディーナが室内を振り返ると。
――男はミルクを冷やすために用意されていたアイスペールを窓の外に突き出し、中の水と氷を外に捨てていた。
「へ?」
呆気にとられるディーナをよそに、テオドロは無言でアイスペールをテーブルに戻し、そして今度は塩の小瓶を取り上げ。
蓋をもぎ取るように外し、中身をグラスの水にためらいなく投じ。
塩が白く沈むグラスの中を、自身の長い指でおざなりに混ぜ。
そうして、濃い塩水で満たされたグラスを一気に呷り。
空のアイスペールに顔を突っ込み、胃の内容物を勢いよく吐き出したのだった。
「……ラウラが持ってきた薬が偽物なのも、呼び出しが僕とあなたを引き離すための細工なのも気がついてた」
「……」
「倒れたのは演技だ。誰かが本物の薬を持ってきたら、飲んだふりで一命をとりとめたことにすればいい」
「……」
「これがラウラの独断なのは明白だったから、わざとルカが近くにいるときに倒れた。奴の顔の痣は十中八九アウレリオによるものだろうし、なんで怒らせたか知らないが、昨日の今日だ。今は主人の意に沿わない事態を引き起こしたくないはずだから」
「……」
「誤算は、奴がベルナルドではなく、あなたを連れてきたことだった。いやまさか、僕も、そうなるとは思わなくて」
「…………」
「……見苦しいところを見せて悪かった。あの、大丈夫?」
口をゆすぎ、アイスペールを片付けてきたテオドロは、やや気まずそうに謝罪した。
話が進むにつれてへなへなと座り込み、やがて額を床につけて這いつくばり、頭を抱えてしまったディーナに向かって。
――飲ませる必要のない毒を、むりやり飲ませたディーナに向かって。
彼が、ディーナをラウラと二人きりにするときに言った『気を煩わせないで』という言葉は、『これから起きることを気にしないで』の意味だったのだ。
わかるか。
「……指輪の薬がどんなものなのか、テオは最初から……?」
「まあ。アウレリオに代替わりしてから、幹部が何人か中毒死らしき方法で始末されてる」
「……だから、中毒症状も知ってたの……?」
「……そうだな、中毒症状を見たことがあったから」
「……わたし、結果的に、あなたに毒を、」
「吐いたから問題ない。成分の分析には、明日の分を回すよ」
「……余計なことして、ごめんなさい」
「あなたは悪くないし、かえって僕の演技に信憑性が増した」
うずくまったままで、聞き取りづらいだろうディーナの問いに、淡々と答えが返ってくる。
まるで、たいしたことは何も起きていないと言いたげに。
だからディーナも、そこで黙ればよかったのだが。
「…………く、くちうつしで」
「あの、この話、長引かせるとあなたが辛くない?」
テオドロの苦笑いがとどめとなって、ディーナは床に向かって恥と後悔に塗れた苦悶の声を絞り出し始めた。




