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23 冷たい手


 頭上からの声は重く、ディーナは戸惑いながら答えた。

 

「執務室よ」

「なんでそんなところに? 誰かに呼び出された?」


 ディーナはぶんぶんと首を振った。


「こ、今夜はアウレリオがいないから、チャンスだと思って」

「ひとりで行ったっていうのか?」


 手を掴む力が、一層増した。ディーナは骨のきしむ感覚に思わず眉をひそめたが、見上げた先のテオドロの表情に息を呑む。


 薄暗闇をものともせず、前髪の隙間から射抜いてくる眼光。それはいつも、フェルレッティ家のことを話すときのテオドロの目に宿るもの。

 それが、今は目の前のディーナに向けられている。ディーナ・トスカに。


 焦りと緊張が体に舞い戻ってきている。そう感じながら、ディーナは貼り付きそうになる舌をなんとか動かした。


「ええ、わたし、そこで証拠の隠し場所を見つけられたと思うの。鏡の裏よ」


 ディーナはそのまま執務室で見たものを、侵入者が来たことまで含めて一気に話しきった。――少しでも間を開けたら、テオドロの緊迫した雰囲気に飲み込まれて、何も言えなくなりそうで。


 だが話し終えても、テオドロは黙りこくったままだった。ディーナは不確かな情報も恐る恐る付け足す。


「その侵入者、背格好とかはわからなかったんだけど、不思議な香りをさせてたの。うまく言えないんだけど、知ってるような……ありえないんだけど、レベルタでときどき、嗅いでいたような気がして」

「……なるほど。わかった」


 ディーナは、相手がまったく喜んでいないことをひしひしと感じ取っていた。


「……誰にも見つかってないわ」

「だろうね。見つかってたら死んでる」


 ぞっとするほど低い声に、喉が詰まる。


「いや、多分まだ死んでない。楽には殺されず、今まさしく拷問の真っ只中にいたかもしれない」


 これまで、男はディーナを極力怖がらせないように、聞かせる言葉を選んできていた。

 その気遣いが、ここにきて消えている。

 怒っているのだ。ディーナは心臓が縮こまるのを感じた。


「今夜は、部屋から出るなと言ったじゃないか。証拠を、積極的に探したりしないでと、何度も言ったじゃないか」

「でもあなたは今夜、動けなかったから、」

「だから、ここを動くなって言っただろう」

「そうだけど、でも何かしたくて」

「僕はあなたに協力してもらっているけれど、それはアウレリオの妹のふりをすること、ただそれだけだ。帳簿やリストの話をしたのは、こんなことをさせるためじゃなかった」


 テオドロの声はけして荒々しくはない。けれど、その言葉のひとつひとつが、水責めのようにディーナを圧迫していく。

 息苦しい。

 自分の言いたいことが伝わっていないのも感じて、ディーナはいたたまれなさにもどかしさを募らせ始めた。


 今は、隠し戸棚の鍵のことを考えるべきだと思うのに。

 なのに。


「期待してるとでも思ったのか? 僕が、あなたに手先となって動いてもらうことを」

「っ、わたしだって、別に手柄が欲しくてやったわけじゃない、危険だってこともわかってたわっ。だから慎重に動いたし、実際に誰にも捕まらなかったし、それに、」


 弾かれたように言い返したディーナの口を、大きな手のひらが瞬時に塞ぐ。ディーナは我に返り、外には見張りがいると思い出した。

 

「……どこかに連れて行かれたのかと思った」


 ディーナが黙ったことと、廊下でなんの異変も起きていないことを確認するための沈黙を、テオドロはゆっくりと破った。


「フェルレッティに嘘がバレたのか、それともフェルレッティの敵がここまで来て攫っていったのか。生きているのか。死んでいるのか。生きていても、どんな目に遭っているのか。何もわからなかった。

 ディーナ、フェルレッティ家への潜入は、僕が初めてじゃない。過去にも何人も試み、そしてみんな失敗して、死んだ。あなたが思うより、任務はずっと難しくて、危ないんだ」


 テオドロの言うことは至極まっとうだ。

 ディーナが十年間ここにいたことを知る由もないのだから、今夜のことを軽挙だと怒るのも、無理はない。


 沈黙の中、ディーナは無力感を噛み砕いて飲み込むと、小さな声で謝罪した。


「勝手なことをしたのはわかるわ。心配させて、ごめんなさい」

「二度としないでくれ」

「……ええ」

「これからは、僕の言うように過ごしていてくれ。なるべく早く、ここから出られるようにするから」


 ここから出る。もとの生活に戻る。

 そのために必要なのが、フェルレッティを完膚なきまでに潰すこと。

 

 ――それは、十年間家から離れていたディーナ・フェルレッティだって例外ではない。


「でもあなたは、鏡の裏に気がついてなかったじゃない」


 気がつくと、ディーナは自分でも驚くほど低い声でそんなことを言っていた。


 でも事実だ。隠し戸棚は、ディーナがかつてここで暮らしていたからこそ、気がつくことができた。

 ディーナ・トスカが、ディーナ・フェルレッティだったからこそ。

 

「それは、」

「ねえ、今夜はどこに行ってたの?」

「それは知らなくていい」


 固い声。ディーナは自分の予想を確信した。


「どこかで人を殺したの?」

「なんでそう思った」

「手が冷たい。血が冷たいみたいに」


 ぴくり、と、まだディーナの左手を掴んでいたテオドロの右手が動く。それを、解放されていたディーナの左手が上から抑える。


「あなたはアウレリオを極悪人みたいに言うけれど、あなたとあの人とが、どれほど違うのかが、わたしにはわからない。目的があれば、あなたにとって殺しは罪ではないかのよう」 


 ディーナ・トスカにとっては護衛でも。

 ディーナ・フェルレッティにとって、この人は暗殺者だ。


「あなたはフェルレッティに罪を償わせたいの? それとも、できるだけ自分で手を下したいの? 結果が同じなら、なるべく後者を選びたいように見える。だからリストや帳簿の場所がわかっても、嬉しくないように思える」


 言葉は次々に口から出てきた。自分でも明確に思っていたわけではないことが、考える間もなく形を持って並べられていく。


 掴んだ手は冷たいまま、それ以上動こうとはしなかった。


「ここにいるあなたを突き動かすものが、わたしには、任務でも正義感でもなく、憎しみのように見える。とにかく、誰かを殺したがっているみたいに」


 ――月が雲に隠れた。

 完全な闇が、互いの目の色も、視線の位置もわからなくさせる。


「殺したがり、か」


 するりと、テオドロの手がディーナの手から抜け出ていく。


「否定はしづらい。実際、僕はこの任務の中で必要とする犯罪行為は、事後にも罪に問われないことになってる。それこそ殺しも」


 テオドロの声は、相変わらず一定の落ち着きを保っていた。


「……今夜はフェルレッティの一員として、列車襲撃をけしかけた組織のアジトへ報復に行っていた。人も死んだよ。新聞にも載るだろう、フェルレッティとは結び付けられない形でね」

 

 ディーナの背後で、バルコニーのカーテンが揺れる。ガラス戸がかすかに開いていた。


 月明かりが戻りはじめる。部屋に差し込む無機質な光に、男の首から下の輪郭が浮かび上がる。

 着崩れて露出した首すじに刻まれた蛇も、あらわになる。


「今朝、僕がしていた仕事。雑務だと言ったけど、実際には昨夜礼拝堂で拷問死した、襲撃犯の骸の後片付けだ」


 ディーナは何も答えなかった。テオドロも、ゆっくりと話しながら、答えを待とうとはしなかった。


「もしかしたら明日の朝、僕はアウレリオから命じられて、変わり果てたあなたを礼拝堂から片付けていたかもしれない。そうなっても、僕は顔色ひとつ変えずに仕事をこなす。もし奴らからあなたとの協力関係を問いただされても、嘘をついてやり過ごす。潜入任務を続けるために」


 部屋に、夜風が流れ込んでくる。

 

「……あなたを守れなかったとしても、罪には問われないだろうけど」


 カーテンが擦れる音とともに、月光の差し込む位置が変わる。


「この部屋に来て、あなたがいないと気づいたときの、僕の恐怖がわかるか」


 冷たい光は首を離れ、その顔を一瞬だけ、青く照らした。


「……八つ当たりだ、すまない。僕のやることがあなたの信頼に値しないのは、僕の責任なのに」


 それから、テオドロは返事のない部屋の中に向かって、少しだけ穏やかな声を出した。――なにかを諦めたようにも聞こえる声だった。


「隠し戸棚の鍵には心当たりがある。すぐに調べるよ。見つけてくれて、ありがとう」





 男は、窓から出ていったのか。気がつくと、部屋にはディーナ一人が残されていた。


 そうなってようやく、ディーナは正気に戻れたような気がしていた。

 というのも、どっと後悔が胸に押し寄せてきたからだ。


(わたし、どうして、あんなことを言ってしまったの)


 手が冷たいから、血が冷たい?

 そんなわけない。


『また手が冷たくなってきた。緊張が抜けないか』


 あの人は、緊張していたのに。

 ディーナの身を案じて、恐怖していたのに。


『殺したがり、か』


 否定しづらいと言っていた。

 そんなはずないのに。

 そのことを、ディーナは知っていたはずなのに。


 ――巻き込まれた一市民を、むざむざ抗争のど真ん中に置き去りにしたりしない。


 ――そういう人のために、命張るのが僕の仕事で、存在意義だから。


 自分がここに来た理由は、彼が“人を助ける人”だと知っていたからなのに。


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