21 好機
***
「ルカたちがいるとゆっくり見られない」
護衛を撒いた理由を、アウレリオはそう話した。やはり何も悪いと思っていないような態度だった。
「戻りましょう! きっとテオが心配して探してる」
「させとけ。それが仕事だ」
どうしよう。
立ち並ぶ露店の前でやきもきしながら、ディーナは眉を下げて周囲を見渡した。
周りはほかの客が動く壁になって幾重にもかさなっている。テオドロと言えども、見つけるのに時間がかかるかもしれない。
アウレリオはというと、ガラスケースに並べられた装飾品を興味深そうに眺めている。
どうせうかつに動けない。ディーナはため息をついて、兄の隣に並んだ。
「……ラウラさんに買っていくの?」
「いや~あの子はお嬢さん育ちだから。ブティックの奥にしまわれてるような高級品以外を贈ったら“とうとう破産したの?”って聞いてくると思う」
「……じゃあ、何か欲しいものでも?」
「いや、十年ここにいる割に、ちゃんと見たことなかったから」
そう、と答えて、視線をガラスケースの中に向ける。本物の宝石を使っていると店主は話すが、粒が小さいのでそんなに高いものではないだろう。
いや、でもシスターには贅沢品だ。
「ディーナこそ、なんか欲しいものでもあった?」
「え、あ、いえ」
言われて、自分が小さな緑の宝石が埋め込まれたラペルピンを見つめていたことに気が付いて、すぐに視線を動かす。
けれど相手にはしっかり見られていたらしい。
「エメラルド? フェルレッティ家の人間に縁遠いなぁ」
「え、そう?」
ディーナの頭には、今朝ルカを通して渡された仕込み指輪のことがあったのだが。
「癒しの守護天使の色じゃん」
「ああ……」
確かに、得体のしれない薬を持ち歩く一族にはふさわしくない。ディーナは乾いた声で同意した。
ところが、アウレリオは“縁遠い”と言ったのとまったく変わらない調子で店主に声をかけた。
「それはいくら?」
ディーナは驚いて、隣に立つ兄を見上げた。
「使うの?」
「うん」
「あなたが使うには……安物じゃない?」
店主に聞こえないよう後半は声をひそめる。
するとアウレリオは、鼻歌でもうたいそうな機嫌のよい笑顔を向けてきた。
「妹がお兄様に選んでくれたものに安い高いはないだろう」
「……」
「……もしかして別の男にあげたかったやつ?」
「違うわ」
眉を寄せて否定すると、「じゃあ私がつけても問題ないね」と兄は笑った。
別に、誰かに贈るつもりで見ていたわけではない。
けれどいやに楽しそうな横顔に、ディーナは水を差すようなことは言えなかった。
(なんのつもりなの)
ディーナは混乱していた。アウレリオ・フェルレッティの考えていることがまるでわからない。
なんだか、本当に妹と会えて嬉しそうに見える。
“油断しないで”。
そんなことを言われても、一体何に気をつければいいのか。食事に毒は入っていなかったし、出かけても、二人きりになっても何もされないのに。過去にディーナを殺そうとしたのすら、本意ではないと言われたのに。
テオドロに見えているアウレリオと、ディーナに見えているアウレリオは、まるでかけ離れているようだ。
けれど、ディーナ・トスカをフェルレッティから守ってくれるのはテオドロだ。彼に従うのが、平穏な生活に戻る唯一の“隠し通路”だ。
――でも、じゃあ。
ふと、自分の中で、別の声がささやいた。
――隠し通路に入らずに、生きていくとしたら?
(そんなこと、ありえないわ)
問いかけを即座に否定する。隠れない生き方なんて、ありえない。自分が本当は誰なのか、見破られることは平穏の消失を意味するのだから。
――でも。
家族が一緒に暮らすのは普通だろう、と言われて、何も思わなかっただろうか。
(……当然よ。あの人を、家族だなんて、思ったことはない)
ディーナは心の内の声をもう一度、強く否定する。
教会の、街のみんなに愛される、平凡なシスター見習い、ディーナ・トスカ。テオドロが、必死になって守ろうとする善良なもの。それを、自分自身がないがしろにするわけないではないか、と。
そう自分に言い聞かせると。
――でもそれは、偽りの姿じゃない?
どくん、と。
鼓動が内側から耳を打つ。
胸の内のささやきは、ディーナ自身の声に似ていた。酷似したその声は、静かに、絡みつくように、硬直したディーナの思考に絡みつく。
――生まれたときのままの自分を。
ディーナ・フェルレッティを、望んでくれるのは――?
「ディーナは何か欲しい?」
言われて我に返る。ぼうっと見つめていた顔から目を逸らすと、ショーケースのすみに置かれたラピスラズリのロザリオが目に入った。青は聖母の守護の色だ。
青。
『あなたは 罪深い 蛇』
「……いらないわ。何も」
そこでようやく、付き人たちが二人に追い付いてきた。
「……すみません、テオドロの反応がにぶいせいで」
「ルカさん案外足が速くないらしくて、遅くなりました」
見失ったことを神妙な顔で謝る二人に、アウレリオは「はいはい」と笑うだけで、とくに叱らなかった。
――だが、その日一番の衝撃を秘めた話は、帰りの馬車の中で聞かされた。
「そうそう。私は今夜は宴会に招かれているから、夕食は一緒に食べられないんだ」
そう、とどうでもいいことのように答えたディーナの心臓は、さっきとは別の意味で激しく高鳴っていた。
今夜、フェルレッティ邸は、屋敷の主人が留守になる。
これは神の思し召し、かもしれない。
***
屋敷に戻ると、アウレリオは出迎えたニコラやベルナルドに「ディーナに指輪のお返し貰った。何かって? 秘密」と上機嫌に言いふらしていた。
自分が買ったわけじゃないと慌てて訂正しようとしたが、そこでラウラが現れてアウレリオがまた深いキスを始めてしまい、何も言えなくなる。
『貴族って人目を気にしないものね』と呆れつつ照れつつ、ディーナは逃げるように階段を上った。修復から戻された絵画の放つ、真新しい絵具の匂いを感じながら。
しかし部屋に戻ると、テオドロから思いもかけない言葉を聞かされた。
「仕事? これからってことは、夜まで?」
「ああ。ルカの仕事への同行で外に出ることになった。あなたはこの部屋から、けして出ないでくれ」
わずかに硬い表情のテオドロが部屋を出ていこうとする。ディーナは慌てて食い下がった。
「い、いつ頃戻るの?」
「何日もかかるわけじゃない。夜明けよりは早いだろうし、なるべく急ぐけれど」
夜明け。
そこまで待ったら、アウレリオは屋敷に戻ってきているだろう。
ディーナは迷った。
だが、決意はすぐに固まった。
「気をつけてね、テオ」
微笑めば、応えるようにテオドロもかすかに目元を和らげる。
そしてその唇から、予想外の言葉が出てきた。
「……クロスタータ、今年も作るの?」
ディーナははたと固まり、そして思い当たった。大聖堂でのアウレリオとの会話を受けての問だと。
「え、ええ」
こんな事態になっていなければ、そのつもりだった。今も、レベルタのシスターたちがレースを編みながら、フィリングに使うジャムの味を話し合っていることだろう。
それがどうかしただろうか、と首を傾げていると。
「じゃあ、」
テオドロは口を開き。
――それから、声を発することなく唇を閉じ。
そしてすぐにまた口を開き直した。
「……ここから、早く帰さないとね」
優しい声だった。ディーナを安心させようとするときのものだと、この数日で身をもって知っている。
だがディーナには、テオドロがたった今別のことを言おうとしたように思えた。
けれど、そのことを問い詰めさせまいとするように、テオドロはすばやく身を翻し、音も立てずに部屋を出ていった。
仕事のことも言いかけてやめた言葉も、気にはなったが、ここで心配していても仕方がない。ついていくわけにもいかないのだから。
それに、自分にもやることがある。ディーナはそっと深呼吸すると、拳を握りしめて己を鼓舞した。
――真夜中。
誰もいない当主の執務室に、ディーナは単身忍び込んだ。