2 後ろめたい朝
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「ではご夫人、またお昼ごろに来ますから、しばらくは無理に動き回っちゃだめですよ」
そう言うと、ディーナは持参した薬や包帯を籠の中に戻して老婦人の家を出た。
ジャスミンの花の香りがただようポーチを通って、つるばらのまきつく門を出たところで二人のシスターと合流する。
「ご苦労さま、ディーナ。夫人の具合はどうでした?」
年配のシスターの問いに、ディーナは「相変わらずお口は達者で」と少し笑って答えた。
「なら良かったです。お一人住まいで足を怪我したとなると、不便で気がめいってしまうでしょうから」
「だから言ったじゃないですか、シスター長。夫人なら心配ないですよぉ」
安堵のため息を吐くシスター長に、赴任して間もない新入りシスターのエヴァが笑いかける。ディーナは籠の中身を整えながら同僚たちを見ていた。
海沿いの街レベルタのシスターたちは、毎日のように民家や学校、病院での奉仕活動に手分けして従事している。ディーナは今日、怪我をした一人暮らしの老婦人のもとへ、様子見とともに朝ごはんを作ってきたのだ。
このあとは、合流した三人で街の学校に行き、シスター長が聖書の授業をするのをサポートする予定だ。
昼には教会のみんなの食事を作って、それからまた老婦人の元へ行き、午後は病院の慰問。
バザーのための針仕事は隙間時間で進めていかなくてはならない。
(……困ったわ。空き時間がない)
俯いたディーナに、エヴァが声をかけてきた。
「ディーナ、もしかして、あなたも具合が悪いの?」
えっ、と顔を上げると、シスター長も同調するように「そういえば、朝からずっと上の空ね」と頷いた。
「心なしか顔色も悪いし、朝ごはんもろくに食べてなかったでしょ。大丈夫なの?」
エヴァにさらに畳みかけられ、二人に見つめられ。
ディーナはとっさに答えていた。
「そ……そうなんです。ちょっと、いえ、その……実はかなり頭が痛くて」
「まぁ!」
「早く言いなさいな!」
驚きの表情になった二人は、眉を寄せて額を抑えたディーナに修道院へ戻っているよう強く言った。
「授業のお手伝いは気にしないで。買い物だってあたしが行ってくるし、休んでなさい」
「あ、ありがとう、シスター・エヴァ」
「いいのよ。それよりディーナ、あたし昨日何か言ってた? なんか寝付く直前にやらなきゃいけないことがあったような気がしたんだけど」
「………………なにも?」
それから咳き込んだディーナを、二人は「夏風邪はたちが悪いから、ゆっくり休んで」「神のご加護を」と労わって学校へと向かう。
「……神様、この浅はかな嘘をどうか、お許しください」
二人が角を曲がって見えなくなるのを確認するなり、ディーナは脱兎のごとく駆けだした。
街の片隅の、女子修道院が併設された古い教会。そこは神父やシスターたちがそれぞれの活動に出ている時間には、閑散として人気もない。
そんな礼拝堂の端に、かんぬきのはまった粗末な扉があった。前髪以外をベールで隠す見習い姿の女が、周囲を気にしながらそこへ近づいていく。
扉を開けたディーナは、残しておいた朝食のトレーと薬箱を持ち、地下に続く階段を下りていった。早朝つけ直した壁の燭台の火は、まだかろうじて残っている。
嘘で奉仕活動をさぼるなんて、この十年間のディーナには考えられないことだ。
罪悪感と緊張を抱え、そして埃がスープに入らないよう気を配りながら、夏でもひやりとした地下室に降り立つ。
「……起きてますか? 朝ごはんは、食べられそう?」
かつて地下墓地として使われたそこは、今は物置である。そこに昨夜、ディーナは意識のない男を台車で運び込んでおいたのだ。
このことは誰にも知らせていない。確認しないといけないことがあるからだ。
(……返事がない。まだ寝てる?)
奥へ進むと、男は昨夜の体勢のまま、床に横たわっていた。ろうそくの明かりに、土に汚れた黒い髪が浮かび上がる。
ディーナは体から力を抜いた。
トレーをそばのベンチの上に置いて、薬箱だけを手に男のそばで膝をつく。そして、包帯を換えるにあたり、後ろ手の拘束をどうしようと固まり。
やがて、昨日床に引き倒されたことを思い出すと、結局戒めは解かずに男のシャツのボタンへと手を伸ばした。
「そういう趣味か、シスター」
「わっ!!」
乱れた前髪の隙間から、突然アイスグレーの目が現れて、ディーナは飛びすさった。
逃げるように距離をとったディーナに構わず、男は不自由な両手のまま、苦も無く身を起こした。
「……お、起きてたなら、何か言ってください……」
「何するつもりか気になって。まさかそういう嗜好とは思わなかった」
唸るディーナに、軽口とともに男が微笑む。拘束されているというのに、まるで緊張感のない様子だった。
だがディーナは、その灰色の目が油断なく自分やその周囲を観察していることに気づいていた。
「そんな遠くにいないで、こっちにくればいい。見ての通り、あなたからされない限りは何もできない」
「わ、わたしだって何もしません」
「どうだか」
腕を戒められたまま肩をすくめる相手に、ディーナは迷った。縄を解いたその瞬間、また危害を加えられないとも限らない。
ディーナは近づかず、まずは最優先の目的を果たすことにした。
「……この教会に、何をしに来たんですか」
「雨宿りと、お祈りに決まってるだろう」
むかっときた。どこの宗派にシスター見習いを気絶させる祈りがあるというのか。
(……それとも、わたしの正体を知ってたから?)
二つ目の質問に際し、握りしめた手が汗ばんでくるのを感じた。
「……わたしを襲ったのは、なぜ?」
「僕が休むため。ちょっと疲れていたものだから」
「引き倒して薬を飲ませた理由を聞いてるんです」
「見られてると眠れない。繊細なんだ」
ふざけないで、と視線に非難を込める。
「……どうやって、教会の扉の鍵を手に入れたんですか?」
怪我を手当したとき、男の衣服の下からナイフや拳銃、液体の入った小瓶とともに、見慣れたバラと十字の彫り物の鍵を見つけて仰天したのだ。もちろん回収してある。
男は悪びれることもなくあっさり答えた。
「拾った」
「そんなわけないじゃないですか!」
「本当だよ。昨夜僕に絡んできた男たちが落としていったから、拾っただけ」
絡んできた男?
不可解な答えに眉を寄せると、男が視線を合わせてきた。思わず身構えてしまう。
「今度は僕から聞いていいか。君こそ、なんのつもりでこんなことしてるのか」
「……もうじき警吏が到着します。引き渡す前に、気になることを聞いておくだけです」というのは半分嘘だ。誰も来ない。
「確かに薬は飲ませたのに、どうやって先に起きた? 仲間に起こされた? その細腕で、いつ目を覚ますかもわからない僕をここに運ぶなんて、ひとりでできたわけないね? ……仲間は何人だ」
気がつくと、ディーナは逆に尋問されていた。刺すような眼差しに晒されて、思わず素直に答える。
「どうやってって、く、薬を吐き出しただけです。ハンカチに吐いて、それをあなたの口に突っ込んでおけば、起きないだろうしって」
「えっ……ほんとに特殊な趣味だなシスター」
「すっ、好きでやったわけないでしょ! ちゃんと拭いたし、いえあの、だから協力者なんていないって言いたかったの!!」
とっさに大きな声を出してから、青ざめて口をおさえた。
しまった。
「ディーナ?」
階段の上から聞こえてくるのは、菜園担当のシスターの声だ。
慌てて階段中腹の燭台の火を吹き消し、男のもとに舞い戻って口をふさぐ。そうしてる間に、地上の声はさらに増えた。
「あらシスター・ベルタ、どうかしましたか?」
「あら、早かったのねシスター・エヴァ。ねぇさっき、人の声がしなかった?」
「いえ忘れ物しちゃって。声なんて、あたしはなにも聞こえませんでしたけど」
「気のせいかしら」
良かった、エヴァが鈍感で。そう思った瞬間。
「あら、かんぬきが開いてる。あたしかしら、そそっかしいから」
ルームメイトのそんな声とともに、かちゃ、と金属の触れ合う音が響いた。
ディーナは暗闇の中、男にしがみついたまま凍りついた。
「閉められちゃった……!」
外からしか開けられないのに。呟いたディーナの胸が焦りではやる。
「ねぇ」
そこへ、至近距離からくぐもった声がした。しがみついたままだったことに気がついて、声を出した男から急いで離れる。
「ディーナって、あなたの名前?」
聞かれて、すっと背筋に冷たいものが走った。