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19/50

19 氷菓子


 ディーナの散策と称した抜け道の確認を終えると、二人は邸内に戻った。


「……あの、もう一人のディーナ・フェルレッティが、サンジェナ島で見つかったって言ってたけど」


 オレンジ味のグラニータを前に(懐かしいわ)と思いながら、ディーナは昨晩さわりだけ聞いたことを改めて切り出してみる。


 サンジェナ島は国の西の海に浮かぶ島だ。レベルタも西海岸の街なので、海を隔てた隣近所といえる。


「ああ、別件でそこに行った幹部が見つけて、連絡してきたらしい」

「テオは、その人を本物だと思う?」

「十歳児の水死体ならね」


 さらりと言われた言葉は、なかば予想していたものだった。好物だった、冷たい柑橘の味が霧散する。

 けれど、このときのディーナは、恐れの中にテオドロへの疑問を生じさせていた。


「ねぇ、テオはなんでディーナ・フェルレッティの死をそこまで確信してるの? アウレリオの指示だからだとしても、サンジェナにいるその幹部はディーナが生きている可能性を多少は考えているみたいなのに」


 座りもせずに調度品を調べていたテオドロから返事はない。本の少ない書棚から、一冊出してはパラパラとめくって元に戻す音が、規則的に繰り返される。


 まずいことを聞いただろうか。ディーナは焦って言葉を付け足した。


「あの、本当に本物が来たら、わたしの身の破滅だから」

「わかってる。……地下に遺体があるって言っただろう」


 答えは振り向くこともなく寄越された。

 本当に、それだけだろうか。

 テオドロが自分のことを信じてくれているのは助かる。

 けれど、この慎重で冷静なテオドロが、こうまでディーナの死を疑わないのも妙な気がした。実際にディーナが生きているだけに。


「に、偽物の遺体だったり、とかは」

「なぜ?」


 逆に聞き返されて、ディーナは一瞬、言葉を見失なった。


「なぜって――」

「なぜディーナ・フェルレッティを殺した“ふり”をしなきゃいけない。そんな無駄なことをしても、誰も得しないのに」


 答えを待つこともなくたたみかけられて、今度こそディーナは押し黙った。


 背中を向ける男の声からは、感情を窺うことができない。その頑なな様子は、喉をおりていった氷菓子以上の冷たさを伴っていた。


 確かに、そんなことに何の意味があるのかと言われれば、それまでだ。

 しいて誰かに得があったとするなら、遺体があると思われたおかげで今日まで追われなかったディーナ本人ぐらいで。


 ――まさか。


「例えば、ディーナ・フェルレッティ本人がこの家から逃げるために、側近を巻き込んで一芝居打ったというなら別だけど」


 考えが同じところに行きついたことに、ディーナはハッと身を固くしたが。

   

「でも、その可能性は低い。ディーナ・フェルレッティは死ぬ直前にも、外出先で見かけた青い目の子どもを、犬猫のように欲しがっていたとされている。とてもその夜逃げるつもりだったとは考えられない」


 そこまで言ってから、テオドロはようやく振り向いた。

 振り返ったその瞬間こそ、瞳には凍てつくものがあったが、ディーナと目が合うとすぐに表情をやわらげた。


「遺体は河に浸かっていたせいで人相が変わっていたみたいだけど、ディーナ・フェルレッティの特徴だった金髪の持ち主だ。本物は、もういない。間違いないよ」


(……それが、何よりの偽物の証拠なのに) 


 思っても、口には出せない。ディーナは曖昧に頷いて、またひとさじ、氷菓子を口に運んだ。


 ディーナには、テオドロがディーナ・フェルレッティの死を疑っていないというよりも。


 そうでなければならないと、こだわっているような気がした。



 *** 



「お出かけしよっ」


 嫌ですと、言うわけにもいかなかった。


 貴族らしい、新鮮な魚介をふんだんに使った昼食の席で、アウレリオから大聖堂で行われる慈善コンサートに誘われたのだ。一体いつのことかと思ったら今日このあとだと言う。


「断っても良かったんだ」と、身支度のために部屋に戻れば、テオドロが顔をしかめた。だがディーナにしてみれば、悪事の証拠を探すと決めた以上、相手との接近の機会を逃す手はない。

 嫌だけど。


 

 貴族たちが出資した楽団と聖歌隊のコンサートは、街の中心の大聖堂で行われた。

 聖母子像や街の守護天使像が見下ろす礼拝堂に、並んだ少年少女たちの讃美歌が響く。

 建物前の噴水広場では出資者たちが用意した美しい細工物や、修道士たちが作った金の箔押しの護符が売られていた。この日の売り上げは鑑賞者たちの寄付とともに教会の福祉事業や修繕費に回される。


 フェルレッティ家は、慈善事業の一環として代々この教会に多額の寄付をしてきた。そのため、大聖堂に赴く際は常に賓客のひとりとして二階のバルコニー席を使うことができた。


 まるでオペラハウスにいるかのように、楽隊と一般鑑賞者たちを見下ろしながら、ディーナは苦い記憶の一端が蘇るのを感じていた。


 ――十年前に、この街で過ごした最後の日は日曜日、ミサの日だった。

 あの日も、ディーナは今日と同じように、二階から民衆を見下ろしていた。女王のように。

 そこで見つけたものを、あれ、と指さしたのだ。

 後ろに控えていた、側近のひとりに。


 そうだ。

 あのときそばにいたのは、外飼いの――ディーナを運河に落とした、あの男だった。


 服の下に隠したままのロザリオが重く感じられた。息苦しさに耐えるように、ついさっき用意された真新しいロザリオを握る手に力を込めた。


 よりによって、なぜここに。

 アウレリオも知っているのだろうか。妹が失踪した日がミサの日だったと。

 軍が、テオドロが、それを知っていたのと同じように。


 ――苦々しい追憶から戻ってきたのは、すぐ隣から聞こえてきた穏やかな呼吸の気配のせいだった。


 ディーナは複雑な顔で首を巡らせる。

 一般祈禱者の使うベンチとは大違いの、座面に柔らかなクッションが貼られた肘掛け付きの椅子で、足を組み、頬杖をついて目を閉じる男の方へ、目を向ける。


 隣に座る兄は、どう見ても寝ていた。


「……あの」


 おそるおそる声をかけてみるが、伏せられた長いまつ毛はぴくりともしない。

 振り返って、背後に立つテオドロに“どうしよう”の気持ちを込めて視線を送ってみる。が、ルカや他の付き人同様に、彼は何も気づいていないかのようなすまし顔を掲げるだけだった。

 ラウラは来ていない。

 この罰当たりな寄付者と同じ立場なのは、この区切られた小さな区画では自分だけだ。


「……」


 放っておいたほうが楽だ。

 でも、十年修道女見習いとして過ごしたディーナには、神聖な場での居眠りというのはどうにも見過しづらかった。


「お、起きて」


 意を決して、ディーナはアウレリオの肩を揺らした。心なしか、背後で“やめとけ”と囁かれたような気がしたが。



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