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17 幹部、『ニコラ』


 屋敷の構造は、記憶の底にあったものとたいして変わっていなかった。玄関広間に面した絵画が修復画家の手で下ろされる横を通り、一階のテラスから庭園へと降りる。


「出口は二つ確認できてる。そのひとつは、昔からの貴族らしく、礼拝堂の地下から外につながる隠し通路だ」

「礼拝堂?」


 言われてみれば確かに、庭の奥には離れとも倉庫とも違う建物があった気がした。


 しかしそこを礼拝堂として使っていた記憶はない。毎週日曜日には、街中の大聖堂に連れて行かれていたはずだ。

 疑問に思っていると、テオドロが振り向きもせず呟いた。


「ミサは行われない。地上は拷問部屋、地下は正規の墓に入れられない死体の保管室だから、あなたの祈りの場所には向かないだろうな」


 黙り込んだディーナを伴って、テオドロは庭を進む。


「ディーナ・フェルレッティの遺体もそこにある。公には存在しなかったことにされて、……」


 突如、テオドロが口を噤んだ。ディーナにもその理由はすぐにわかった。

 人がいる。年は四十がらみだろうか、褐色の髪を後ろになでつけた、堂々とした体躯の紳士然とした男だ。


 ――口ひげの下で煙草を咥える、その横顔を見た瞬間、ディーナの体がこわばった。

 

(会ったことが、ある)


 知り合いはいないはずだったのに。


 凍りついたディーナに、テオドロは素早く耳打ちした。


「ニコラ・テスターナ。各地の“外飼い”の監視と彼らとの連絡を担う幹部で、ディーナの母方の叔父だ。顔見知りではあるだろうが、あなたから話しかける必要はない。相手の挨拶に軽く応じる程度で」


 叔父。だからか。

 ディーナが固まる理由を知らないテオドロが、宥めるように背を軽く叩く。そして自分から男に近づいていった。


「おはようございます、ニコラさん」

「ああ、テオドロ。おはよう」

「東部の拠点へ、離反した外飼いの制裁に行ったと聞いてましたが、もういいんですか」

「ああ。仕事は片付いたんだが、休む間もなく伯爵に呼ばれて、とんぼ返りさ。で、そちらは……」


 テオドロの横に立つディーナの方を向いた、ニコラの目が細められる。

 ディーナは耳の奥で心臓の音を聞きながら、言われた通り、黙ってその視線を見返すにとどめた。


「なるほど、“一人目の”レディ・ディーナというわけだ」

「ニコラさん、“本物の”お嬢様の前ですよ」

「そうだった。いえ、女性は十年もあれば見違えるほど変わってしまう。――ご無礼、お許しを。レディ・ディーナ」


 ふっと笑って、ニコラは煙草を捨てた手を胸に当て、ディーナに礼の姿勢を取った。

 視線が自分から逸れたすきに、テオドロがかすかに頷いたので、ディーナも答える。


「構いません。叔父様もお元気そうで、何より」


 言って右手をニコラの前に差し出す。心得たように、二コラはそれをとって指先に軽く口づけた。


「しかし、一緒にいるということは、テオドロがディーナ嬢付きに?」


 テオドロが肯定すると、ニコラは意外そうに眉を上げてから、破顔した。


「それはそれは。伯爵がお気に入りを手放したことにも驚くが、よりによってそんな配置換えを! これでまたルカからの当たりがきつくなりそうで、君も気苦労が絶えないな」


 よりによって、という言葉に、ディーナが眉を寄せる。すると、ニコラは屈むようにして、わざとらしく人の耳を避けるように「もともと、お嬢付きはルカのはずだったんですよ」と囁いた。


「まあ」


 なるほど、だから朝のあの態度――いやあれは前からだ。


「知らなかったわ、……わたしの要望で、テオに付いてもらったから」

「“テオ”……」


 ニコラがディーナとテオドロを交互に見た。


「こりゃ、ルカは立つ瀬がないな」

「……だって彼、粗暴なんだもの」

 

 悪いことをしたような気になったディーナの言い訳に、ニコラは弾かれたように笑った。


「さてはテオドロ、ずいぶん分厚い猫を被ったな?」

「運が良かっただけです」

「そう思ってないのが丸わかりだから、ルカが腹をたてるんだ!」


 男二人で話が進んでいくのを前に、ディーナはだんだん別の居心地の悪さを感じ始めた。

 別に、テオドロが顔立ち通りの優しい男でないことは、ディーナにもわかっている。なにせ初対面で睡眠薬を流し込まれたのだから。


 だがテオドロを選ぶ理由を詳細に語るわけにもいかないので、ディーナはむっつりと口を閉じた。

 

「ああ失礼。レディの繊細な感情をからかうのは野暮というものでしたな」

 

 たいして悪いと思っていなさそうなニコラは、そう言って話を切り上げにかかった。


「私を含めた正式な幹部の紹介は、招待客の到着を待ってからの幹部会で、となるでしょう。そのときに、また」


 にこやかに言って屋敷の方に向かう背中を見届けると、テオドロは周囲を見渡して「大丈夫、誰もいない」と囁いた。


「ええ。……あの人、昔からここに出入りしてたなら、わたしが偽物だって見抜いたと思う?」


 ディーナはニコラが消えた方向を気にしながら問いかけた。


「出入り自体は二十年以上前からしている。でも伯爵夫人になった姉と先代の夫婦仲がよくなかったこともあって、十年前はそれほど重要な立場にいなかった。そもそも外部との連絡役だから、屋敷に長居はしていない」

「そ、そう」


 確かに、二コラに会ったのはほんの数回だった気もする。


(本物だと、気づかれなかったなら、よかったけど……)


 考えてみれば、テオドロの前で自分を本物のディーナ・フェルレッティだと確信する人間がいるほうが、よほど危ない。

 こちらが“信じさせる”のはよくても“気づかせ”てはいけないのだ。


「あの人とは、あまり会いたくないわ。……む、昔の思い出話を振られても、わからないし」


 ディーナは、テオドロにニコラを遠ざけたい旨をそれとなく伝えようとした。テオドロは心得たというように微笑み。


「屋敷に立ち寄ったのは、アウレリオがディーナ・フェルレッティの帰還を側近たちに知らせるためだろうな。幹部会でのお披露目が済めば、ニコラはまたすぐ屋敷から出ていくだろうから、それまでの辛抱だし」


 体の前で握りしめていた白い手に、テオドロの大きな手が重なる。


「怯えなくて大丈夫。誰が相手であれ、僕があなたを守り抜くから」

 

 手から伝わるぬくもりが、ディーナに安心感をもたらす。頼っていい相手なのだと、触れた部分から緊張が解けていく。


 けれど同時に、うすら冷たいものを覚えてしまうのを止めることもできない。

 だってこの優しさは、“ディーナ・トスカ”へ向けられたものだ。


 もしも正体が露見したら、そのとき彼は、どんな目を自分に向けるのだろう。

 このあたたかな手が握るのは、不安がるディーナの手ではなく、冷たい拳銃になるのだろうか。


「……また手が冷たくなってきた。緊張が抜けないか」

「……」


 まさか、ディーナがテオドロに殺される想像で肝を冷やしているとは思いもよらないだろう。

 いたたまれなくて、ぬくもりから手を引き抜こうとしたそのとき。


「無理もない。こんな状況で、気をしっかり持つだけでも難しい。早く戻ろう、あなたのあるべき日常へ」


 ぎゅっと手を握られて、そのまま彼の唇に当てられる。

 ニコラのした挨拶とも違う、祈りを込めるような口づけだった。


 伏せた目の、まつげの影から垣間見える、苦しげで、切実な表情。


 ――明らかに、それまでとは異なる趣きで、ディーナの心臓が跳ねた。


「そ、そうね。わたしも証拠探し頑張るわ」


 心なしか、庭園がさっきより暑くなってきたような気がする。


 汗が背中を流れた。匂っていないかと恥ずかしく思えば、そんなことを気にする距離の近さを唐突に自覚してしまう。

 慌てて離れようとして、それでも強く握りこまれた手が抜けなかった。


「だからそれは頑張らなくていい。……体温、上がってきたね」


 ふっと笑われて、吐息がかかる。

 その生々しさに、ディーナは顔にカーっと熱が集まるのを感じた。


「リラックスできた?」


 緊張をほぐすためにわざとやったのだろうか。そう思っても、十年のシスター見習い生活では経験しようもなかった熱だ。介抱やボランティアで人に触れるのとはわけが違う。


 耐えきれなくなり、ディーナはテオドロから顔を背けた。


 ――おかげで、テオドロの表情が瞬時に険しくなったことに気づかず。


「ディーナ、ここを離れ――」


 ぱっと手を離した、と思うと今度は肩を抱かれ、悪化した距離感にディーナが目を白黒させたとき。


 二人のそば近くの茂みから、飛び出してきた影があった。

 

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