16 お兄様からの贈り物
***
ある朝から、世話係の女性使用人が変わっていた。
幹部のひとりに呼び出された者の姿が二度と見えなくなった。
屋敷のどこかで悲鳴が聞こえてくることもあった。
それらのすべてが、女王にとってはいつものことで、いちいち“無くなったもの”に心を割くことはなかった。
それより、幼い心の関心は“欲しいもの”にあった。
宝石、子犬、美術品。指さしたそれが他人のものであっても、周りは『すぐに』と言って用意してきた。
それがどんな手段で持ち込まれたかなんて、考えたこともなかった。
そんなだったから、あれは罰だったのだろう。
『あなた様の望むものを、』
最後に望んだ青い宝石は、手に入らなかった。
『あなたは、罪深い蛇』
『生まれ変わって、次はどうか、善良な人間に』
運河に落とされる直前、言われた言葉。願いの形で聞かされたのは、罪人への審判だったと思っている。
欲深い女王は死んだ。
「……そんなものに、いまさら、誰がなりすまそうとしてるの」
明け方、ひとりきりの寝室で、呟きは誰にも聞かれないまま消えていった。
「おはようございます、ディーナお嬢様」
着替えて、寝室から続きの間に出れば、朝食が配膳されたテーブルの傍らには予想外の人物が立っていた。ドアノブを握ったまま、ディーナはぎょっとして固まった。
「……な、なぜルカさんがここに? いえ、それより、その痣」
ルカの右の目の下、ちょうど頬骨のあたりに、殴られたような痣ができていた。
青紫色に変色した目元に目を瞠るディーナに、しかし当人は「お気になさらず」と、まるで痛みを感じていないかのような涼しい顔である。
「心配しなくても、テオドロなら朝の仕事を済ませ次第すぐにこちらへ来させます。その前に」
今心配したのはルカの痣なのだが。
ディーナの戸惑いをどう受け取ったのか、すまし顔のままルカはそう言い、そしてテーブルの上に大きな緑の石がついた金の指輪を一つ置いた。
「こちらを、あなたにお渡ししておくようにと、アウレリオ様が」
ディーナは指輪を手に取ってまじまじと見た。金の台座に支えられた、ディーナの爪ほどの大きさの石はエメラルドのように見えた。輪の内側、台座の裏に当たる部分に、テオドロやルカの入れ墨と同じ蛇の意匠が刻印されている。
黙って手の中でこねくり回していると、それまで黙って様子を見ていたルカが尋ねてきた。
「何に使うかはおわかりで?」
「え?」
とっさのことで、ディーナは何も取り繕えなかった。とたん、男の青い目が細くなる。ディーナは自分の軽はずみな反応に青ざめた。
「し、知るわけないじゃない! 十年前には、こんなのわたしのそばになかったわ!」
「……でしょうね。この習慣はアウレリオ様がこの家に来てから考案なさったそうだから」
ディーナは思わず目を丸くして男を見て、それから胸にじわじわと苦いものが広がるのを感じた。
罠にはめられかけたのだ。本物のディーナが知るはずもないのに、目の前のディーナが知っているふりをするかもしれないと。
「試したんですね」
「まさか。滅相もございません」
「……さっきから、その話し方はなんなんです?」
「アウレリオ様の妹君への、正しい言葉遣いかと?」
つまり、昨夜の晩餐を無事乗り切ったことで、ルカはディーナを主人の妹として認める気持ちになったということか。「お嬢様こそ、一部下に“さん”付けはなさらないでください」と言う慇懃な態度には、かえってとげも感じたが。
「これは常に身に付けておいてください。仕掛け指輪でして、中に薬が入っています」
「薬?」
「台座から石が上げられるでしょう」
言われて緑の石のふちに爪をひっかけるようにして力を入れると、確かに石は箱の蓋のように、片側だけ持ち上がる。
そしてあらわになった台座の皿の部分には、小さな白い粒が転がっていた。
「一日一回、この薬をテオドロに与えてください」
そう言ったルカは自分のベストから伸びていた鎖をたどり、懐中時計の盤面を確認した。
「本日の一錠は、アウレリオ様が八時にテオドロに飲ませているはずなので、ディーナ様は明日の朝に。新たな薬は毎朝補充の者が参ります」
今は九時だ。
ディーナは指輪の形をした容器に不穏なものを感じた。ただの薬なら、こんな人の目を欺く外見にはしないだろう。
無駄かと思いつつ、慎重にルカに問いかける。
「……これは何の薬?」
「フェルレッティ家のそば近くに仕える従僕に必要なものです。主人が従僕をしつける手綱であると同時に、従僕の命を守る大事なものなので、飲ませ忘れにはくれごれもご注意を」
眉を寄せたディーナがさらなる詳細を聞こうとしたところで、ノックの音が割って入った。
「噂をすれば」
大股で歩み寄ったルカが扉を開けると、そこにテオドロが立っていた。テオドロもまた、ルカが中にいたことに一瞬目を見開き、しかしすぐに冷たくも見える無表情へと切り替わった。
「ルカさん、なぜあなたがここに」
「仕事に決まってんだろ」
ルカの返す言葉が、初めてディーナと会ったとき同様のぞんざいなものに変わる。表情も取ってつけたようなすまし顔から、今にも舌打ちの音が聞こえてきそうな苛立ちを隠さないものになった。
「そうそう、スピード出世おめでとう。ここ数年で入ってきた下っ端の中じゃ、一番の躍進だな」
「生き残ってるやつが少ないですからね。して、仕事というのは?」
「俺の仕事をお前に教える必要はねぇな」
「ディーナ様に関することなのに?」
即座に言い返されて癪にさわったのか、ただでさえしわを寄せていたルカの眉毛がぴくりと動く。わずかにテオドロの方が背が高いが、その灰色の目を忌々しげに睨みつけている。
だがそれだけで、ルカはテオドロに何をするでもなかった。
「仕事の分担はアウレリオ様の判断だ」
そう言うと、テオドロを押しのけて部屋から出ていこうとした。
けれど扉を閉める前に、痣のついた右側の目だけでディーナの方を見遣り。
「では薬の件、確かにお伝えしましたよ、お嬢様」
ふっと、口角を上げた、嘲るようなその表情の意味をディーナが問いただす間もなく、ルカはすばやく扉を閉めた。
耳の後ろの入れ墨が、嫌に目に焼き付く。
テオドロと部屋に二人きりになってしばらく、無言の時間が続いた。
その間テオドロはじっと扉の方を見つめていたのだが、ルカが完全に遠ざかったのが確認できたのか、向き直って口を開くときには、潜入軍人の顔に戻っていた。
「何かされたか?」
「されてはいないけど、これを渡されたわ」
心配そうな相手に指輪を渡す。ルカに言われたことを伝えると、テオドロは表情を徐々に緩めて、聞き終えると「そういうことか」と合点がいったように呟いた。
「この薬がなんだかわかったの?」
「さっき……雑事をこなしていた場にアウレリオもきていた。ねぎらいに酒を渡されてその場で飲まされたから、まず間違いなくそのときだろう」
「ルカも教えてくれなかったけど、これ何の薬?」
「さてね。ろくでもないモノってことだけは確実だけど」
さらっと言われてディーナは眉を上げた。
「ろくでもない……そんなものをあなたに飲ませるなんてできないわ」
「僕も飲みたくはないな」
「え?」
「ここに来る前に吐き出してきた。飲むかどうかを、あの男がわざわざ確認しに来てるとしか思えないものなんて飲まない」
ディーナはテオドロの勘の良さにほっと胸を撫でおろした。その様子にテオドロも安心させるように笑って、「ただ、時間になったら僕に渡してほしい」と言った。
「飲まないよ。でもあなたの持っている薬がいつまでもそこにあったら怪しまれる。それに、屋敷の近くで待機してる軍の仲間に渡して、成分を調べさせたいから」
「わかったわ」
そこで指輪の薬の話はいったん打ち切られ、ディーナは促されて食事の席についた。
テーブルに並んだ朝食は、パンにサラダ、オムレツから無色透明の水に至るまで、テオドロが「念のため」と称して毒見をしていく。
「まぁ、何も混ぜられてないだろうけど。厨房にベルナルドは行ってないようだったし」
「ベルナルド?」
「幹部の一人。毒の管理を任されている。あまり近づかないほうがいい。異常者だから」
あまりな言いように返す言葉が見つからないが、テオドロは「そうそう」としれっと話を進めた。
「食事が終わったら、この屋敷の抜け道を教えておく」
「抜け道?」
「そう。いざというときは、ここをひとりで脱出する必要もあるだろうから」