15 油断しないで
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晩餐は、驚くほど穏やかに幕を閉じた。
ディーナはあてがわれた部屋の明かりを消して寝台にもぐりこむと、緊張を逃がすように深く息を吐いた。
毒のことは、ディーナとテオドロの思い過ごしだったのだろうか。
いや、アウレリオはディーナの食事の順番を見ていた。貴族のマナーの範囲を超えてきっちり定められたフェルレッティのルールを知っているか、見定められていた。
ただ、実際に肉料理には毒が入ってはいなかっただけで。
(本物だと、信じられたのかしら?)
なら、とりあえず今夜は無事に過ごせると思ってもいいのだろうか。それなら少し、ほんの少し安心できる。
そして、ディーナは寝巻の下に潜ませたロザリオに手を当てた。これも密かな懸念事項だ。
十中八九この屋敷にあったはずのものだから、手放すならどこかの引き出しにでも入れておけばいいだろう。ディーナを無関係な被害者だと思っている、テオドロに見とがめられる前に。
ただ、下手なタイミングで部屋に置いていくと、この屋敷のことを調べているテオドロにばれてしまうかもしれない。
ディーナ・フェルレッティなら持っていてもおかしくないから、他の使用人にはばれてもいいのだが、ディーナ・トスカが持っているはずのないものだから、テオドロにだけは隠しきらないといけない。ややこしい。
(でも良かった。従僕はテオに変えてもらえそう)
――そういえば、彼は今どこに。
脳裏に黒い髪の潜入者のことを思い描くと、同時にここでの立場が上らしいルカが彼を快く思っていなかったことも思い出されて、にわかに不安がわきあがってくる。
また、危険な事態に陥っていないだろうか。そう思って寝台から起き上がろうとしたとき。
首の後ろをおさえられ、口をふさがれた。
「大丈夫、僕だ」
心臓が胸のうちでばくばく暴れる合間を縫って、低い声が耳朶に流れ込む。手の力が緩んだところで首を巡らせれば、月明かりに見知った顔の男が浮かび上がった。
「ごめん、驚かせて。でも部屋の外の護衛、というか見張りに気づかれないよう、声をひそめて」
「……先にそう言って」
恨みがましげな一言に、テオドロは申し訳なさそうに眉を下げ、再び小さく謝罪した。
「でも上手くやったな」
寝台に乗り上げたまま、テオドロが安心したように微笑む。ディーナも身を起こして頷いた。
「思ったほど怖い時間じゃなかったの。食事にも毒は入ってなかったみたい」
その言葉でテオドロの表情が一変する。ディーナは慌てて「食べる順番は守ったわよ」と言い繕い、食堂で起きたことを伝えた。
「食事には、あなたが手を回してくれたの?」
だとしたら、彼は夕食に毒を入れないようアウレリオに直接進言できる立場にいるのだろうか。ディーナは感謝の前振りとしてテオドロに尋ねた。
だがテオドロは、厳しい顔つきのままだ。
「いや。僕は夕食には何も」
「……じゃあアウレリオは、本当に毒を入れなかったということ?」
「もしくは、きみの前で食べて見せる、その行為が罠だったか。事前に中和させる手段を確保してた可能性もある」
やっぱりそうだったのだろうか。
「アウレリオ、妹を殺したのは本意じゃなかったみたいなことを言ってたけど」
「本人が目の前にいるからだろう。何かしらの利用価値を見出して捜していたなら、会って早々喧嘩は売らない」
「そ、それもそうだけど」
でも、本当にそうだろうか。
今回ディーナを捜し出した目的はともかく、過去に殺そうとしたのは、本当にあの男の意図したことではないような気がした。
口ごもるディーナの態度に何を思ったのか、テオドロは乾いた声で尋ねてきた。
「ほだされてる?」
「え?」
「奴が家族に焦がれる、孤独な、かわいそうな男に見えた?」
ディーナは言葉に詰まった。
図星だったからではない。テオドロの目に、凍てつく殺意を見つけてしまったせいだ。
よく研いだ剣のようなテオドロと二人きりでいることを唐突に自覚して、緊張感が背を貫いた。
「油断しないで、奴が最初に人を殺したのは十六歳のときだ。相手は部下で、毒でさんざん苦しめた末のこと。十年前、ディーナ・フェルレッティが死んだとされる時期の直後だった。そのあとも、自分にたてつく人間を何人も殺した。毒薬や麻薬の実験台にされた者もかなりいる」
淡々と語られるアウレリオの過去は、軍が調べ上げたものだろう。そうに違いないのに、ディーナにはテオドロがその場に居合わせて見届けたことのように、聞こえた。
「それまで、奴は南方の田舎町で聖職者見習いとして過ごしていたとされている。それが、この家に迎え入れられた途端にそれだ。神の家ですら、生まれながらにフェルレッティの血にすみつく悪魔を消し去ることはできなかった」
沈黙が、部屋を満たす。
何も言えなくなったディーナに、テオドロは少しだけ笑った。困ったような、揶揄するような歪んだ笑みだった。
「あなたは聖職者だ。罪を許す人だから、『絶対に許されない人間』がいるなんて、よくわからないのかもしれない。わからなくていい。ここから帰ったら、全て悪い夢だったと思ってほしい」
テオドロはそう言って腰を上げかけた。寝具が反動で揺れる。抑え込まれていたものが開放される感覚につられて、ディーナはとっさに声をかけていた。
「ねぇ、もしも、もしもよ。目の前に、本物のディーナ・フェルレッティが現れたら、テオはどうするの?」
「あり得ない。彼女は死んでる」
「生きてたら? 兄が捜してると知って、ここに現れたら? 十歳の頃に、この家から離れて、静かに暮らしていた彼女を……」
ごく、と喉が上下する。
「殺すの?」
「……まさか。証拠を固めて、兄貴もろとも絞首台に送るだけだ」
嘘だ。
灰色の目の奥で、黒い憎悪の炎が燃え上がるのが、ディーナにははっきり見えた。
かき乱された心臓の上で、ロザリオの冷たさが肌を刺す。首にかかる鎖をみとがめられはしないかと、思わず隠すように髪を胸の前に梳き、そのまま無意識に、両手を胸の前で組んでいた。
ディーナの怯えのしぐさから、テオドロが目を逸らす。
「そういえば、僕を従僕にするのも通ったようでよかった。ルカに言い張ったときはちょっとヒヤッとしたけど。なんせ彼――いや、なんでもない」
途中で切った言葉が気になったが、テオドロはすぐに話を変えた。
「心配しなくても、今度の客人をその場で殺したりなんかしない」
「……客?」
「なんだ、それで変なことを言いだしたんじゃないのか?」
ディーナの反応に、テオドロは眉を上げ、拍子抜けしたような顔をした。
「もうひとり、ディーナ・フェルレッティを名乗る人間が見つかったらしい」




