11 到着
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玄関広間に入って、すぐ目の前の大階段。中央踊り場の、古代の王と家臣たちの宴会を描いた油彩。宝石をぶら下げたかのようなシャンデリア。大きな窓。大理石の床。
十年ぶりに見る生家に、特別な感慨はわかない。
あるのは、二度と見ることはないはずだったのにという絶望に似た気持ちだけだった。
「アウレリオ様とは晩餐で顔を合わせることになるんで、それまでに支度を。……この屋敷のしきたりは、もちろんご存じですね?」
「十年前と変わってないならね」
客間まで案内したルカのわざとらしい確認に、ディーナは平静を装いながら答える。
この屋敷にいた頃、ディーナがアウレリオに会うことは一度もなかった。どんな男なのか聞いたこともないし、絵姿を見たことすらない。
自分を殺して当主の椅子に座った男との晩餐なんて、果たして明日を無事に迎えられる気がしなかった。
不安を払拭したくて、入り口付近で立ち止まったテオドロの方を見る。彼は微笑んでディーナに一礼してみせた。
「では、自分はこれにて」
「えっ、テオはどこにいくの?」
てっきりずっとそばにいてくれると思っていただけに、部屋にルカと二人残されるのかと慌てて問いかける。青ざめたディーナに、憮然としたルカが答えた。
「彼はアウレリオ様のご命令で、あくまで迎えに行ったに過ぎないんで。身の回りの護衛や世話は、改めて」
「そんな、テオがいいわ!」
「……アウレリオ様がお伝えするはずで」
「テオがいいわ!」
「……」
「…………テオがいいわ」
列車での一件で、ディーナの中にはテオドロを恐れる気持ちも生じていた。
けれど、ディーナ・トスカも、ディーナ・フェルレッティも殺すかもしれないフェルレッティ家において、少なくとも前者は守ってくれるテオドロだけが、結局は信じられる相手だった。
「レディ、ルカさんも僕も他の仕事に向かいます。着替えはメイドが手伝いますが、すぐにまたお会いできますよ」
視線で射殺さんばかりのルカに代わって、テオドロが言う。ルカも一緒に部屋を出ていくというので、この場では引き下がるしかない。
「……なら、また後で」
***
メイドが入浴を手伝おうとするのを死にものぐるいで固辞したディーナは、ひとりきりの浴室で港町の宿での夜を思い出していた。
――赤毛を金色に染められながら、ディーナはドレッサーの鏡に映る根っから黒い髪の男に問いかけた。
「フェルレッティの屋敷では、わたしはどうしたらいいと思う?」
「ひたすら、アウレリオに妹だと信じさせる。と言っても、十年前の兄妹に面識はなかったし、むしろ友好的なほうが不自然だから、適度によそよそしくしてていいんだ。ただ、堂々としていて」
返ってきた答えに、ディーナは少し迷ってから抗議した。
「それだけじゃなくて、あなたが任務を達成するために何ができるのかってことよ」
「それは考えなくていい。僕に関しては、必要な時に使う護衛以上には気にしないこと」
「そんなわけには」
「危険だ。妙な動きをしていると察知されたら、実の妹であっても殺されるかもしれない」
ぞくりとした。それはそうだ。むしろ、自分は妹だからこそ殺されかけた。
それに、素人の自分にできることなどほとんどないだろう。勝手をすれば、彼の邪魔になるのはわかる。
が。
「でも、アウレリオの一手下であるテオより、きっとわたしの方が機密情報に楽に近寄れる」
「ディーナ」
こめかみから髪を梳くコームを止めたテオドロが鏡越しに睨んでくる。ディーナはそれを受け止めて、しかし退かなかった。
「どうせ、時間がかかればわたしが死ぬ確率は高くなるもの。一蓮托生じゃない、使えるものは、なんでも使って。わたし含めて」
これも本音だ。フェルレッティに長く深く関われば、死は近づく。
しかもディーナの場合、危機は両方から迫って来る。兄たちからも――このテオドロ・ルディーニからも。
男はしばらく渋い顔で鏡越しにディーナを見ていたが、視線を髪に戻して低い声で話し始めた。
「……フェルレッティ家を潰すにあたって最大の難関は、関係者を起訴しても有罪にできないところにある」
櫛が耳の後ろを滑っていく。冷気がうなじを震わせた。
「苦労して証拠を押さえてもいつの間にかそれが消える。証人は突然証言を拒否するし、悪いと失踪する。裁判官は異様なほど被告人寄りの判断を下す。国の中枢のあらゆるところに、フェルレッティの協力者が紛れ込んでいるからだ」
「さ、裁判官にも……?」
「普段屋敷の外にいることから“外飼い”と呼ばれてる。買収されてる者もいるだろうし、脅されている者、洗脳されている子飼もいるだろう」
長い指が髪を掬い上げて、塗り残しがないかを丹念に確認していく。櫛が薬剤の入った皿に立てかけられる音がした。
「だからまず、協力者が誰なのかを把握する必要がある」
テオドロが脱いだ薄い手袋も、皿の上に置かれる。あとは所定の時間放置して、洗い流すのだ。
「協力者のリストがあればいいのね」
「そう。そして同時に、奴らを確実に裁くための物的証拠がいる。表に出せない取引の詳細を記した帳簿だとか」
「わかった。探してみるわ」
ディーナが言うと、テオドロは苦笑いし、「探さなくていい。意味不明な紙類を見ても、片っ端から捨てないようにしてくれれば」と釘を差してきた。
「……あとひとつ、前提として、僕がアウレリオや上級幹部に何かされていても、あなたはいちいち気にしないこと」
ディーナは目を丸くした。
「……昼間みたいな場面で黙ってろって言うの?」
「ディーナ・フェルレッティなら気にしない」
すぐには二の句が継げなかった。
断言するその口ぶりは、まるで知人を語るかのようだ。軍の情報部では、十年前に死んだ少女の人柄まで調べ尽くされているのだろうか。
「……でも、彼女は十歳までしか屋敷にいなかったんでしょう。十年経ったら、人は変わるわ」
テオドロは表情を変えず、淡々と道具を片付け続ける。ディーナはさらに食い下がった。
「ディーナ・フェルレッティだってもし生きてたら、屋敷に行くのを警戒しそうじゃない? それでも行く決意をするとしたら、迎えに来た人を信用したからよ」
椅子から立ち上がって、目を合わせない男の前に回る。
自分は嘘つきだし、保身ばかり考えている。
けれど、彼を見捨てるのに抵抗がないと思われたくなかった。
「そういう相手が大変な目に遭ってたら、止めに入るわ、きっと」
二人の間に短い沈黙が流れた。ふと、この会話を本物のフェルレッティの幹部に聞かれていたらどうしようと思い至る。
「……それに、わたしが屋敷につくなりあなたに冷たくし始めたら、それこそルカに変だと思われる」
苦し紛れに言ったことが、とどめになったのか。
テオドロは、ひとつ重い息を吐いて、伏せていた目線をディーナに合わせた。
「心配しなくても、任務を遂行するまでは、僕もそう簡単にはくたばらない。これでも、一年近くフェルレッティの幹部と渡り合ってきてるんだから。……三十分経ったら洗髪しよう」
話をそらされたと感じていたが、もうディーナは固い顔で頷くしかなかった。
テオドロの任務において、自分は予定外の存在。
彼のためにできるのは、任務の邪魔にならないことだけ。
(はやくここから脱出するためにも、帳簿とリストを探し出さなきゃ)
体を拭き、最低限の下着まで自力で身につけてから、ディーナはメイドを呼んだ。
知らない顔のメイドだ。ここにきて、顔を見知っている人間を一人も見ていない。
みんな入れ替えられたのだろうか。
『ディーナ・フェルレッティなら気にしない』
その言葉を否定したかったのは、ショックだったからだ。
――十年前の自分は、本当にそうだったような気がしたからだ。
自分は、もともと、身近な人間がどうなろうと、何も思わない人間だったと。